学園の偶像
「あー、それは失敗したかもねぇ」
「……やっぱ、そう思う?」
璃桜・ブラッドグラス・ファニーナイト先輩からの(改めて思い返すと良く分からない内容の)勧誘から逃げ出した翌日――吾大久那は自分の机に突っ伏して、深い溜め息を吐いていた。頭の上で両手を組んでいる姿は、まるでこの世終わりに神様に祈りを捧げているような有り様だったが、実際のところは親友にどうすればいいか、相談しているだけである。
大斎麦。栗毛色のツインテールと、クラスの中で頭一つ抜けた長身の吾大の数少ない友人である。この学園に通っている以上、彼女も社長令嬢、あるいは裕福な家庭で育った箱入り娘であることに違いないのだが、喧嘩っ早い性格や、学園内では珍しい粗暴な喋り方も相まって、やはりクラスでは浮いていた。
だからなのか、似たような境遇の吾大とは意気投合したのだが――そして、正義感が強いから、陰湿な真似は絶対にしない。
「やっぱり不味かったんかなぁ……」
「まあ、ね。取り敢えず、学園中に知れ渡ってしまうんじゃねえの? アタシが教室に入るまでに、何人かあんたの名前を口にしてたから」
学園のアイドルからの呼び出しに応じたにも拘わらず、告白を振り、挙句に逃げ出した不届き者――学園中では吾大久那の名前がそんな風に広まっている。
「マジかぁ……。何で昨日の今日で広まるんだろう……SNSに迫る伝播速度じゃない」
「そもそもこの学園って、スマホの持ち込みが固く禁じられてんじゃん。先生共に見つかったら、指導室送りだぜ」
「流石。経験者は語るって奴?」
意地悪く笑う大斎に、吾大もシニカルに笑い返す。規律を重んじる学園教師陣を相手取っては、生徒指導室に引き摺られていく大斎の姿が目に浮かぶようだ。
「経験……から言わせてもらうと、そもそもあの人には関わらない方が良いんだよなあ」
「もう遅いよー。……何で?」
不意に笑みを消して、大斎が言う。独り言のような、吾大だけではなく自分にも言い聞かせるような語り方だった。
「前に指導室に連行された時に、偶然あの人と話す機会があったんだけれど……」
「え? 璃桜先輩、指導室送りにされてたの? 何で――」
いや、それについては分からなくはないか――頭髪の件で以前彼女は教師陣と揉めたことがあった。学生達程に人気があると言う訳ではないだろうし、大斎程ではないにしても問題児として認識されていてもおかしくはないかもしれない。
「……それで何話したの?」
「内容自体は大したことない世間話……反省文を書かされている間の雑談だった。先生はいなかったし、『ここの規律厳し過ぎません?』くらいの愚痴を言ってたかな」
それだって、璃桜のファンの生徒達からすれば嫉妬の的になると思うのだが、この扱いの差は何なのだろうか――大斎麦という少女の仁徳のおかげかもしれないが。
「へー、でも、だったらファンが多いのも納得の良い先輩じゃない。私が言うのも何だけど、何で関わらない方が良いの?」
「あー……これを言うと陰口みたいであんまり気が乗らないんだけれど――表情かな」
「表情?」
吾大が聞き返すと、大斎は小さく頷き、続ける。
「アタシの話に微笑んだり、質問したり……リアクションはあるんだけれど、何だか感情が見えてこないんだよ――何を思ってくれてるのか、とか……そもそも興味を持ってくれてるのか、とか」
勿論、アタシの勘違いかもしれないんだけれど――珍しく歯切れの悪い大斎。
「だから、アタシとしてはあの人があんたに接触を図るくらいに興味を持った、っていうのが何と言うか……滅茶苦茶気味が悪い」
