41. 彼女の神域
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おぞましい死の淵から飛び出した重い鎖が、頑強な鬼の肉体を蝕む。
冷たい重みは、死そのものだ。
常人であれば、触れただけで死ぬだろう。
豪傑のたぐいであっても、つながれてしまえばどうしようもなく命を落とすしかない。
英雄であろうが、縛りつければ限りなく死に近付ける。
ならば、これで戦いは終わりか?
――答えは、否だ。
なぜなら敵は人ではない。
魔物のなかの魔物。鬼という名の災厄である。
「……っ! こいつ!」
気付いたグレイは、目を見開いた。
直後、鎖につながれたまま、鬼が無茶苦茶に暴れ出したのだ。
「ォオオオオォオ――ッ!」
とはいえ、それは闇雲に暴れているだけだ。
判断力は低下している。
腕力は格段に落ちている。
肉体は蝕まれている。
それでも、その行為はグレイの世界にひびを入れるには十分過ぎたのだ。
「……ぐっ、がああ!?」
引っ張られた鎖が、ピシピシと嫌な音を立てた。
鎖が伸びる根元にある深淵の穴が、周囲の空間ごとひしゃげそうになる。
それどころか、そのまま鬼は前進さえしてみせた。
全身に絡みついた鎖は行動を阻害したが、鬼の動きをとめきれない。
「グオォオッ!」
「この……馬鹿力が!」
繰り出された剛腕の一撃を、グレイはぎりぎりのところで回避した。
回避できる程度には速度が落ちていたとも言えるが、状況はそれで終わりではない。
「ぎっ!?」
鎖の輪に次々とひびが入った。
加速度的に壊れていく。
階梯を考えれば異常な強度を誇るとはいえ、それでもグレイの位階は封印の鬼に劣る。
なりたての四階紋と『いつつ角』の災厄。
根本的に、出力が違い過ぎた。
むしろ、はるか格上相手に多大な効果を及ぼせていることが驚くべきであって、限界を超えた無理は長く続かない。
そして、世界の損傷はグレイにフィードバックした。
「ぐ……があっ」
全身から血が噴き出す。
苦鳴とともに血反吐がこぼれる。
これでは、どちらがどちらを拘束しているのかわからない。
このままでは破壊される――。
いや、そうはさせない。
「がああぁああ――ッ!」
負けるものかとグレイは吼えた。
鎖はひび割れるが、壊れない。
決して砕かれることはない。
敵を死に近付けるグレイの『死界の鎖』に備わった、もうひとつの特性。
術者本人と同じく、堪えるという一点においてこの世界は群を抜いていた。
激痛に堪えながら、グレイは鎖の束縛をゆるめない。
歯を食いしばって、猛る鬼を押さえつける。
実際、『死界の鎖』を解除してしまえば、封印の鬼は力を取り戻す。
どれだけ不利であろうと、押さえつけなければいけないのだ。
……もちろん、ただそれだけでは先がない。
苦痛に堪えしのび、生にしがみつくこと。
まるでそれは、前世で死病に侵されていたときの焼き直しにさえ見えて。
なら、その結末も同じだろうか。
また少年はひとりさびしく死の淵に落ちるのか。
――いいや。
それは違う。
そうはならない。
彼女がさせない。
前世の孤独で冷たい病室とは違い、いまの彼はひとりではないのだから。
「――ッ!」
その瞬間、圧倒的なまでの気配が通路に満ちる。
猛り狂える鬼気と、空間を侵す死域の気配が、第三の清冽な気配におしのけられた。
「お待たせ、グレイ」
槍を手に、カミコが戦場に足を踏み入れる。
「わたしもいる、です」
かたわらには、サクラの姿もあった。
身動きがとれなくなっていたカミコのことを、こっそりやってきていた彼女が魔法で治癒していたのだ。
結果、立ち上がることができるようになったカミコは、倒れる前とは雰囲気がまったく異なっていた。
当然だ。
封印された邪神である彼女の力は制限されている。
契約者であるグレイだけが、その制限を解除することができる。
手をたずさえて、階段を昇るように。
神としての本来の力に、より近いレベルへと。
グレイは神域に届く四階紋に至った。
