9話 影への対抗
「君が選ぶのは、彼女か、世界か――か」
焚き火の前で、柏木は何度目かの独り言をつぶやいた。エドワードとフィーネはすでに休みに入り、夜の警戒を交代で任されている時間帯だった。
その声に応えるように、背後から小さな足音が近づく。
「眠れないの?」
アイシャの声だった。
「まあな。あんなこと言われて、何も感じないわけがない」
柏木は火に薪を足しながら、視線を逸らさずに言う。
「……怖くないの?」
「怖いよ。お前の中に“あれ”がいるかもしれないって思った時、一瞬……自分の剣を構えそうになった」
アイシャはわずかに震えた。だが柏木はその手を、火越しにそっと差し出した。
「でも、構えてない。つまり俺はまだ、お前を信じてるってことだ」
「……ありがとう」
アイシャは手を握り返す。ほんのわずか、そこに残る熱が、彼女の迷いを静かに溶かしていった。
翌朝。
一行は、小高い岩丘にある古い研究所跡を訪れていた。旧世代の技術による“魔素遮断装置”が一部残っており、かろうじて敵の魔素干渉を遮ることができる場所だった。
「ここなら、やれるかもしれない」
柏木は地面に剣で円を描き、中心にアイシャを座らせた。
「お前の魔素と、俺の精神エネルギーを共鳴させて、“外部干渉を断つ結界”を作る」
「それって……精神を繋げるってこと?」
「そうだ。お前の中にある“声”、それがどこから来てるのかを、俺が辿る。もしそこに奴の干渉があったら、俺が断つ。お前は“信じて任せる”だけでいい」
アイシャはしばらく迷ったが、やがて静かに目を閉じた。
「わかった。信じてる、柏木」
柏木は、彼女の額に指先を触れ、自らも目を閉じる。
――一瞬にして、意識が深層へと沈んでいった。
《……アイシャ。》
《誰……?》
《忘れたの? 私たちはひとつだったはず》
闇の中で、アイシャは自分と瓜二つの“もうひとりの自分”と向き合っていた。だがその姿は歪んでおり、まるで誰かに模倣されたかのような空虚さが漂っていた。
《私は、“始まり”。君は“器”。私がこの星を統べるために生まれた媒体……》
《私は、そんなつもりじゃ……ない!》
アイシャが叫ぶと、その声が虚空に反響し、闇が揺れる。
だが、その影は微笑んだ。
《じゃあ証明して。君が“私”じゃないというなら、この世界でどう生きるのかを》
その時、柏木が意識の深層に到達した。
「アイシャ……!」
彼女の精神空間に現れた柏木は、すぐに異質な存在の気配を感じ取る。
「……いたな、“何か”が」
アイシャに似た影が、柏木を見て微笑んだ。
《なるほど。君が“鍵守”か。ならば君が選ぶのね、開くか、壊すか》
「どちらでもない」
柏木は剣を抜き、影に向かって突きつけた。
「俺はこの“扉”を封じる。お前の思い通りにはさせない」
《面白い。ならば見せて――この星が、君たちの意志でどう変わるのか》
そう言って影は、ゆっくりと消えた。
精神空間が崩れ始め、ふたりは同時に目を開いた。
「……戻ったか」
「柏木、大丈夫……?」
「ああ。確かにいた。“奴”の意志が、お前の中に触れてた。でも、切った。今なら……封じる手段がある」
柏木は、地面に描かれた円を見下ろしながら言った。
「この円陣を拡張し、魔素共鳴の構造を反転させれば、敵の精神干渉を完全に拒絶できる」
「つまり、これは……」
「”防衛結界”。奴が次に現れた時、やり返すための、最初の武器だ」
アイシャは、ほんの少し微笑んだ。
「ありがとう……柏木。私、もう怖くない」
しかしその様子を、遠く離れた断崖の上から見下ろす影があった。
マントを翻す、かの“使者”。
「なるほど、共鳴を断ったか……面白い。なら次は、力で語る番だな」
その声は、風に紛れて消えた。
戦いの火蓋は、すでに切られていた――。