そこまで言って、大斎はバツが悪そうな表情で、ガシガシと髪を掻き毟る。彼女の性分からして、直感だけで誰かを悪く言うのが、例え自分自身であろうと許せなかったのだろう。本来ならまず口にすることはないだろうが、今回は親友が絡んでくる事案だ――自分の主義で忠告をしなかったせいで、吾大の身に何か起こることの方が許せない、と判断したのだろう。
「……悪いね、何だか曖昧なことを言って、かえって不安させちまったかな」
「ううん、ありがとう。こっちこそ嫌なこと言わせちゃったね、ごめん」
謝罪する大斎に、吾大も感謝と謝罪の言葉を返す。
この学園も、この親友のように気持ちの良い人だけだったなら、もっと楽しく学園生活を送れたかもしれない。
父親の勧めで入学したものの、周りの生徒達と馴染めず、いつしか孤立していた自分に最初に話し掛けてきてくれたのが、大斎だった。
(この子がいなかったら、私とっくにここから出て行ってたな……)
思い返して、脳裏に過ったのはやはり件の先輩、璃桜・ブラッドグラス・ファニーナイトだった。
親友のアドバイスに従うなら、やはりあの時自分の生存本能に従って逃げたのは間違いではなかったということか。
「世の中何が正解なのか分からないものだよね……」
「うん? どうした、急に」
別にぃ――笑いで誤魔化しつつ、そういえば、ついでに聞いておきたいことがあったことを思い出した。
「ところでさ、麦ちゃん。探偵の助手ってどう思う?」
***
昼休み、クラスメートは各々友人同士で昼食に向かう。
大斎は用事があるらしく、コンビニの袋を提げて、教室を後にした。
「久那ちゃん。良ければ、お昼ご飯一緒にどうでしょう?」
それと入れ替わるようにして、一人の少女が声を掛けてきた。黒い髪を三つ編みにした、清楚な雰囲気の少女――準ちゃん、と吾大は笑みと共に頷いた。
館吹準。吾大のクラスメートにして、親友――同じく親友の大斎とは対照的に、内気だが、自分よりも他人を優先する、心優しい性格の持ち主だ。彼女も大斎同様に、教室で孤立していた吾大に話し掛けてきたことがきっかけで、親友になった。
そして、昼食の場所として選んだのは屋上だった。以前までは事故防止のために生徒の立ち入りが禁止されていたが、返しの付いた高いフェンスが設置されたことで、解放された経緯を持つ。
「今度は麦ちゃんも一緒に来れたら良いんだけれどね」
「そうですね、でも、しばらくは天気が崩れるそうですから……屋上を使うのは控えた方が良いかもしれませんね」
そう言って、館吹は弁当箱の中から楊枝が刺さったミニトマトを取り、口に運ぶ。食堂がある学園において、弁当を持参する生徒はいるが、彼女が普段から持ってくる弁当は、どこか庶民的だった。今口にしたミニトマトだって、高級なものではなく、スーパーで買った安いものだという。
『あんまり高級な食材って、口に合わないんですよね……。この学園に通っているんだから、慣れないとなんですけれど……』
以前聞いた時、館吹ははにかみながら、早送り再生でもしたかのような猛スピードで弁当箱の中身を平らげていったのを覚えている。悪いことを訊いたな、と思いつつも、恥ずかしそうにご飯を頬張る館吹の姿が小動物のようで可愛かったので、今度お菓子でも持ってこようと思った。
「そういえば、久那ちゃん。璃桜先輩にお誘いを受けたんでしょう? 大丈夫だった?」
「うん。何とか逃げ出したから……。その代わり、私の人物像が大変なことになっちゃったけど……」
僅か半日で本人の耳にいくらか噂の一部が入ってしまっているのだから、相当な大変なことになっているのだろう――その内、生徒指導室で事情を聴かれるかもしれない。
「……皆、酷いよね。好き勝手に言って……久那ちゃんが相手なら、何を言っても許されると思ってるのかな」
声を震わせて、館吹は呟く。内気な性格故に、館吹は積極的に吾大を庇うようなことはできていないのが現状だ――だからこそ、その言葉は自分自身を激しく責め立てるものでもあった。
