狼の群れ
教室からダンボール、机、椅子と順番に運び出す。その作業だけで日が落ち、廊下まで薄暗くなってきた。
「……あの探偵様はとうとう戻ってこなかったな」
ようやく作業に区切りが付いた辺りで、呆れ果てた様子で大斎が言う。作業の中吾大が何度かプルプルと小刻みに震える様を眺めてか、若干の苦笑が混じっている。
「うん。自分の選択をこれ程までに後悔したことはないよ」
父親の死の真相を知ることを条件に助手になったものの、ここまでコキ使われることになるとは思わなかった。今のところ、怪異が絡む事件に駆り出された訳ではない。むしろ、あの件以来そういった事件、どころか妖しい噂話すら耳にしない。
(……結局、あの時のことも白昼夢だったって言われた方が納得できるし……)
怪物――狼になった遊苑囚子。
それを赤い鎖で絡め取って、紙に封じ込めた璃桜・ブラッドグラス・ファニーナイト。
探偵を自称するヴァンパイア。
一つ一つのワードがどれも現実味に欠ける。
自身がヴァパイアであることを璃桜からカミングアウトされた後、特に口止めをされたり、脅されたりということはなかった。
それならば、と憂さ晴らしも兼ねて吾大は大斎に訊ねる。
「……麦ちゃんって、ヴァンパイアとか信じる?」
「ん? どしたの、急に?」
「まあまあ。ちょっとした息抜きだと思って――いると思う?」
「いるよ、ヴァンパイアは」
予想よりも早く断言する大斎に、表情にこそ出さなかったが、少なからず吾大は驚いていた。いつも学園で話をしている時は、オカルトや噂話など興味を持たない、現実主義者のような印象が強かったからだ。
「あっ、そう……。意外だったかな、麦ちゃんってそういうの信じないタイプだと思ってた」
「今までそういう話題をしてなかったってだけじゃん。普通に興味あるよ、オカルト」
額に浮かんだ汗を拭いつつ、大斎は答える。興味がある、とは言いつつも大斎は表情を曇らせていた。
「……大方、あの探偵様の影響でしょ? やっぱり、気乗りはしなかったんだけどね」
今更言うことじゃないけれど――そして、作業を再開する大斎。以前、探偵の助手に勧誘された件を相談した時から感じていたことだが、彼女の璃桜に対する心象は悪い。
だが、それ以上に大斎麦はあまり学園の生徒と関わりを持とうとしない。裕福な家庭でぬくぬくと育った令嬢達が好きではない、と以前本人から聞いたことがあったが、それにしては吾大に対しては親身になって相談に乗ってくれているし、他の生徒達と普通に話をしているのを見たことがある。
「……やっぱり、嫌だった? 璃桜さんから押し付けられた作業を手伝わせちゃって……」
「ん……。あの女に『自分でやれや!』って怒鳴り付けてやりたい気持ちは勿論あるけれど――それでアンタに文句垂れるのも違うでしょ。久那に頼まれたんなら、別に断る理由は無いし」
「前から思ってたけれど、麦ちゃんって私に特別優しくない? 私何かしたっけ?」
「別に。アタシは誰に対してでも優しいのよ」
嘯きつつ、雑巾で手早く窓や床を磨いていく。その手際の良さに思わず魅入ってしまう程だ――勿論、魅入ってばかりで、任せてばかりでいる訳にもいかないので、早々に吾大も清掃に戻る。
「……誤解を恐れずに言うなら、この学園の生徒の大半は良い奴よ。アンタからしたら納得できないかもしれないけれど」
「大丈夫、分かってるよ。私のアレは……うん、例外だと思ってる」
「へえ……。っていうか、前々から思っていたけど、アンタってさ、案外ポジティブよね」
「そうかな? だとしたら、麦ちゃんみたいな良い人に会えたからかもね」
何気なく思ったことをそのまま口に出したつもりだった。
