開幕
大斎麦が吾大久那に抱いた第一印象は『普通の同級生』だった。
吾大に関する良くない噂は既に耳にしていた。実際に吾大の実父が着手していた事業が公にできないものであることも聞いていた。
(下らない……)
苛立ちを募らせていく日々だ。
噂を流布する生徒や、その噂の拡散を食い止めようとしない教師達――彼女達が口癖のように繰り返す『清く正しく』を本人達が一切実行できていない事態に。
そして、噂の本人に対しても。全く抵抗の様子を見せない吾大への苛立ちの割合は大きかったかもしれない。
『虐めをする奴は死んだ方が良い。そうは思わない、吾大?』
ある日、苛立ちが臨界点を突破した大斎は、嘲笑を吐き散らすクラスメート達を蹴散らしながら、何も言わずに淡々と課題に取り組む吾大に訊ねた――ちなみに、蹴散らしては比喩ではなく、本当に蹴り飛ばした。当然だが、後に生徒指導の教師に酷く説教を受けることになった。
罵詈雑言を吐き捨てて逃げていくクラスメート達に目を向けずに、黙々とシャープペンシルを走らせる吾大。課題の用紙は嫌がらせにあったためにボロボロであるにも拘らず。
『あー、まあ。気持ちは分かるし、実際に殺したくなる気持ちはあるわよ』
どこまで本心なのか分からない、心底冷え込んだ瞳をボロボロの紙から大斎に向けた。
『……殺し、とは言わないまでも、軽く仕返しをするくらいなら手伝ってやっても良いけど?』
『気持ちは嬉しいけれど、遠慮しておくわ。……あ、そもそも仕返しするつもりもないから』
せめてどれくらい彼女達を恨んでいるのか、試すつもりで訊くことにした――即座に吾大が否定する。
『あの人達が責め立てているのは父のことだけれど、根本的に私に罪は無いから』
『……まあね、アンタの言う通りよ』
仮に吾大に罪があるとして、部外者であるクラスメート達に責め立てる資格は無い。そもそも虐めに正当性は無い。
『有難うね、私のこと気に掛けてくれて』
『別に。アタシはあの馬鹿共が気に食わないだけよ』
それから一切抵抗をしないアンタのことも――虐めていたクラスメート達に同調する気はないが、せめてそのくらいは言ってやろうと思い、吾大に話し掛けたつもりだったが、それを口にすることはなかった。
むしろ、この場面で感謝の言葉を口にする吾大に、情ではなく興味が湧いた。
『アンタのこと、久那って呼ぶから。まあ、これからよろしく』
『……友達ができるのはとても嬉しいな。こちらこそよろしくね、麦ちゃん』
そう言って、吾大は先程までの機械のように無機質な表情を変え、人懐っこい笑みを浮かべた。
(……友達、とかそんなつもりはなかったけれど――もう少しコイツのこと見てみたいかも)
***
吾大久那が璃桜から呼び出しを受けたのは、彼女の助手になった翌日の放課後だった。待ち合わせに指定されたのはまたしても空き教室だった。ただし、そこは教室というよりも備品倉庫という方が正しい。
窓はカーテンで閉められた上に、埃を被ったダンボールがいくつも積み上げられ、完全に向かいの教室から室内を覗くことができない状態だ。
室内に充満する埃臭さに窒息しそうになりながら、どこか喚起できる場所は無いか探す吾大。
「……というか、前と同じじゃ駄目なんですか? 何だか喉がおかしくなりそうなんですけれど」
「ごめんなさいね。せめてそこの窓を開放できるようになったら、大分過ごしやすくなるのだけれど」
と、璃桜が言う。まるでこれからここで生活を送るかのような言い方に吾大は眉を顰める。
「流石に生活はしないわよ」
カラカラと笑う璃桜。そこまでおかしなことを言ったつもりはないが、腹を抱えて笑う璃桜を見て、脳裏を嫌な予感が過った。
「これから探偵活動をするに当たって、ここを拠点にすることが決まったの。だから、今日は久那ちゃんに助手として初めての仕事をしてお願いしようと思って」
ここの清掃を任せたいの――雑に運び込まれた机の上に腰掛けた状態で璃桜は言う。
「……………………」
無言で周囲を見渡す。ダンボールや机が押し込まれているせいで狭く感じるが、実際の面積は他の教室と変わらないはずだ。
それから試しに身近なダンボール――舞い上がる埃に咳き込みながら、中身を確認する。厚い参考書やプリントの束がギュウギュウに詰め込まれている。持ち上げられなくはないが、恐らく下校時間までには終わらないだろう。
「……勿論、璃桜さんも手伝ってくれますよね?」
「残念なことに、私はこれからどうしても外せない用事があってね。流石に止まり込みで掃除をお願いしている訳ではないわ。門限までで大丈夫――久那ちゃんは、部活動に所属していなかったわよね?」
「……それは、でも――」
頭に血が上る感覚に耐える。部活動に所属していたとしても、何かしら理由を付けて押し付けていたに決まっている。だが、璃桜の助手として活動する以上、ここで過ごす時間が増えていくだろう。
作業量から逆算しても、これ以上ここで抵抗する時間の方が無駄になりそうだった。
「……分かりました。早急に、清掃しますから――何もしない探偵様はとっとと出て行ってください」
「アレ? もしかして、結構怒って――」
「怒ってますね、大分。相当。凄まじく。探偵を名乗るクセにそんなことも分かりませんか?」
能面のような表情で矢継ぎ早に捲し立てる吾大の様子を見て、初めて璃桜の顔が青褪める。
