フェリーチェ
最初はなんとなく、以前も同じことをしたような、同じ場所に行ったような、同じ会話をしたような、そんな違和感からだった。
7歳になる頃には、なんとなく私は同じことを繰り返している、ということに気づいていた。なぜ、そうなったのかわからないし、その時はまだぼんやりとしたなんとなく未来を思い出す程度だったけれど。
しかし10歳のあの日……我が祖国の第一王子の婚約者を探す為に開かれたお茶会で全てが変わった。
「さあ、フェリーチェ、このお方がブレーズ殿下だ」
父様のあまり感情の見えない声。
促されて私は前に出ると、そこには金髪に赤い瞳の少年がいた。
穏やかな笑み。そして、ふわふわとした髪質のせいか、優しそうな雰囲気だ。
私は、緊張しながらも挨拶をする。
「お初にお目にかかります。フェリーチェ・ブラントレーと申します」
頭の片隅で、どこか遠い昔も同じことをした記憶が浮かんでくる。このあと、王子様は私の手を取ってよろしくと挨拶をするはずだ。
記憶の通り、彼は私の手を取った。
けれどその瞬間……今までなかったことが起こった。
「あ……」
触れた瞬間に何かが体を突き抜ける。一気に……記憶が蘇っていく。突然のことに体がふらついて彼に寄りかかると、さらにそれは加速する。
気持ちが悪い。
苦しい。
「ブラントレー嬢?!」
慌てた殿下の声がする。その声が恐ろしい。
やめて。
いやだ。
もう、いやだ。
私は
そうだ、私は
私は、彼らに嗤われ、貶められ、死んだのだ
目が覚めると、すでにそこは自室だった。
それに気づいた侍女がお医者様を呼んでくる。
小さい頃からお世話になっているお医者様は、「ストレスからでしょう」とおっしゃって、しばらく療養することになった。
父は家にいない。仕事ばかりでいつものことだから、寂しくない。
一応伝言で、しばらく休むようにと言われた。何も言わないが、今回のことを呆れていることだろう。
母は私を産んですぐに亡くなった。寂しくはなかった。父の再婚相手であった継母が我が子のように可愛がってくれたから。その彼女も、一年前に病に倒れて帰らぬ人になってしまったけれど。
継母の連れてきた血の繋がらない弟は領地で勉強中。一つ年下の彼は、私よりもしっかりしていて、定期的に会いに来てくれる。
彼は、私が王太子の婚約者となった場合、ブラントレー家の分家と結婚して侯爵家を継ぐことになっている。
寂しくはない。
そう、寂しくはない。
ブラントレー侯爵家の娘として、学ばなければならないことがたくさんあったから。
たくさんの家庭教師に様々なことを学んだ。その中に、王妃としての勉強が入っていたのは、婚約者候補だったからだ。
公爵家と侯爵家に、王子と年齢の近い令嬢が5人、存在した。私はそのうちの一人。
しかし、今回の件で婚約者候補から外れるかもしれない。ベッドに横たわりながら私は涙を流しながら考えた。
悲しいからではない。嬉しいわけでもなかったけれど。
私は、未来に起こったことをだいぶ思い出していた。
婚約者候補として出席したあのお茶会でわたしは婚約者として正式に決まり、必死に王妃教育に励んだことを。
王子の隣に立つ者として、笑われないようにマナーを身につけた。
周辺の主な王国の言葉や文字も、片言ではあるが会話できるように、時間がかかるが読めるようになった。
他の婚約者候補が特出した特技を持つ方達だったのに、私は特に得意なことなどなかったから、すべてにおいて努力しなければならなかった。
そう、たくさん努力をした。
必死に王子と並べるよう努力したのだ。
誰も、認めてはくれなかったけれど。
弟はいつも心配してくれたけれど、周りの人たちはなんの取り柄もない侯爵令嬢だっただけの私が王子の婚約者になるのだから当然だという雰囲気だった。
だから、間違えたとは思う。
必死になるあまり、強くあろうとした。強くならなければ立っていられなかった。
そのうち、傲慢な令嬢だと影で言われるようになってしまった。
誰かをいじめたことはない。誰かを貶したこともない。誰かを傷つけたことなどなかった。