褒めたつもりだったが、大斎は沈痛な表情を浮かべていた。
「……アタシが良い人?」
「違うの?」
「……………………」
赤面しながら、首を横に振る大斎を見て、吾大はニヤリと意地悪く笑う。大斎の耳が赤くなっているのが見えた。
「……アタシちょっと飲み物持ってくるから」
「了解。じゃあ、お礼に奢るよ」
言いながら、小銭入れを取り出すべく、制服のポケットに手を入れる。
「お構いなく……っていうか、この学園の自販機ってあんまり種類無いじゃん。水か、お茶か、スポドリ」
規律に厳しい風潮故か、学園の購買に置かれている物は大体が文具、自販機は緑茶か水か、スポーツドリンク程度しかない。生徒もお金の所持を認められているが、財布を出すのは自販機か、購買、もしくは食堂くらいだ。
「これでも大分緩くなった方なんだって。昔は弁当持参、飲み物持参……購買で文具買うための金しか所持を認められなかったらしいし――金を持って来なければ、娯楽に興じることなく、学業に専念できるってことなんでしょうよ」
マジで下らない――痛烈に皮肉るように、あるいは嘲笑うかのように、大斎は吐き捨てる。いかに実家が裕福であろうと、教師が厳しく目を光らせる学園においては、年相応に興味を持つであろう恋愛の話ですら軽々と口にすることはできない。ましてや、学園を批判するような発言も、本来であれば控えるべきなのだが、それを気にするような大斎ではないことを吾大は良く知っていた。
「璃桜さんにも何か持ってこよっか?」
「それこそお構いなくだよ、むしろあの人に奢らせよう」
今教室を出れば鉢合わせるかもしれないと思い、吾大も付いて行くことにした。本当に会えたら先輩後輩、探偵とその助手という垣根を一旦取っ払って滅茶苦茶苦情を入れてやろうと息巻いて――
「あら、大斎さんじゃないですか」
教室から出た直後だった。
品のある甘い声で大斎が呼び止められた。
鉢合わせたのは璃桜ではなかったが、それと同じくらいにはこの学園では有名人だ。
更織大義。何とも勇猛そうな名前に反して、ウェーブの掛かった金髪と白い肌の人形を思わせる美少女として、璃桜とは同じ中等部3年として人気を二分している。その証拠に、彼女の派閥に属する生徒数名が、更織の背後に控えている。
(……流石の私でも、この人の人気は理解できる)
人形のような美貌、と表現したが、それ以上に目を惹いてしまうのは更織の左目を覆う眼帯だった。
噂によると、過去に事故で失明してしまったからだというが、それを含めても更織大義は美しかった。
璃桜が完成された美しさだとしたら、更織は失って尚輝く美しさだろう。
「何か、私の顔に付いていますか?」
あまりにもジロジロと見過ぎてしまったのか、更織は穏やかな笑みを浮かべたまま小首を傾げる。寛容で穏当、慈悲深い性格なのは分かった――背後に控える派閥の生徒達からはゴミを見るような侮蔑の眼差しを向けられているが。
「い、いえ……失礼しました!」
「久那、そんなに畏まることないから――御機嫌よう、更織先輩」
「ええ、御機嫌よう、大斎さん。そちらは吾大久那さんですね、初めまして」
不愛想のまま挨拶を交わす大斎とは対照的に、更織は変わらず穏やかに微笑んでいる。
「はい……初めまして、吾大です」
思いがけない有名人との邂逅に、ガチガチに固まりながら挨拶をする吾大。更織が口元に手を当ててクスクスと笑う――所作の一つ一つが実に優雅だ。
「……ちょっと」
「ああ、ええと……ごめんなさいね。あなたのお友達にしてはあまりいないタイプの子だったから」
「そりゃあ、そうでしょうね。過去にアンタに私の友人を紹介したことは無いし、最近まで友人なんていなかったし」
