04. 名付けとキス
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――邪神を名乗る少女との契約。
少年は、彼女を信用できると判断した。
そのうえで、ホムンクルスとして生まれた自分を閉じ込める迷宮から脱出するために、彼女と協力すると決めた。
これはつまり、取引だ。
そのために握った手。
少なくとも、彼はそのつもりだった。
なのだが……。
みるみるうちに、神子の顔が喜びに輝いたのだった。
「本当!?」
握手をしていた手を、両手でぎゅっと握られる。
前のめりになった彼女の笑顔が、鼻先にまで近付いた。
「ありがとう!」
「あ、ああ」
……なんだか、思っていたのと反応が違うぞ。
こちらとしては、ただ契約のあかしとして、握手をしただけのつもりだったのだけど。
目の前にあるのは、まるで子供みたいに邪気のない感情の表れだった。
それどころか、こんなことまで言い出したのだった。
「それじゃあ、わたしはこれからキミの友達で、パートナーだ。よろしくねっ」
「は、はあ? なんだそれ」
思ってもみない発言にとまどう。
しかし、当の神子は目を丸めた。
「え? なにって、友達になってほしいって言ったじゃん」
……確かに、最初にそんなことを言っていたけれど。
まさか本気だったのか。
「そのうえ、これからキミは迷宮から外に出るために頑張らないといけないんだよ? わたしは、そんなキミに力を貸して、応援する。だったら、これはもうパートナーってやつでしょ!」
ふふんと、意外とゆたかな胸を張って言う。
まあ、別に拒絶する理由もないのだけれど。
しかし、友達か。
友達ね。
「……」
視線を落とせば、がっちり両手で握られた手があった。
ふれ合う肌と、自分以外の誰かの体温。
そういえば、治療の間の作業として他人にふれられることはあったけれど、こんなふうに誰かに手を握られるのは、覚えている限り初めてかもしれない。
ましてや、友達なんて言われるのは……。
だからなに、というわけではないのだけれど。
そのはずだけれど。
「えへへー」
上機嫌に彼女は笑い、彼女は言う。
「きっと、キミを無事に外の世界に出してみせるからね!」
「……」
変な感じだ。
調子が狂う。
自分は生きられればそれでいいのに。
だが、そんなこちらの内心には気付いた様子もなく、ウキウキと彼女は続けた。
「それじゃあ、早速、契約について説明しようかな」
「……ああ」
頷きを返し、気持ちを切り替えた。
妙なことに動揺している場合ではない。
いまは大事な場面なのだ。
「説明を頼む。契約がどんなものなのか、俺は知らないから」
「あ。そうなんだ。この世界だと割と常識なんだけど」
きょとんとした彼女は、なぜかそこでニヤッとした。
少し悪い顔だ。
ただ、邪悪な感じはしない。
悪戯を考えている子供のような顔だった。
「なんだ?」
「ううん、なーんでも」
ちょっと警戒して尋ねるが、彼女は首を横に振った。
表情は澄ましたものになっている。
気のせいだったのだろうか。
何事もなかったかのように続けてきた。
「具体的な契約の手順については、ホムンクルスの知識のなかになかったんだね。大丈夫、教えたげる」
「頼んだ。……ええっと」
そこで口ごもったのは、ふと気付いたからだった。
「なに?」
「いや、名前。聞いてなかったから」
頭のなかでは神子と呼んでいたけれど、これは勝手に呼んでいただけだ。
仮にもパートナー、いや友達……契約相手なら、名前くらい知っておくべきだ。
そう思って尋ねたのだが、ここでなぜか彼女は困り顔になった。
「ごめんね。名乗りもせずに。でも、事情があったっていうか」
「事情?」
「うん。わたし、名前を奪われちゃってるんだよねえ」
「……よくわからないけど、名前がないってことか?」
「うん。違うけど、そういう理解でいいよ」
いいんだろうか。
けっこういい加減だ。
「どうしようかな。これまではひとりだったからよかったけど、確かに呼ぶ名前がないと不便だよね」
少し悩んだふうに、黄金の瞳が暗い天井を向いた。
「うーん……あ、そうだ」
不意に彼女は手を叩いた。
