§2.4 食事の誘い
しばらく沈黙が続いた後、結衣は小さくため息をついた。
「……分かりました」
ゆっくりとソファに戻って結衣は言った。
「でも、条件があります」
「何でも聞く」
「一つ目、本当に嫌になったらすぐやめる。二つ目、研究に夢中になりすぎたら、私が注意したらちゃんと聞く」
「もちろん」
「三つ目……」
結衣は少し言いにくそうにした。
「私のことを、ちゃんと人間として見てください。データじゃなくて」
その言葉は、まるで鋭い棘のように樹の胸に突き刺さった。
「本当に、ごめん……」
「謝罪はもういいです。それより……」
結衣は顔を上げた。まだ少し涙の跡が残っているが、表情は落ち着いている。
「今日はもう、続けられません。頭も心も、ちょっと疲れちゃって」
「うん、当然だよ。今日はもう終わりにしよう」
樹はホッとしたような表情を見せた。結衣が完全に帰ってしまわなくて良かった。
「あの……レポートの進み具合とか、聞いてもいい?」
樹の気遣いに、結衣は小さく微笑んだ。
「借りた本のおかげで、ほぼ完成しました。樹くんのおかげで」
「それは良かった」
樹は立ち上がって、デスクの引き出しから封筒を取り出した。
「これ、今日と前回の分の謝礼」
「あ……」
結衣は封筒を受け取った。中には1万円が入っている。
「本当にもらっていいの?」
「当然だよ。むしろ、こんなに大変な思いをさせて、この金額じゃ少ないくらい」
樹は申し訳なさそうに続けた。
「3回目……もし続けてもらえるなら、来週はどう?」
結衣は少し考えてから頷いた。
「来週の火曜日なら空いてます」
「じゃあ、火曜日の14時で。今度こそ、ちゃんと結衣さんのペースに合わせるから」
「信じていいんですよね?」
「うん、約束する」
結衣は立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
何か言いたそうにしている樹だが、なかなか切り出せない。
「あの……結衣さん」
「何?」
「3回目が終わったら……その後で、お詫びと感謝を込めて、食事でも一緒にどうかな」
手を止めて、結衣が振り返る。
「食事?」
「うん。今日のことも、本当に申し訳なかったし……研究に協力してもらったお礼も、個人的にちゃんとしたい」
樹は慌てて付け加えた。
「もちろん、嫌なら無理にとは言わない。でも、研究とは関係なく、普通に話もしてみたいなって」
一瞬、戸惑ったような表情を見せた結衣は、
「……考えておきます」
「うん、それで十分」
研究室を出る時、結衣は振り返った。
「樹くん、今日のこと、ちゃんと反省してくださいね」
「もちろんだよ。本当にごめんなさい」
ドアが閉まった後、樹は深くため息をついた。自分が何をしてしまったか、改めて思い知らされる。
研究への没頭が、大切なものを見失わせていた。
次回「第3章 甘い毒、溶ける理性/§3.1 最後の問いかけ」
毎日朝7時20分に更新です