「まあ、父親がやったこととはいえ、そのお金で今まで暮らしてきたからね。何となく許せないって気持ちはあるんでしょ」
ケタケタと軽快に笑い飛ばす吾大。キャラではないが、自己嫌悪に陥っている館吹を励ますためなら、自然と演じることができる。何より折角の昼食を通夜のような雰囲気で過ごすのは好ましくない。
「それに加害者遺族を吊るし上げるなんて、この学園に限ったことじゃないよ。私だけが特別じゃないの」
「そんなの……」
「私は普通に親友がいて、それなりに楽しく学園生活を送れている。それで良いじゃない。そんなことより――」
「……………………」
強引に話を切り上げるも、全く納得できないといった表情で睨み付ける館吹。慣れない表情のためか、全く威圧感は無いが――
「そんなことより、璃桜先輩ってどんな人か知ってる?」
「……詳しくは知りませんよ。接点は全くありませんし、知っていることといえば、あの方を慕う人達なら全員が知っていることですし……」
「それでも良いよ。むしろ、私はあの人のことほとんど知らないし」
知っていることといえば、名前や学年、以前学園であったいざこざ程度――
(……改めて考えると、意外と破天荒な人だな。あの人のファンは全員それを知っていながら、慕っているってことか……)
案外、この学園の生徒達は大切に育てられ過ぎたせいで、人を見る目が偏っているのかもしれない、とい考えこそ、お嬢様達に対する偏見か。
「じゃあ、先輩のスリーサイズから――」
「その情報は要らないかな……」
璃桜ファンの生徒達にストーカーの疑惑が出てきた。自身のスリーサイズが学生共通の情報となっている――初めて璃桜への同情の念が湧いてくる。
館吹から聞いた情報は確かにそれ程意外性のあるものではなかった――文武両道、芸能事務所にスカウトされたことがある、今の姓は母親のもの、怒らせると手が付けられなくなる程に怖いなど。
彼女と対話すれば何となく分かる――今更アッと驚かされるような情報は無かった。教えてくれた館吹には申し訳無いが。
ただ一点、母親という単語を除いては。
(……あの人にも、両親はいるか。母親の姓を名乗っているってことは、父親は婿養子なのかな? それとも……)
父親がいない――母親が物心が付いた時には既に故人だった自分とは逆だ。
(……だからこそ、か? あの人が私に興味を持ったのは……)
勿論、まだ憶測の域に過ぎないが、可能性としてはあるのだろうか――家庭が片親の生徒は、何も自分だけじゃない。璃桜が自分に興味を持ったきっかけ程度と考えるのが妥当か。
「あ、ごめんなさい。あの方のご家庭の事情までは分からないの。むしろ、その程良いミステリアスな一面がファンを燃え上がらせるって……」
「いい加減この学園の生徒達はどうにかした方が良いんじゃないの」
全く必要性の無い情報ばかりが頭に入ってくる。
「璃桜先輩が推理小説が好きとか、知らない?」
「? 推理小説……ミステリーマニアですか、あの方が?」
「あ、知らない。そうなんだ、じゃあ、良いや。ちょっと気になっただけだから」
キョトンとながら、館吹は弁当箱の蓋を閉める。情報を整理しながら喋っていたせいで、吾大の箸は全く動いていない――もうすぐ昼休みが終わってしまうというのに。
「ところで、準ちゃんはあの先輩の追っ掛けじゃないの? ファンは多いんでしょ?」
「私は……ちょっと苦手かな。先輩自身がいう訳じゃないけれど、あの方のファンの人達の威圧感がどうしても……」
苦笑交じりに館吹が言う。
以前、璃桜のファン同士の衝突に教師陣が介入する、という事件が発生した。発端が何であったかは知れないが、危うく刃傷沙汰にまで発展しかけたその事件は、無関係の生徒達からすればさぞ異様な光景として映ったことだろう。
