39. 少年の得た資格
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グレイたちと別れたあと、カミコが考えたのはなるべく距離を取ることだった。
遭遇する魔物を返り討ちにしながら移動する。
案の定、封印の鬼は進路を変えて追ってきたので、ほっと胸を撫で下ろしたものだった。
襲われているのに、ほっとするというのも変な話だが。
ただ、自分の存在と封印の鬼の解放が関係ない可能性もゼロではなかったため、思惑が外れなかったことには安心したのだった。
これでグレイたちは安全だと。
とはいえ、迷宮の創造者である神の仕掛けのすべてを把握しているわけではない。
封印の鬼があとで彼らを狙う可能性もある。
彼らが脱出しきるまで足留めをする必要があった。
それに、そもそも、襲われることは受け入れても、大人しく殺されてやるつもりはなかった。
普段は能天気な印象のあるカミコだが、その実、戦場の経験は非常に豊富である。
これは、実は神柱には珍しいことだ。
神柱は大きな力を持つが、物質世界に顕現する者はあまりいない。
そのうえ、わざわざ戦いに加わるとなれば少数だし、そのなかで歴戦ともなると一握りと言っていい。
カミコがその少数派であるのは、かつてあったとある戦場に参加したからだった。
大戦と呼ばれる戦争。
すべてが終わり、始まった戦いだった。
結局、その戦いの最後にカミコは邪神なんてものに堕ちることになったのだが……。
この際、それはどうでもいい。
大切なのは、おかげで自分には戦う力があることだ。
グレイとサクラを逃せることだ。
そう思えるくらいに、ふたりのことを大切に思っている。
永遠とも思える長い封印の時間、寄り添ってくれたのが、いまはサクラを名乗る少女に宿ったお人好しの精霊だった。
そして、グレイ。
彼と過ごした迷宮での数ヶ月は、ただただ時が流れるばかりだった長い封印の年月に匹敵する重みがあった。
楽しかった。
……生きている、と感じられたのだ。
そう。
グレイに対して、生きることをしていないことを指摘したのはカミコだが、同時に彼女は、自分もまた彼に会うまで死んでいたようなものだったことを自覚していた。
「だから、ここは譲れないんだよ」
ついにその威容を現した封印の鬼を睨み付ける。
「はあぁあああ!」
カミコは勝負を仕掛けた。
敵の階級はふたつ上。
後先は考えない。
全力で得意の水の魔法を放ち、間合いを見計らって二又の槍を閃かせる。
我流のグレイとは違い、カミコの槍は洗練されたものだ。
加えて、それを戦場で自分なりに昇華したうえで魔法と連携させている。
獰猛な蛇と化した水流が封印の鬼の巨体にぶち当たり、敵の勢いがゆるんだ隙を見逃さず槍を叩き込む。
あるいは、驟雨のごとく槍の連打を打ち込むのと並行して、舞わせた無数の魔法の水剣が斬り掛かる。
膂力では圧倒的に不利。
速度でも追い付くことができない。
そんな相手に対して、まさに神業としか言いようのない技量と立ち回りで立ち向かう。
それこそ相手が格としては同じ『みつ角』であれば圧倒しただろう。
だが、封印の鬼はそのさらに上をいく災厄であった。
「ぐ……っ」
強力極まる魔法も、卓抜した技術により振るわれる槍も。
鬼の肉体に与えられる傷は、微々たるものに過ぎなかった。
それこそ、うっすら傷が走るくらいのもの。
その程度であれば、魔法で肉体を強化するのが当たり前の戦いでは、数秒で意識するでもなく消えてしまう。
おかしな話ではあった。
確かに鬼の肉体は強靱だ。
しかし、出力では劣るとはいえ、技術面も加味すれば、カミコの力は四階紋に相当する。
単純な力関係だけであれば、もう少しダメージを与えられてもおかしくない。
だが、実際に槍の穂先は通らない。
魔法が威力を発揮しない。
まるでそこに互いを隔絶させるなにかがあって、苛烈な攻撃を通さないかのように……。
事実として、そうなのだった。
四階梯以上の位階は、三階梯以下とはまったく異なる。
隔絶している。
存在する世界が違うのだ。
魔物とは、世界の毒にして歪みたる『けがれ』の具現である。
魔法は世界の法則を書き換えるが、魔物は世界の秩序を破壊する。
その秩序の最たるが神柱である。
よって、神話に謳われる魔物の最上位『むつ角』は神という秩序さえも破壊する者――『神を喰らう獣』と称される。
当然、『神を喰らう』以上はその存在は神柱と同格であり、その力は神域に達している。
もちろん、『むつ角』でもなければさすがにそこまでの力は持たないが……『よつ角』以上の魔物は『神を喰らう獣』としての性質を有している。
言い換えるなら、神域に足を踏み入れている。
対抗するには、最低でも同じ神域の業でなければならない。
それが『神器創成』。
