§3.7 女王の口づけ
結衣は恐る恐るグラスを手に取り、一口含んだ。
「……っ! 甘くて美味しい!」
顔がぱっと明るくなる。居酒屋でビールを飲んだ時の苦い顔とは大違いだ。
「よかった。さっきは悪いことしたから」
「ううん、こんな素敵なお店連れてきてくれて、ありがとう」
結衣は嬉しそうにもう一口飲んだ。
「それにしても、樹くんとマスター、仲良さそうだね」
「まあ、さっきは『たまに』なんて言ったけど本当はちょくちょく来てるから。共同研究の打ち合わせの後とか、一人でふらっと来ることも」
「へー、樹くんお酒好きなんだ」
「好きだよー、何でも飲むよー、ヒック!」
樹は酔ったふりをしながら、ウイスキーをくるくる回した。
「あはは、酔っぱらいだ。でも、ウイスキーなんて大人っぽいね」
「そう? 結衣さんは、何か飲んでみたいお酒とかある?」
結衣は少し考えてから、恥ずかしそうに答えた。
「実は……映画で見て、憧れてるカクテルがあって」
「へー、何?」
「マティーニ……」
樹は少し驚いた表情を見せた。
「マティーニか……『カクテルの女王』って呼ばれるやつだね。結構アルコール強いけど」
「やっぱり無理かな……」
「いや、試してみる? 一口だけなら」
結衣の目が輝いた。
「いいの?」
「Master, could she try a Martini? Maybe a small one?」
(マスター、彼女にマティーニを。少なめで作ってもらえる?)
「A Martini for the lady? Sure, I'll make it lighter.」
(お嬢様にマティーニを? いいよ、軽めに作ろう)
マスターは慣れた手つきでシェーカーを振り始めた。やがて、逆三角形のグラスに透明な液体が注がれる。オリーブが刺さったピックが、静かに揺れている。
マスターは結衣に向き直り、日本語で優しく忠告した。
「気をつけて。強いお酒です」
「はい、ありがとうございます」
結衣は緊張した面持ちでグラスを手に取った。
結衣は憧れの女優の仕草を思い出しながら、グラスを唇に近づけた。一口含むと、アルコールの強さが喉を焼く。
「……っ、強い……でも」
意外にも、ドライな味わいが気に入った。もう一口、そしてもう一口。気がつけば、三口ほどで小さめのグラスを空けていた。
「美味しかった……」
グラスをカウンターに置いて、オリーブのピックを口に運ぶ。そして樹の方を見つめた。
「樹くん……今日、すごく楽しい……」
その目が少しトロンとしている。頬もほんのり赤い。
「結衣さん、大丈夫?」
「うん……ふふ、なんか体がぽかぽかする」
結衣はにこにこと笑いながら、少し体を揺らしている。
「樹くん、知ってる? マティーニって……女王様なんだって」
「うん、さっき言ったよ」
「そっか……えへへ」
その姿は、完全に酔っていた。ふにゃふにゃとした笑顔で、おぼつかない手つきで樹の袖を掴んでは、また離す。
(めちゃかわいい)
樹は心の中でつぶやいたが、同時に焦りも感じていた。
(でも、こんな状態の女の子をどうしよう……家まで送るにも、住所聞いても要領を得なさそうだし)
「結衣さん、お水飲む?」
「んー、樹くんがくれるなら……」
樹はマスターに水を頼み、結衣に飲ませた。
「Master, could you call a taxi for us?」
(マスター、タクシー呼んでもらえる?)
「Sure, where to?」
(もちろん、どちらまで?)
困った。結衣に聞いても、「ひみつ〜」とか「樹くんと一緒ならどこでも〜」とか言うばかりだ。
(ホテルは絶対ダメだし、ネットカフェも……仕方ない、研究室しかないか)
「To the university, please.」
(大学までお願い)
「Got it.」
(了解)
樹は結衣の腕を支えながら立ち上がらせた。
タクシーを待つ間、結衣はスマホを取り出してLINEを開いた。
「洋子〜、聞いて聞いて〜」
覚束ない手つきで文字を打つ。
「樹くんやさしい……バーきた……マティーニのんだ……」
そして最近買った、樹と同じクマのスタンプを連打する。踊るクマ、転がるクマ、変な音を出すクマ。
「結衣さん、何してるの?」
「洋子に……報告〜」
樹が画面を覗き込む前に、結衣は送信ボタンを押した。
「タクシー来たよ」
「はーい」
次回「第4章 夜明けの残像/§4.1 研究室の夜」
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