くるくるとよく動く目が、改めてこちらを向いた。
「良いこと思い付いた!」
明るい表情とは裏腹に、いやな予感がした。
しかし、逃げる暇はない。
綺麗な顔が、ずいっと無防備に近付いてきた。
「キミがつけてよ、わたしの名前」
「は?」
いったい、なにを言い出すのか。
なにかの冗談かと思ったが、間近にある金色の瞳には期待の色しかなかった。
きらきらしている。
「なんで俺が」
「名前っていうのは、自分のものだけど、誰かが呼ぶためにあるものでしょ? これから長らくキミだけが呼ぶものなんだから、わたしの名前はキミのためのものだってことじゃん」
「だから俺につけろって?」
理屈が通っているような、そうでもないような。
いや。どちらにしても、そんなのは無理だ。
「自分でつければいいだろ……」
「えー、なんだよ。いいじゃん。ケチだなぁ」
「ケチじゃねーよ」
感情表現豊かに、神子は唇をとがらせてみせる。
その表情は可愛らしかったけれど、無理なものは無理だ。
溜め息をついた。
「だいたい、俺が付けると、適当に神子とかになるぞ」
そんなのはいやだろうと。
ぞんざいに言った瞬間、しまったと思った。
目の前にある黄金の瞳が、輝きを増したからだ。
「カミコ? それが、キミがわたしにくれる名前?」
「え? いやいやいや。いまのは、そういうのじゃなくて……」
後悔先に立たず。
とめようとしたが、遅かった。
「よし、決めた。わたしはこれからカミコ! カミコだよ!」
にっこりと笑って、少女は宣言したのだった。
なにがそんなに嬉しいのか、浮かぶ笑みは宝石みたいに輝かしかった。
「キミが、付けてくれた名前だよ」
「……」
「へっへっへー」
ご機嫌で少女は――カミコは笑う。
その表情を見て、確信した。
これはもう今更、説得とか無理だ……。
まあ、本人がいいならそれでいいのかもしれないが。
考えてもみれば、別になにか問題があるわけではない。
本来の名前はある――彼女曰く『奪われた』だけで――ようだから、あだ名みたいなものだろう。
おおげさに捉える必要はない。
多分、きっと。
そう割り切ったところで、改めて手を取られたのだった。
「それじゃあ、今度はキミの番だよ」
「え? なにが?」
「わたしもキミの名前が知りたい」
深い黄金の瞳が、こちらの目を覗き込んできた。
「教えてくれるかな?」
「俺の名前?」
言われてみれば、こちらも名乗っていなかったか。
「それだったら……」
答えようとして、ふと口をつぐんだ。
「いや。名前……名前か」
「ん? あるでしょ、名前」
「そりゃあ、もちろん」
自分は生まれたばかりのホムンクルスだが、転生する以前の記憶がある。
生前の名前は憶えていた。
だが、それはなにもできずに死んだ少年の名前だ。
ここにいる自分はそうではない。
違うのだ。
そうはっきりさせるのも、この際、いいのではないだろうか。
先程のカミコの名前のやりとりからの思いつきだが、悪くはないように思えた。
しかし、いまの自分か。
「……そういや」
「ん?」
「俺のいまの姿って、どんな感じなんだ」
「えー。なにそれ。いま関係あるの?」
ガクリと肩すかしの様子を見せながら、カミコは手を振った。
魔力の気配。魔法だ。
手をかざした先に、垂直に立つ水の鏡が現れる。
ついでとばかりに光源も生み出された。
「おお。便利だ」
「わたしが力を自由に使えるのは、柱が封じられてるこの部屋だけだけどねー」
水鏡に映っていたのは、ひょろりとした子供だった。
肩まである白髪と、白い肌が薄暗い部屋に浮き上がって見えて、少し幽霊じみた印象がある。
頭にすり込まれている知識によれば――15歳相当まで成長を進めたホムンクルス。
見た目からすると、カミコと同年代ということになる。
神様相手に歳もなにもないかもしれないが。
いや、それこそ生まれたばかりの自分がいうことでもないか。
ぺたりと、自分のほおに触れた。
線が細いためか繊細な印象の顔立ちは、それだけでは少年とも少女とも取れないものだ。
「あっ。そういや、自分の顔見るの初めて? かわいい顔してるよね」