いまのカミコには使えない力だ。
ゆえに、この結末は必然だった。
「……あっ」
太い腕が水の魔法を打ち破る。
打ち込んだ槍が生身の肉に負けて、大きく弾き飛ばされる。
限界が来たのだ。
むしろ、まともに攻撃が通用しない敵を相手に、短い時間とはいえ食い下がったことが偉業だった。
「……くっ、あぁあ!?」
打ち放たれる、岩石のような拳。
それでも、ぎりぎりのところで直撃だけは避けた。
にもかかわらず、小柄とはいえ強化された肉体が、あっという間に通路の端から端まで吹き飛ばされた。
神が創り出した迷宮の構造が砕けるほどの勢いで、通路の壁に体が叩き付けられた。
「うっ、あ……っ」
息だけでなく、心臓さえもとまりかけた。
すぐにでも立ち上がらなければいかないのに、体が痺れて動けない。
「……あ」
そして、彼女はそれを見た。
ゆっくりと力を溜めながら、追いかけてくる鬼の姿。
己の死。
厳密にいえば、カミコは死ぬわけではない。
余程のことがない限り、神柱は死なない。
大きく力を削がれてしまい、意識さえない希薄な存在となってしまうだけだ。
それはある意味では、死よりも恐ろしい状態で。
そのようなリスクがあることを知っているから、神柱はあまりこの世に顕現することはない。
再度、意識を取り戻せるほどに存在が戻るかはわからないし、戻ったとしても再顕現には長い時間がかかるからだ。
実質、それはグレイたちとの死別に等しい。
……いやだな、と思った。
思ってしまえば、心が崩れるのは一瞬だった。
「う……うぅ」
ひとりぼっちは、もういやだ。
もう会えないなんて、いやだ。
悲しい。
さびしい。
もう一度、彼らに会いたいと叶わぬ願いを胸に抱いて――。
「……え?」
ものすごい勢いで走ってきたなにかが、自分と鬼との間に割り込むのを、カミコは目の当たりにしたのだった。
***
「間に合った……ッ!」
それは、彩りの抜け落ちたようなモノクロの存在だった。
それは、少年の姿をしていた。
よく知っている彼だった。
けれど、一度も見たこともない誰かのようにも見えた。
「なん……っ!?」
そこで、ようやくカミコは状況を理解する。
「グレイ! どうしてここに!?」
悲鳴をあげてしまったのも仕方のないことだろう。
あってはならないことだった。
確かに、グレイが駆け付けるのは『間に合った』のだろう。
カミコはまだ死んでいない。
だが、だからなんだというのか。
あの鬼が相手である以上、ここにいる者は死ぬ。
自分は死ぬし、彼も死ぬ。
それだけの残酷な話だ。
「な……なに考えてるの!? 死にたいの!?」
カミコがそうなじってしまったのも当然のこと。
だからこそ、それはグレイにしても予想できた反応だったに違いなく。
当たり前のように、彼は返したのだ。
「違う。生きるために、俺は来たんだ」
「――」
カミコは思わず息を呑んだ。
それくらいに、その言葉には迷いがなかったから。
……迷うはずがないのだ。
彼は生きるためだけに、これまでずっと歯を喰いしばってきたのだから。
そんな彼が、ようやく望みを得た。
生きることができるようになったのだ。
迷いなんてあるはずがなかった。
「カミコを助けたい。それが、生まれた初めて抱いた俺の望みだ」
だから、彼はここに駆け付けた。
だから、それこそが資格となった。
その左腕に刻まれた紋章が輝き出す。
これまで一度もないほどに、強く、強く――。
白黒だった世界を塗り替えるほどに。
「これは……」
それに気付いたカミコは、驚き言葉を失った。
こんなことはありえないと。
だが、これはその彼女こそが口にしていたことだったのだ。
一番大事なのは願いだと。
紋章持ちとしての力は、魂の強度に依存する。
固く揺るがない意志。
困難を乗り越えた経験。
心の底からの願望。
魂を強靭なものにする三つの要素のなかで、一番大事なのが願いなのだ。
願いこそが意志を支える。
困難を乗り越える力を与える。
心の燃料となり、人を突き動かす。
けれど。
一方でカミコによって指摘されて、グレイはこうも自覚していた。
自分にあるのは、生物として当然の生存欲求だけだと。
自分には人としてあるべき望みがないのだと。
ゆえに、ここにひとつの事実が明らかになる。
すなわち、グレイという存在はこれまで――最も大事な望みという要素を欠いたまま、邪神の契約者としての力を発揮してきたということになる。
彼にあったのは、死病と戦い続けた強靱な意思力と経験のみ。
ただそれだけで、心の燃料もないままにゾンビのように戦い続けてきたのだ。
そんな彼が、ついに自分の望みを手に入れた。
だからこそ、いま神域への門が開かれる。
恐るべき鬼に対して一歩もひくことなく、少年は紋章の輝き増す左腕を掲げた。
「――神器創成」
 




