§3.4 夜の始まり
金曜日の夕方。
駅前の時計が6時を指し、街が週末の活気に色づき始める。樹は少しそわそわしながら、人波の中に彼女の姿を探していた。
(結衣さん、まだかな……)
人混みの中、ふと誰かに袖を引かれた。
「あの……樹くん?」
振り返ると、そこには見覚えのない女性が立っていた。白いブラウスにネイビーのフレアスカート、髪はハーフアップにまとめられ、薄くメイクをした顔は……
「結衣さん!?」
思わず声を上げてしまった。いつものジーンズ姿とは全く違う、女の子らしい格好の結衣がそこにいる。
「よかった……やっぱり、人違いじゃなかったんだ」
恥ずかしそうに頬を染めながら、結衣はスカートの裾を軽く摘んだ。
「ごめん、一瞬分からなかった。なんか……すごく印象が違って」
「変かな?」
「ううん、似合ってる。すごく」
その素直な言葉に、顔がさらに赤くなった。
「洋子が……友達が選んでくれたの。私、こういうの慣れてなくて」
「そうなんだ。似合ってるよ」
自分のカジュアルな服装を見下ろす。普段の研究室でのシャツ姿とは違い、ラフなTシャツにジーンズという格好だ。
「僕の方こそ、ラフすぎたかな」
「ううん、樹くんも普段と違って……いいと思う」
「じゃあ、行こうか。店まで少し歩くけど大丈夫?」
「うん、大丈夫」
二人は駅前の雑踏を抜けて、繁華街へと歩き始めた。結衣は慣れないパンプスで、少しぎこちない歩き方をしている。
「その靴、歩きにくそうだね」
「ちょっとだけ……でも、ヒール低いから平気」
結衣は強がってみせたが、樹は歩調を少し落とした。
「ゆっくり行こう。まだ時間あるし」
「ありがとう」
しばらく無言で歩いていたが、結衣が空を見上げた。
「なんか曇ってきたね。雨、大丈夫かな」
「大丈夫だと思うよ。さっき天気予報で『高気圧に覆われて安定してる』って言ってたから」
「へー、そんなとこまでチェックしてるんだ」
「たまたま目に入っただけだよ」
軽く流すように答え、しばらくして足を止めた。
「ここだよ」
樹に案内されたのは、路地を一本入った場所にある落ち着いた雰囲気の居酒屋だった。木の看板に「個室居酒屋 縁」と書かれている。
「わあ、雰囲気いいね」
「知り合いに教えてもらったんだ。個室だから落ち着いて話せるし」
店内に入ると、店員が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
「はい」
スマホを取り出すと予約画面を店員に見せた。
「確認いたしました。二名様ですね。こちらへどうぞ」
案内された個室は、落ち着いた照明の和風の空間だ。掘りごたつ式で、足を伸ばせるのが嬉しい。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
店員が注文を取りに待機している。
「とりあえず生中二つで」
反射的に注文すると、結衣の表情が少し曇った。
「かしこまりました」
店員が去った直後、別の店員が通りかかる。樹は思わず声をかけた。
「すみません! 厳選おつまみ十種盛りお願いします!」
思いがけない大声に、結衣の肩がピクリと跳ねる。
「あ……あの、樹くん。実は私、お酒あまり得意じゃなくて……」
困ったように眉を下げた。
「え? そうだったの? ごめん、聞けばよかった」
樹は慌てた様子で謝った。
「でも、一口くらいなら……今日暑かったし」
遠慮がちに結衣が言うと、樹は少し安堵した。
「そうだね、今日は暑かったから、美味しいと思うよ」
すぐに生ビールが運ばれてきた。泡が綺麗に立った黄金色のジョッキが二つ、テーブルに置かれる。
「じゃあ、かんぱい」
二人はジョッキを軽く合わせた。
結衣は恐る恐る一口飲む。喉を通り過ぎる苦味と炭酸の刺激に、思わず眉をひそめる。
「……に、苦い……」
その表情を見た樹は、すぐにタブレットを手に取った。
「あ、ごめん。お好きなものをどうぞ」
樹はタブレットのドリンクページを結衣に差し出した。
「ごめんね、先に飲み物を聞いておけば……」
申し訳なさそうにする樹を見て、結衣は少し微笑んだ。
「大丈夫。じゃあ、このジンジャーエールにしようかな」
たどたどしくタッチパネルを操作する結衣に樹は、
「ここを押して、こうすると注文完了だよ」
結衣は真剣な眼差しで、タブレットから慣れた手つきで注文する樹の指先を見つめた。
「ああ、なるほど……お店によって画面や注文方法が違うから、なんだか慣れてなくて」
注文の仕方を理解したといった顔で結衣は言った。
「僕はさっきタブレットがあるのに気付いて……店員さんに大声で注文しちゃって、恥ずかしかった」
樹は照れくさそうに頭をかきながら、結衣の飲みかけのジョッキを自分の手元に寄せる。
「これは僕が責任を持っていただくよ」
当たり前のようにそう言って、結衣のジョッキから一口飲む。
(えっ!? それって間接キ……)
結衣の顔が一気に赤くなった。中学生みたいなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。
「ん? どうかした?」
「い、いや、何でもない……」
結衣は慌てて手をひらひらと振った。
「そう? 顔赤いけど、お酒のせいかな」
「う、うん、多分そう……」
結衣はごまかすように頷いた。ちょうどその時、厳選おつまみ十種盛りが運ばれてきた。
次回「§3.5 個室の二人」
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