よって、当然、カミコもまた神域へと足を踏み入れる。
あるいは、帰ってくる。
契約者と肩を並べて戦うために。
「――神器創生」
唱えたカミコの槍が、まばゆい輝きを放った。
「グレイ! 貸してた剣をちょうだい!」
「ッ! ――わかった!」
意図はわからずとも、信頼があれば十分だ。
グレイはそばに落ちていた錆びた剣を拾い上げた。
傷付いた腕で投げられた剣を、カミコが二又の槍で打ち付ける。
途端、剣と槍が輝きに包まれた。
「あれは……!?」
輝きが融合し、ふたつの武器がひとつになる。
そうした生まれたのは、神々しい三つ叉の槍だった。
状況を理解して、グレイは冷や汗をたらした。
「……あの剣、カミコの神器の一部だったのか」
神器は神域に至るための鍵。
どれだけ重要なものなのか、いまは理解できたからだ。
「なんてもん渡してるんだ……」
「えへへ。これ、わたしの一部みたいなもんだから。グレイに持っていてほしくって」
「重い重い重い」
照れた笑い顔を見せたカミコは、くるりと槍を回してみせた。
そのときには、凜々しい目付きになって鬼を見据えていた。
「ともあれ、いまはもう力を出せるよ。これはキミを守るための力だ」
宣言したカミコの槍がひときわ強く輝き、邪神に堕ちた女神は自身の世界を呼び寄せる。
「――神器『いまは壊れた導きの槍』」
この場に三つ目の神域が展開された。
途端、迷宮の通路をくるぶしまでの水が満たした。
これは、堕ちた水神の世界。
生命力に満ちた母なる海。
そのところどころが盛り上がった。
「たとえその資格がなくとも。守るための力を、いま一度ここに」
邪神に堕ちた少女の言葉に応えて、弾力のある水の盛り上がりが、あいまいな人の形をなしていく。
それは、かつて彼女を奉じた人々の姿。
そのすべてが紋章持ちの使徒である。
すなわち、これこそがかつて彼女の愛した世界。
その再現。
……の、いまは欠け落ちた、劣化版だ。
高みにあるとはいえ、いまだ階級は四階紋。
本来の女神の世界を展開するには出力が足りない。
そして、さらに決定的なのが、彼女の愛した世界がすでに損なわれていることだ。
邪神に堕ちた際にあった『とある出来事』が原因で、彼女の世界は完全なものではありえない。
そのせいで、あくまで再現された人々は、かろうじて四肢がある程度の水人形の姿しか取れなかった。
おまけに、数もオリジナルより激減している。
だが、だとしても、これが恐るべき神の業である事実は変わらない。
「突撃――ッ!」
くだされた命令に従って、無貌の水人形たちが、封印の鬼に攻撃をしかけた。
その数は、実に40以上。
手に手に武器を振りかぶる。
「グォオオ!」
鬼も当然、反撃する。
水人形の半分が砕かれ、さらに残ったうちの半数が近付けない。
だが、それでも数に任せた突撃により、10体近くの水人形が鬼の肉体に武器を叩きつけることに成功した。
恐るべきは、その力だった。
グレイは瞠目する。
「……すごい。あれ、二階紋相当はあるぞ」
現れた水人形は、決して木偶ではなかった。
二階紋といえば、紋章持ちのなかでも実力者だ。
それが40体以上。
先程までのカミコは、封印の鬼との根本的な存在強度の違いで攻撃が通らなかったが、いまは彼女も神域にある。
次元の差による攻撃の無効化は働かない。
同じ次元にあるのなら、あとは単純な攻撃力と耐久力とのせめぎ合いだ。
相当の実力差があるとはいえ、10人に生身を滅多打ちにされればダメージは通る。
いや。あるいは、鬼の強靭な皮膚と筋肉の鎧は、本来であれば水人形の攻撃を弾けたかもしれない。
だが、いまの鬼は『死界の鎖』により本来の高みから引きずり下ろされている。
肉体の頑強さ、耐久力も例外ではなかった。
「ここで決める!」
カミコが槍を振るえば、破壊された水人形は次々と母なる海から再構成される。
次々と襲い掛かる水人形が、砕かれながらも鬼を打ち据える。
◆これでふたりの神器が登場しました。
自由を得るための封印の鬼との戦い、クライマックスです!
もう一回、更新します。