たかが憧れの先輩の話題だけで、事件にまで事が膨れ上がるのか、と。
「その『たかが』があの人達にとっては譲れないところなんでしょうけれどね……」
流石にこの件は教師達も看過できず、璃桜も厳重注意を受けることとなった――原因とはいえ、巻き添えを食らうこととなった彼女への同情があり、結局のところ、璃桜の地位は全く脅かされることはなかったのだが。
「でも、やっぱりあれは異常だと思う……」
館吹は俯き、呟く。苦笑でさえなく、困惑や恐怖の入り混じった表情で。
周囲から警戒や同情など、様々な声を浴びせられた璃桜・ブラッドグラス・ファニーナイトは、一切の変化を見せず、いつも通り穏やかな優等生として学園生活を送っていた。相当な事件の渦中にいたにも拘わらず、まるで他人事のようだった。
「……そういう意味だと、やっぱり璃桜先輩のことが苦手なのかもしれないなぁ……」
まるで別次元の生物と一緒に学園生活を送っている気分です――館吹準の璃桜に対する評価は締め括られた。
「……だから、あなたがあの方と仲良くする、というのはあまり心穏やかではいられないかもしれないです」
「あ、心配してくれてたんだ」
「当然ですよ」
そう言って、顔を上げた館吹は頬を膨らませたまま吾大をの方を向く。
「私は久那ちゃんの親友ですから。できることなら、事件に首を突っ込むようなことはしないほしいです」
純粋に親友を心配する目――件の先輩から探偵助手の誘いを受けている、という相談はとても言えそうになかった。
***
自身を慕う女生徒達でさえ惑わせ、狂わせてしまう美貌とカリスマ性を兼ね備えた偶像。女子中学生に対して随分な表現となってしまうが、決して大袈裟ではない、正当な評価だろう。
(少なくとも、私はそう思う。まあ、ファンではないんだけれど……)
2人の親友から聞いた璃桜・ブラッドグラス・ファニーナイトに対する認識は、程度の差はあれど、概ねネガティブなものだった。流石に学園の生徒全員(吾大自身は別として)に、あの魔性が通じている訳ではないと知り、ホッと胸を撫で下ろした。
安心したところで、状況は変わらないのだが――3年生の教室の前で吾大は静止していた。璃桜のいる3年生の教室は1、2年の教室から長い渡り廊下を歩いた先にある。そのため下級生の生徒達と3年生は部活動や委員会活動以外でもあまり関わりが無い。吾大も今回の件が無ければ、ここに足を踏み入れることはなかっただろう。
(……やっぱり帰りたいな)
そんな後ろ向きなことを考える吾大。嫌な噂にはある程度の耐性があるものの、やはり上級生の教室に赴くというのは、それなりの緊張感がある。未知の場所に迷い込んでしまった気分だ。
前回は逃げ帰るように別れてしまったが、その謝罪も含めて、今回はハッキリと断らなければならない――同じ3年生であろうと、璃桜のファンはいるので、その様子を見られた彼女達があらぬ噂を流布することは十分に考えられる。
「何かご用ですか? 吾大さん」
だから、それなりの覚悟を決めてきたのだが、こうして上級生から声を掛けられる事態は想定していなかった。
銀縁の眼鏡を掛けた小柄な少女――目の前の教室から出てきたので、恐らく3年生ではあるのだろうが、吾大を完全に見上げる形になっている。
「あっ……え、と――」
「そんなに固くならなくて大丈夫。……ファニーナイトさんですか?」
「あっ、はい……!」
思わぬ助け舟に喰い気味に返事をしてしまったが、上級生の彼女は気分を害する様子もなく、微笑して教室に戻った。
「吾大さん! 待ってたのよ!」
それから間もなくのことだった――主人の帰りを待ちかねていた大型犬の如く、教室から璃桜が飛び出してきたのは。