8話 嘲弄の影
荒廃した森の中。
かつて“信濃”と呼ばれた地域の廃墟都市を抜けた柏木たちは、東の大断層を目指していた。そこは、かつて人類が最後の通信衛星を使ってウイルスの拡散情報を観測していたと言われる旧・観測所の跡地だ。
「……この空気、何かおかしい」
アイシャがつぶやいた。
風が止み、音が消えた。周囲の自然が、まるで何かを警戒して息を潜めている。動物の気配すらない静寂。
そして、その静寂を破るように――声が響いた。
「ようやくお目覚めか、サンドクイーン。いや、“器”と呼ぶべきかな?」
突如として頭上の木々が裂けるように揺れ、一人の人物がふわりと空から降り立った。
黒いマントに身を包み、鋭い目と不敵な笑み。だが、その表情の奥には冷たい軽蔑と、底の見えない敵意が浮かんでいた。
「お前は……誰だ?」
柏木が剣を構える。
「名乗るほどの者じゃないさ。俺はただの“使者”さ。あのお方のね」
「あのお方……」
フィーネが警戒して背後に回る。
「まだ知らなくていいさ。でも知ることになる。いずれね」
男は微笑を深め、視線をアイシャに向けた。
「久しぶりだね、アイシャ。君の中の“鍵”は……ずいぶん順調に育ってるようだ」
「あなた……知ってるの? 私のことを」
「知ってるさ。君は“あのお方”にとって、世界を変える扉そのものだ。君が開けば、我々は再び姿を取り戻す」
「ふざけるな!」
柏木が一歩踏み込んで剣を突き出す。
しかし男は、煙のようにするりと後退し、距離を保つ。
「焦るなよ。今はその時じゃない。俺の役目は“知らせること”だ」
「知らせる……?」
男は柏木に歩み寄り、まるで耳打ちするように呟いた。
「君のそばにいる“彼女”こそが、世界を壊した根源だとしたら、君は信じるかい?」
その言葉に、柏木の手がわずかに震えた。
「何のつもりだ……」
「ただの警告さ。近いうちに“試練”が来る。君が選ぶのは、彼女か、世界か」
その瞬間、男の姿が歪み、影のように空気に溶けるように消えた。
残されたのは、不穏な沈黙と、心に巣食う疑念だけだった。
焚き火の灯りが夜の闇にゆらゆらと揺れていた。誰も口を開こうとしない。敵の言葉が、全員の胸に重く響いていた。
「……アイシャ」
「……うん。私……やっぱり、何か知ってる。でも、それが何かは思い出せない。私の記憶は、どこか切り取られているの。私自身じゃない誰かに」
「その“誰か”ってのが、あのお方ってやつか?」
エドワードが薪をくべながらつぶやいた。
「フィーネ……お前、あの男の言ってたこと、どう思う?」
柏木の問いに、フィーネはしばらく考え込んでから言った。
「私も……あの声、あの影、どこかで感じたことがある。でも……私には何も思い出せない」
「なら、もう迷う必要はねぇ」
柏木は立ち上がった。
「やるべきことは一つだ。あの男が言っていた“試練”ってやつが来る前に、俺たちで先に“扉”の構造と因子の正体を突き止めてやる。アイシャを守るためにもな」
「柏木……」
アイシャの瞳がわずかに揺れる。
そのとき、彼女の中で再び“声”がした。
《ワタシを……わすれたの?……アイシャ──》
「……誰? 誰なの、あなたは?」
アイシャは自らの胸元を抱く。
それは彼女の中に住まう“鍵”の声。
世界を開ける存在の目覚めが、静かに始まりつつあった。