なのに、気づくと孤立していた。
王子がいつのまにか、男爵家の令嬢と交流していて。私は彼女をいじめているという噂が立っていた。
仲良くしていたと思っていた人たちも、その噂を信じていた。噂を流している人たちまでいた。
私は、勉学に力を入れすぎて、社交を疎かにしてしまっていたと気づいた時には遅かった。
誰も助けてはくれなかった。
そんな、記憶を思い出して、私は泣いた。
これから、出会う人たちはみな、私を助けてはくれない。
そして私は死んだのだ。
不思議なことに、未来で私が死んだことは分かるのに、なぜ死んだのかはまだ思い出せない。
そもそも、私は死んで時間が巻き戻ったのか、それともこれから起こることを未来視したのか分からない。
昔、この国には多くの魔術師がいたらしい。今では血が薄れてしまいほとんど見られない。彼等なら、この不思議な現象を解明してくれるだろうか。
あんな失態をしたというのに、私はかの王子の婚約者となっていた。
なぜ。
なぜ、またあのような地獄を繰り返さないといけないのか。
どうにか必死に頑張ってきたのに裏切られた私は、かつての未来ですでに折れてしまっている。そして、その記憶を思い出した今も、もう頑張ることなんてできない。
それでも王家から決められたことを拒否できない。
また、同じことを繰り返すのだろうか。
以前の学んだ記憶があるから勉学より社交に力を入れればいいだろうと社交に力を入れることにしたが、いつか裏切られるという恐怖が常に付き纏っていた。
『あの方が侯爵家の……地味な方ね』
次第に、外へ出ることが恐ろしくなった。
『第一王子の婚約者? 天才と名高いハルミトン侯爵令嬢ではないのですか?』
屋敷を出るたび、かつての記憶を思い出すのだ。
『マーフィー侯爵家の美女姉妹と比べるとぱっとしないな』
誰かと会うことが怖くなった。
『キャンベル公爵令嬢があの国との交渉を成功させたそうですよ。素晴らしい功績だ』
いつか裏切られると思うと笑えなかった。
『ソレに比べてブラントレー侯爵令嬢は』
部屋の外へ行こうとすると、体が震えるようになった。
『何も優れたことがない』
食が細くなり、家人達は心配して必死にお世話をしてくれたけれど、私は痩せ細っていく。
未来の記憶は、毒のように私を侵していった。
「姉様、領地に帰りましょう」
そんな声を聞いたのは、ベッドの上でだった。
衰弱してほとんど寝たきりとなって、随分経とうとしていた。
もう、この屋敷では誰も外の世界の話をしない。私が外の世界に怯えるので、パーティーの出席も、お茶会のお誘いも、誰それが婚約しただとか隣国と交易がうまくいっただとか、私に何も伝えないようにしてくれていた。
ただその日を生きてるだけでいいとばかりに。
それでも、時折発作的に恐怖が蘇る。
外出用のドレスを見て、馬車の音を聞いて、誰かのひそひそ声で。
そんな生活も、弟……ギャレットが迎えにきてくれたことで終わった。
「……こんなに痩せ細って……僕がそばにいれば……」
領地までの馬車は、弟に支えられながらどうにか乗り込んだ。
「わたくし、帰って、いいの?」
掠れた声でそう言うと、彼は笑ってうなずいた。
「えぇ、父上が姉様のことをとても心配していたのですよ」
「とうさまが……」
普段なら一日で着く場所を、私の体を気遣ってゆっくりと生まれ故郷へ馬車を走らせて。
帰ってきた屋敷には、懐かしい使用人たちが私を待ってくれていた。
以前は、王太子の婚約者となってから帰る暇もなくて、そのままだった。それが、今回は帰ることができた。
嬉しさと、ここの人たちはきっと私を裏切らないという安心感でほっとして、そのまま眠ってしまった。
目覚めると、弟がベッドのそばに置かれた椅子で眠り込んでいた。私の部屋でずっと看病してくれていたのだろう。
窓が開いていて、気持ちのいい風が入ってくる。よい天気だ。
窓の側に沢山のひまわりが飾られている。
誰か、私の好きだった花を覚えていてくれたのだろう。思わず、微笑んだ。
