第1章 未知との邂逅/§1.1 好奇心とためらい
「……膣分泌液が……バルトリン腺から分泌されて……」
「一般的な言葉では?」
研究室のソファで、私は顔を真っ赤にしながら震える声で答えた。
「……濡れます」
「なぜ濡れる必要があるの?」
「滑りを……よくして……男性を受け入れやすくするため……」
理工学部の先輩の前で、私は今、人生で最も恥ずかしい説明をしている。
これが「研究協力」だなんて――
あの恥ずかしい問答から、さかのぼること数日。
「今日は午後から晴れるって樹くん言ってたけど、本当に晴れたね」
6月中旬の火曜日の午後、梅雨の晴れ間がのぞく蒸し暑い日。研究棟の廊下で、樹とユイはそんな何気ない会話を交わしていた。
「あ、そうだ。樹くん、レポートのことで相談があるんだけど、聞いてもらえる?」
ふと思い出したように、ユイが話を切り出す。
学部こそ違うが、一年以上前からキャンパスで時々顔を合わせる親しみやすい先輩――彼女にとって樹はそんな存在だった。
いつからか自然に「樹くん」「ユイさん」と呼び合う関係になっていたが、お互いのフルネームは知らないまま、気楽な付き合いが続いていた。
少し困ったような表情を浮かべる彼女に、樹はいつもの優しい笑顔を向ける。
「レポート? もちろんいいよ。どんなことで困ってるの?」
彼の言葉に、ユイはほっとした表情を浮かべる。実は最近、解剖学のレポートで行き詰まっている。
周りの同級生たちはもう書き終えているんじゃないかと焦りばかりが募っていた。
「解剖学のレポートなんだけど、筋肉の起始停止の覚え方がイマイチ掴めなくて……」
「起始停止か。それは確かに覚えるの大変だよね」
「やっぱり知ってた。樹くんって、バイオイン……なんとかやってるって前に言ってたよね」
「バイオインフォマティクス(Bioinformatics)ね」
「そう、それ。正直、何やってるのかよく分からないんだけど、たしか医療関係の……だったよね?」
ほんの少し苦笑いを浮かべながら樹が説明をする。
「簡単に言うと、コンピューターで遺伝子データとか解析して、病気の原因探したり新薬開発したりする研究かな。だから医学の知識も必要になるんだ」
「へー、なるほど。じゃあ本当にちょうど良かった」
「どの筋肉で困ってる?」
「特に上肢の回旋筋腱板のあたりが複雑で……あと、まとめ方も分からなくて」
ユイの悩みを聞いた樹は少し考え込み、ふと思い付いたように言った。
「それなら、研究室でゆっくり話そうか。お茶とお菓子くらいは出せるから」
「研究室?」
少し驚きながら(理工学部の先輩が研究室を自由に使えるなんて、きっとゼミの指導教授が優しい人なのだろう)と、ユイは内心でそう思った。
「うん、たしか今なら空いてるし。落ち着いて話せる方がいいでしょ?」
(理工学部の研究室には機密性の高い研究データや資料なんかもありそうだし――部外者の自分が入るのは正直気が引ける)
「でも、研究室って勝手に入っていいの? 私、医学部だよ……?」
遠慮がちに、ユイが尋ねた。
「全然大丈夫だよ。たしか……今は誰もいないはず」
さも当たり前のように樹が答えるのでユイも安心したようだ。
(樹くんがそう言うなら大丈夫なのだろう。理工学部は医学部と違って、先輩も研究室を自由に使えるんだな)
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えて」
ユイは素直に頷いた。
「じゃあ、行こうか」
二人はエレベーターで3階へ向かった。廊下を歩いていくと、いくつかの研究室が並んでいる。慣れた様子で、樹が一つのドアの前に立ち止まる。
ドアのプレートには「水瀬研究室」とあり、樹はカードキーをかざし、電子音とともにロックが解除された。
「どうぞ」
「お邪魔します」
少し緊張しながら、ユイが中へ足を踏み入れた。
研究室は思っていたよりも広い。最新の機器が整然と並んでおり、詳しくは分からないが、モニターがいくつも並んだワークステーションや、見たこともない分析装置らしきものまで置かれている。奥にもいくつかドアが並び部屋があるようだ。
「こっちがいいかな」
樹は手前の休憩スペースのような場所へユイを案内した。簡易キッチンと大きめの冷蔵庫、それに座り心地の良さそうなソファが置かれている。
「すごく設備が整ってるんだね」
「まあ、長時間こもることも多いからね」
冷蔵庫を開けながら、樹はさらりと答える。
「そこに座って。お茶がいい? それともコーラ? 午後の紅茶もあるよ」
「お茶でお願い。甘いものや炭酸は、普段あまり飲まないから」
ソファに腰を下ろしながら、ユイは改めて周囲を見回した。
(こんなに充実した研究室なんて、きっと重要な研究をしているところなんだろうな)
「すごく居心地のいい場所だね。研究しながらここで生活できそう」
「まあね。実際、泊まり込むこともあるし。――そうだ、明日からまた雨が続くみたいだから、傘を持ち歩いた方がいいよ」
「え、そうなの? 天気予報見てなかった」
「西から低気圧が近づいてるから、今日の夜からかな、たぶん3日くらいは降りそう」
窓の外を見ながらそう言うと、お茶をユイの前に置いた。
「それで、レポートの件だったよね?」
ユイがお茶を一口飲んで落ち着いたのを見計らい、話を切り出す。
「うん、筋肉の起始停止の覚え方がイマイチで……。教科書の表現も難しくて」
「ああ、医学用語って独特だよね。一般の人が聞いたら全然分からないような」
樹はノートパソコンを開きながら、解剖学の参考資料を検索し始めた。
「本当にそう! 患者さんに説明する時も、どう言い換えたらいいか悩むと思う」
ユイの言葉に、樹は手を止めた。
次回「§1.2 交換条件」
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