出会ってからそこまで日が経っていないにも拘わらず、吾大の学園のアイドルに対する好感度は既に奈落の底まで落ちていた。今まで不安視していたファンの生徒達からの嫉妬や憎悪でさえ、今となってはどうでも良くなっている。
「……あー、うん。そうね、なるべく早く用事は終わらせて、手伝いに戻るから――」
機嫌を取るように璃桜が言う――そして、それと同じタイミングで勢い良く教室のドアが開いた。外気が流れ込み、再び埃が舞った。
「うおっと……! 何ここ!? 酷い有り様じゃない! 埃臭っ!」
吾大久那の親友、大斎麦は制服の袖で口を覆いながら、豪快に叫ぶ。
「……麦ちゃん。申し訳無いけれど……あまり大きく動かないでね。見ての通り、埃が酷いから」
大斎麦。
栗毛色のツインテールを廊下から流れ込む風に揺らして、快活な笑みを浮かべて登場した。
現れていきなり埃塗れになってしまったが、そんな彼女の姿を見て、自然と吾大の表情が緩む。
親友の窮地には黙っていられない。お節介な性分であるが故に、大斎には幾度となく学園生活で助けられてきた。
「うん、麦ちゃん。続けて悪いんだけれど、助けてくれない?」
「アン? 別に良いけど」
二つ返事で大斎は了承した。この子のそういうところが本当に大好きなんだ、と声を大にして言いたかった。
そして、いつの間にか璃桜の姿が教室から消えていた。あの人のそういうところが本当に大嫌いなんだ、と声を大にして言いたかった。
「あの人のそういうところが本当に大嫌い!」
吾大の叫びは校舎中に響いたという。
***
「教室の提供、感謝するわ。生徒会長様」
教室を出てすぐに璃桜は電話を掛ける。学園内でスマートフォンを使っているところを教師に見つかれば、没収されることは間違いないので、屋上に出て、通話している――その屋上への侵入も校則違反なので、罪を重ねていることに違いはないのだが。
『高等部のだけれどね。中等部の生徒会長に少しお願いをしただけよ。お礼ならそちらにね』
「ご謙遜を。普通、生徒会長にそこまでの権限は無いわ。あなただからこそ通ったのよ」
『買い被り過ぎね。とはいえ、最初にあなたから電話が来た時には少々驚いたけれど――探偵活動はそんなに楽しい?』
「ええ、とても。最近、助手も見つかってとても順調よ」
声を弾ませる璃桜。電話越しからもテンションの高さが伝わってきたらしく、穏やかで品のある笑い声が聞こえてくる。それから本題を切り出した。
『そう。……ところで、先日、あなたが捕らえた遊苑囚子を名乗る生徒の件だけれど――」
「ああ、それね。やっぱりというか、彼女は本物ではなかったわ」
正確に言うと本物だけれど、大元ではないと言うべきね――と、璃桜が言った。
『本人から聞き出したの? ……でも、なるほど。私が事件の犯人を認識できているってことはそういうことだよね』
本来璃桜が使った能力――『解封事件』と呼ばれるそれは、自らが解決した事件に関わる怪異を書物やデータといった媒体に封印する。その上で、現実では怪異が全く関与しなかったという風に改竄する――怪異の王とされるヴァンパイアが扱うにはあまりにも矛盾した能力。
例えば、事件の中で人魂が出たならば、実際に見たそれは人魂ではなく犯人が使っていた懐中電灯の光だった――というように。半ば強引であっても、現実に起こり得る事象として改竄してしまえる。
(……それを久那ちゃんには非難されたんだけれどね)
そこまで言ってしまうと、先程の順調発言が嘘になってしまうので、敢えて口にはしないが。
「あくまでも私の能力だからね、私の意思一つで解除も可能よ――そして、勿論、聞き出しているわ」
生徒会長へは事件の全容を簡潔に説明しているが、それでも改竄の力が働いて、正確には伝わっていなかった――それが能力の解除により、今になって正常に理解できるようになったのだ。
『それは素晴らしい。では、その情報であの教室をあなた達に正式に明け渡すことにしましょう』
「……情報と交換しては、あの教室やっぱりボロ過ぎない? 清掃が大変なのだけれど」
『十分に等価だよ。こちらとしては正当な取り引きをしているつもりだし、変に色を付けたりはしない。贔屓は他の生徒達への不平等よ』
璃桜が露骨に顔を顰める。その反応すら読んでいたらしく、生徒会長の返答は淡々とした事務的なものだった。
『それに聞いた話によると、その清掃はあなたの助手がやっているそうじゃない。何が順調か。その内愛想を尽かされるよ』
「あはは、何をそんな……」
乾いた笑い声を上げてから、脳裏を過ったのは、教室を出る前に吾大から向けられた白い目だった。思えば、学園のアイドルと黄色い悲鳴を一身に受け止めてきたが、あんなぞんざいな扱いを受けたのは初めてだ。
『怒ってますね、大分。相当。凄まじく。探偵を名乗るクセにそんなことも分かりませんか?』
「……………………。ごめんなさい、ちょっと用事があるから、今日はここで失礼するわね」
『ええ、そうすると良いわ。それからもう一つだけ――この学園には狼が多いから気を付けて』
言われるまでもなく――そう言って、璃桜は通話を切り上げた。
(……狼か。ああ、そのことも久那ちゃんに説明しておかないとか――)
自分達が先日対峙した怪物が実はどれだけ多大な存在だったのか。