随分長いこと寝ていた気がする。
久しぶりのすっきりとした目覚めだった。
眠るギャレットを、静かに見た。
私のウェーブのかかったブラウンの髪よりも濃い黒のストレートな髪が風に揺れている。
記憶にあるより、背が伸びている。
一年前に会ったきりだったから、当然だろう。
「ん……? あっ、姉様、起きたのですね」
目覚めたギャレットは、赤い目を嬉しそうに細めた。
思わず起き上がろうとすると、ギャレットは慌てて私を止める。
「姉様、まだ起き上がらないでください」
「でも」
「姉様は病人なんですから……」
心配そうに顔を覗き込むギャレットに、私は渋々横になる。
「もう、大丈夫ですから。だから、ゆっくり休んでください」
ギャレットは、何処まで私の状況を知っているのだろうか。
彼は優しく私の手を取る。
「このひまわりは、アンナとリナが姉様にと用意したんですよ。ジンが姉様の好きな物をと腕によりをかけて作っていて、夕食は楽しみにしていてくださいね。あと……そうだ、姉様の好きなムクロジをジャンがとってきてくれたのです。待っててください」
そう言うと、ギャレットは部屋を出て行った。
窓の外を見る。
アンナとリナは私が小さかった頃から仕えてくれているメイドだ。そして、何時も好きなお菓子を作ってくれた料理長のジンにこっそり小動物を連れてきたり、果物を持って来てくれた庭師のジャン。
なぜか、景色が滲んでよく見えなかった。
一ヶ月が経った。
とても、穏やかな時間だった。
時折悲しい記憶が溢れる時もあったが、それでもここにはギャレットがいる。優しい家人たちがいる。
「姉様、父上が一週間後、帰ってくるそうです」
その知らせは、そんな穏やかな空気を少しだけ冷たくした。
「とうさま、が……」
あまり感情を見せない人だ。そして、仕事に打ち込みいつもいなかった。継母が病に倒れた時も。
未来でも。
息が詰まる。
私を責めるように冷たい目が見てくる幻が、見えるようだった。
「姉様、それと……悪い知らせが……」
「……」
何事だろうか。恐怖を感じる。
まさか、私の悪い噂がまた流されたのだろうか。婚約破棄だなんだと言われたのだろうか。それとも。
「いや、ボクにとっては良い知らせか……」
「ギャレット?」
ギャレットは姿勢を正すと、いつもの笑みを消して真剣な面持ちで話し始めた。
「姉様。昨日、姉様と第一王子との婚約が正式に解消されました」
「え……」
思いもしなかったことに、言葉を失う。
「明日には正式に発表され、候補から選び直すそうです」
ぽつりと、涙がこぼれた。
「ね、ねえさまっ?! そんなに、悲しかったのですか?」
違う。違うと首を振った。
これは、嬉しいからだ。
もう、怯えなくて良いのだ。
あの記憶から、現実は変わったのだ。
「ちがう、の。うれしくて……いいえ、不敬よね」
その喜びは、ふと現実に気づいて消えていく。
「本当なら悲しまなければいけないことだもの。ごめんなさい、ブラントレー家の名に泥を塗ってしまって」
国母になる栄誉を、ブラントレー家の繁栄を、潰してしまったのだから。
故郷に帰ってきて、考えないようにしてきたが、これで私はブラントレー家のお荷物になった。
私が王子の婚約者になってから、ギャレットはブラントレー家を継ぐために勉学に励んできた。婚約が白紙となったら、ギャレットはどうなる?今までの彼の努力は?そして、婚約者として選ばれた私の失態はどれだけブラントレー家の名に傷をつけたか。
「ごめんなさい……」
なんて、自分勝手だったのだろう。
「ごめ、なさ、い」
「フェリーチェっ!!」
謝る私を、ギャレットは抱きしめた。
驚き、突き放そうとするがギャレットの力は強い。
「謝らないでください」
温かい。その温もりに、さらに涙があふれてくる。
ギャレットは優しい。私を、いつも助けてくれる。記憶の中の彼も、目の前にいる彼も。
「本当は、父上が来てから正式に申し込むつもりでしたが……」
そう言うと、彼は少しずつ離れる。
「ボクと、結婚してください」
「……え?」
誰が、誰と?