「あら、私はあなたの学友であり、良き先輩として接してきたつもりだったけれど?」
「それはアンタの親衛隊側の感想でしょ。アタシは違う」
自分を抜きにして次々と会話が進んでいく。完全に会話の輪からは置き去りにされてしまったが、特に不服に思うことはなかった。
既に学園の有名人に認知されるどころか、助手認定を受けてしまった身としては、これ以上面倒事に巻き込まれるような要因を抱え込みたくはない。
(……更織さんの後ろの親衛隊が殺気立った目で見てきてんだってば)
取り敢えず、親衛隊の皆様には適当に愛想笑いをしつつ、気配をギリギリまで消して、この場を誤魔化すことに徹することにした。
「用件が無いなら行って良い? アタシ達これから楽しいお茶会と洒落込むところだったんだから」
「意外だわ、あなたがお茶を嗜むなんて。……そもそもあなたってどんな飲み物が好きだったかしら?」
(いえ、そんな大層なものじゃないんです……。お茶会って……精々ペットボトルの緑茶を一気飲みする程度なんですって……)
格式や礼儀もあったものじゃない。改めて、目の前の深窓の令嬢とは住んでいる世界が断絶していると思い知らされる。
更織が思いの外、興味を示してくれていることに申し訳無さを感じつつも、吾大は沈黙を続ける。
「……もう良い? 別にアンタがアタシに興味を持つのは勝手だけれど、アタシの方はアンタ達と馴れ合うつもりはないから」
「すっ、すみません! 私達これから急ぎの用があるので、これで失礼しますね!」
大斎の突き放すような言い方に、親衛隊の殺気がより一層強まる。額から滝のような汗を流しながら、吾大は意を決して両者の間に入り、大斎の腕を引っ張る。
「あら? お茶会ってそんなに急ぎの用なの?」
「……………………」
穏やかな笑みを浮かべたまま、吾大の腕を力強く引き止める。華奢な腕かと思っていたが、万力で締め上げられているのではないかと錯覚する程にガッチリと掴まれていた。骨までギシギシと軋むかのようだ。
「! おい、さっさと放せ!」
苦悶の表情を浮かべた吾大を見て、大斎が声を荒げる。これまで辛うじて抑えていた敵意を剥き出しにして、拳を振り上げる。
「まっ、待って……麦ちゃ――」
吾大が大斎に向けて制止を呼びかける――大斎の臨戦態勢とほぼ同時に、更織の親衛隊が各々武器を取り出し、大斎を取り囲んだ。
見事な連携と迅速な判断。そして、彼女達が手にしている武器にも意識が向いてしまう。
令嬢が護身用として持つにはあまりにも高威力の武器――スタンガン、特殊警棒、サバイバルナイフや本物かは不明だが銃口を向けている生徒もいる。
「……ゴム弾ですので、悪しからず」
吾大の表情から読み取ったのか、注釈するように親衛隊の一名が告げる。そんな弁明をされようとも銃刀法違反なのだが――実際には自分に向けられたものではないとはいえ、滝のように流れていた汗が一瞬にして引いた。
「やり過ぎです……! 確かに喧嘩腰だったかもしれないけれど、何もここまで……!」
いよいよなあなあで終わらせようとしている場合ではなくなった、と判断した吾大が声を上げる。
「害意を向けられたのであれば、実害が出る前に制圧するのは当然。あなたも余計な言動は慎むように」
心臓を射貫くような冷たい言葉を発したのは、親衛隊の内、サバイバルナイフを手にした生徒だった。
「じゅっ……銃刀法違は――ヒッ……!?」
「それ以上は言わない方が良い。あなたはあくまでもこの場に居合わせた不幸な一般生徒」
抗議を遮るように、親衛隊の一人が吾大の首筋にスタンガンを押し当てる。カチカチ、という音で持ち主の指がスイッチの辺りを弄っているのが鮮明にイメージされる。