横からカミコが褒めてくれるが、その褒め言葉は男としてあまり嬉しくはない。
思わず眉をひそめると、鏡のなかの自分もそうする。
それで気付いた。
「……前の俺の顔に、ちょっと似てるか?」
おもかげがあるというレベルだが。
顔が変わっていれば大きな違和感を覚えそうなものだが、おかげで、あまり違和感はない。
首を傾げていると、カミコが手を伸ばしてきた。
ほおをつつかれる。
「それはまあ、魂は同じだからね。特にホムンクルスは魔法生物だから」
「関係あるのか?」
「魔法は意志の表出だからね。魔法生物であるホムンクルスの造形に、宿る魂の影響が出てもおかしくはないと思う」
「ふうん。そんなもんか」
よくわからないけれど、カミコがそういうならそうなのだろう。
適当に流して、今度は視線を落とした。
魔法で作ってもらった衣服に包まれた体は細かった。
顔だけでなく体格からも、男女の区別は付けられない。
一応、ちゃんと体の特徴が男のものなのは、ここに来るまでの間に確認したが……。
中性的というよりは、全体的に未成熟なのだろう。
失敗作の悲しさというか、男女の区別がつくほど成長していないのだ。
生前でも病気の影響で成長に支障が出ていたので、男らしい顔つきや体格には少し憧れがあったのだが……。
まあ、これは当面どうでもいい。
残念といえば残念だが、立って歩けるだけでも文句は言わない。
最後に、少し水鏡に顔を近付けた。
瞳の色は黒に近いが、少し灰色がかっている。
髪の色は白だと思ったが、よく見ればこちらも薄い灰色だ。
これがいまの自分。
だとすれば……。
「……グレイ」
「え?」
「俺は、この世界ではグレイって名乗ることにする」
灰色だからグレイ。
安直と言われればそれまでだが、わかりやすくていいだろう。
それに、確か宇宙人には、グレイタイプというのがあったはずだ。
頭が大きくて体がひょろりとしたアレだ。
見た目は全然違うけれど、別の世界から来た異邦人である自分にはぴったりな名前ではないだろうか。
「そっか、グレイか」
口になじませるように、カミコが言った。
「グレイ。グレイね。ふーん」
「なんだよ」
あまり連呼されると、少しくすぐったい。
文句を言ったが、カミコはこたえた様子もなかった。
クスクスしている。
そろそろ、彼女の性格がわかってきた。
人当たりよく、距離が近くて、マイペース。
それが神様だからなのか、彼女特有のパーソナリティなのかはまだわからないけれど。
ただ、それは決して不愉快なものではなくて――。
「うん。いいんじゃないかな」
そう言って、カミコは手を差し出してきた。
「それじゃあ、改めてよろしくね。グレイ」
「……」
笑顔で名前を呼ばれた。
名前というのは、不思議なものだ。
あるいは、邪神だという彼女が特別なのか。
それだけで、いまの自分がグレイという名でここにいることを実感できた。
自分は生きている。
確かに、ここに。
「ああ。よろしく。カミコ」
このとき、この場所こそが、この世界で生きるグレイの始まりだ。
そんなふうに感じていたから、そのときの少年は無防備で。
さっき契約の話をしていたときに、カミコが悪い顔をしていたことなんてとっくに忘れてしまっていたのだった。
「え?」
握手に応じた手を引かれた。
あっと思ったときには、ほおに唇を押し当てられていた。
「――」
思考が停まった。
小鳥がついばむような、軽いふれあい。
異性からのキス。
「なっ……!? あ、え? お前!?」
慌てふためいてしまったのは、一生の不覚だ。
すっと身を離したカミコが、くすりとした。
表情はどこか満足げで、ほおがほんのわずかに赤い。
「これで契約は結ばれた」
「……は?」
「今日から、キミはわたしの契約者だよ」
ぽかんとする少年を祝福するように、精霊の光があたりを踊った。
神様との契約。
それは誓いのキスにより結ばれるのだと、悪戯好きの神様から知らされたのは、すべてが終わったあとのことだった。
……やられた。
いつか仕返ししてやろうと思う。
ともあれ、なんにしてもだ。
邪神の契約者として、迷宮からの脱出を目指すグレイの挑戦が、今日ここに始まったのだった。
◆夕方にも更新します。