いや、この部屋には私とギャレットしかいない。
「父上とはもう話し合ってあります。母方の祖父にも相談しました。……今まで、王子との婚約なら仕方ないと諦めてきました。でも、もうあなたは誰のものでもない。それなら……ボクがフェリーチェを幸せにしたい」
「ギャレット……」
「ずっと、フェリーチェのことが好きでした」
泣き出しそうな顔で、彼は私の手の甲に口づけをした。
「年下では、嫌ですか?」
「そ、そうじゃ、ないの……ただ、驚いて、しまって……」
何か言わなければと思っても、言葉はすぐには出てこない。
ギャレットが、私のことを好きだった?今までずっと、気づかなかった。
いや、もしかしたら私のためにそんなことを言っているのかもしれない。王家との婚約がなくなった傷物の私が、良い縁談に恵まれるわけがないからと。
「私のせいで、そんなことを」
「姉様、まさかボクが心にもないことを言わされてるとか、家のための政治的な結婚だとか思ってます?」
「だって……」
「ひどい……勇気を出して告白したのに……」
じっと上目遣いで、子どもの頃のように口を尖らせて言うギャレットに、私は思わず笑ってしまった。
「ありがとう……少しだけ、考えさせて……本当に、あなたの意思なら」
「やっぱり信じてくれてないんですね。……でも、姉様の未来のことだから、じっくり考えてください」
ギャレットは、優しい子だ。
母の再婚で私の弟となった彼は、義理の姉の私を慕ってくれた。そして、王子の婚約者となった私を何時も心配してくれていた。
彼は、きっと私を裏切らない。だって、あの時だって、最期まで私を心配して助けようとしてくれた。
答えが決まるまで、いつまでも待っているとギャレットは言ってくれたけれど、答えはすぐに出た。
「おめでとうございます!」
「フェリーチェ様、とっても綺麗ですよ」
「めでたい、めでたいなぁ」
王都から離れたブラントレー家の領地の街で祝福の鐘が鳴り響く。
一年前に行なわれた王家の結婚式とは比べものにならないほどこじんまりとした、結婚式だった。
それでも、そこに居る人々は誰もが笑顔で、新郎新婦を心から祝福していた。
「ありがとう、みんな」
王都から帰ってきた時、痛々しいほど痩せ細った姿だったフェリーチェはもういない。しっかりとした足取りで彼女はウェディングドレスを纏いギャレットと共に歩く。その頬は紅色に染まり、幸せそうに微笑んでいた。
そして、フェリーチェの手を握りしめるギャレットは、フェリーチェが笑う度に嬉しそうに目を細める。
「ねえさ、……フェリーチェ、今、幸せ?」
「今、姉様って言おうとしたでしょう」
「つい、癖だからね」
「もう、私の旦那様なんだから、ちゃんと名前で呼んでよね」
「分かっています、フェリーチェ」
わざとらしく頷く彼に、フェリーチェは笑った。
「ねぇ、ギャレット。私、幸せよ」
「それは、よかった」
「今度は、必ず幸せにしますからね」