「……そのまま気絶させた方が賢明なのでは? 命は取らないまでも、記憶を飛ばすくらいのダメージは与えるべきではないでしょうか?」
そう進言したのは特殊警棒を手にした親衛隊の生徒だった。警棒の先端は大斎の顎を強引に押し上げ、発言を封じていた。
「……………………っ! てぅえ、め、ぇら……!」
無理矢理顔を上に向けられ、満足に視界が確保できない。一切隠されない殺意が大斎の全身から溢れる。警棒や銃で完全に見動きを封じているにも拘らず、逆に威圧感で体が硬直してしまう程に。
「……あなたがその殺意を抑えた後に、こちらも武装を解きます。ご友人も一緒に解放しましょう……ですから、どうかそのままで」
怯んだままサバイバルナイフを携えた親衛隊に一人が告げる。穏当な発言とは裏腹に、瞬時に大斎の命を刈り取れるように、刃先を左胸の前に当てている。
「んー? 何しているの、あなた達」
カツカツ、と木造の廊下に靴底がぶつかる音が響き、一同はその音源に視線を移した。
学園内で唯一の特徴である黒いメッシュの入った長い銀髪、立ち姿が絵画のように美しい少女――
「……璃桜・ブラッドグラス・ファニーナイト、さん」
「そうね、それで? 更織さん――これは何? 彼女、私の大切な後輩なのだけれど」
表情は穏やかな笑みを浮かべているが、それがあくまでも表面上であることは明らかだった。
更織は一瞬表情を強張らせるも、すぐに笑顔に切り替える。
「何、と言われましても――私達は少しお話をさせていただいてただけですよ。……ですよね?」
更織がグリンッと、不意に吾大の顔の方を向き、言う。眼帯で覆われた左目からも強烈な視線を感じる――事故で完全に失われてしまったと聞く、有るはずのない左目からも。
「……っえ、と――」
「申し訳無いけれど」
そう言って、璃桜は吾大の視界を両手で遮る。音や気配も無く吾大の背後に現れた璃桜。吾大だけではなく、その腕を掴んでいた更織、首筋にスタンガンを当てていた親衛隊まで驚きを隠せなかった。璃桜を危険と判断し、即座に吾大から距離を取る。
「この子は私の可愛い後輩で、助手なの。あんまり苛めないでちょうだい」
「……相変わらず、怖い方ですね。用があったのはあくまでも大斎さんの方なのですが――あなたがそんなに気に掛けているのも珍しいですね」
「そうよ。私のお眼鏡に適った大変優秀な後輩なの」
まあ、私は眼鏡を掛けていないんだけれどね――茶化すように璃桜が言う。視界を両手で塞がれている吾大には璃桜の表情が全く分からなかったが、声色からして笑顔ではないのだろう。
今の軽口は更織大義に対する挑発行為だ。学園内でも人気を二分していると聞いた段階で察してはいたが、璃桜と更織は友人でも、互いに競い合う良きライバルといった関係でもない。
(……何か、互いに何とも思っていないっていうのか、こういうのを)
今回の件が無ければ、きっと両者は相互不干渉を貫いていただろう。
そして、グイッと璃桜が吾大の体を抱き寄せると、更織を一瞥する。自分の所有物に手を出されることに対する不快感を一切隠さない。
「……ええ、分かりました。あなたと敵対するメリットが私にはありませんし――こんなことで学園側から罰点を受けても困りますから」
若干不服そうに更織が呟く。
あっそう、と璃桜が短く返答すると、ようやく吾大の視界が解放された。唐突な眼球への刺激に眩み、何度目かの瞬きの後に残されていたのは、璃桜と大斎の姿のみだった。
「……あれ?」
更織大義とその親衛隊の少女達は音も無くその場から消え去っていた。彼女達が去って行く様を見ていたであろう璃桜に視線を向けると、誤魔化すように微笑むだけだった。