32. 第一層攻略
32
住み慣れた部屋に別れを告げる。
準備は万端。
第一層に挑むだけの戦力の検討はすでに終わった。
手に入れた地図が正しいものであることも、昨日のうちにある程度確認は取ってある。
グレイたち3人は第一層に足を踏み入れた。
地図を描いたアーサーは斥候としての隠密の技能に加え、専用の魔法や道具を活用することで第一層を抜けたらしいが、自分たちにはそれはできない。
その必要もない。
正面から打ち破るだけの戦力はあるのだから。
「ふう。終わりだ」
第一層で現れる『ふたつ角』クイーン・シャドーの、見上げるほどの影の巨体に刺さった剣を引き抜いて、グレイは息をついた。
ぽこぽこと子分体を生む『ふたつ角』でも中位クラスの厄介な魔物だが、サクラの魔法によって広範囲を薙ぎ払いつつ、グレイが本体に攻撃を仕掛けることで、危うげなく倒せた。
巨大な影の体が消えていく。
「お見事だね、グレイ」
一足先に、別の『ふたつ角』を下していたカミコが、声をかけてきた。
「にしても、ずいぶんと強くなったよね」
「それはまあ。いまは三階紋だからな」
魔石を拾い上げつつ答えた。
「といっても、肉体的なところがネックになっていて、三階紋の力はないんだけど」
「いやいや。そんなことないよ。根本的なところでも、ちゃんと強くなってるって」
カミコは首を横に振った。
「最初は紋章こそ二階紋だったけど、実力は一階紋の下位クラスだった。いまは三階紋になりたてで、二階紋の上位クラスはある。ギャップは確実に小さくなってるよ。肉体面でのハンデを他で補っているんだ。なかなかできることじゃない。そこは誇ってもいいことだと思うな」
「それは……なんというか、ありがとう」
迷宮のなかでありながら、カミコは心なし口数が多かった。
ちょくちょく声をかけてくる。
「言ったよね。紋章持ちの力には、魂の強度が重要なんだ。かたく揺るがない意志。困難を乗り越えた経験。心の底からの願望。グレイはこの迷宮に、かたく揺るがぬ意志で挑み、魔物との戦闘を繰り返して経験を積んだ。だからここまで強くなった。だけど、一番大事なのは願いなんだ」
「願い?」
「うん。そうだよ。願いこそが意志を支える。困難を乗り越える力を与える。願いは心の燃料となり、キミたち人を突き動かす。だからさ、グレイ。これからも、それを忘れないようにしなよね」
親しさと心配のないまぜになった顔で、カミコは言葉をつむいだ。
これが最後だから。
なにかあったときに、自分はそこにいないから。
せめて伝えられる限りを伝えようという気持ちが、そうさせるのかもしれない。
だからそこにはなにも言わず、グレイは歩を進めた。
第一層で通用する戦力があるとはいえ、気を抜くつもりはない。
精霊サクラの索敵を頼りに、慎重に進んでいく。
脱出が目的なので、魔物を探し歩くいつもの探索よりも戦闘は少なく、消耗もほとんどないくらいだった。
それでも、念には念を入れる。
「そろそろ、休憩にするか」
「はい、お兄様」
「いいんじゃないかな」
提案にふたりの同意を得て、小休止を摂るために足をとめる。
通路が交差している四つ辻で、なにかあっても対応しやすい位置取りだった。
カミコが魔力を込めて軽く手を振り、さっと床の埃や汚れを吹き飛ばした。
これくらいならグレイもできるが、彼女ほどなにげなくはできない。
さすがは神様、なんでもできる……というのは少し違っていて、実はこれは封印の部屋を過ごしやすくするために、毎日掃除をしていた余禄であることをグレイは知っていた。
初めて見たときには神秘の業とも思えた魔法が、たまに便利なお掃除用品に見えることがある今日この頃である。
ともあれ、綺麗になった床に腰を降ろす。
と、にんまりしたカミコが隣に飛び込むように腰を降ろすと、左腕を取ってきた
続いてサクラが、はっとしたように逆側に座り込み、ぎゅっと右腕に抱きついてくる。
「へへーん、横取った」
「わたしも、取った、です」
「……こういうときは普通、車座になるんじゃねえかな」
カミコはスキンシップを好むうえに悪戯っぽい性格なので、よくちょっかいをかけてくる。
サクラは迷宮探索の間、おんぶの日々だったために、接触に抵抗がない。
いつものことだ。
あまり言っても仕方ない。
……と、なんだかんだ、そんなふたりに慣らされてしまっている自分に、いまのグレイは気付いていなかった。
「そろそろ、半分以上はきたかな」
距離を気にした言葉を口にするカミコに、グレイは頷いてみせた。
「もう3分の2は進んだ。このままのペースでも2時間かからないだろ」
迷宮は面積としてはかなり広い。
それこそ全域を探索しようとすれば何日かかっても終わらないだろう。
だが、最短距離で移動するなら、慎重に進んでもそう時間はかからない。
「サクラのおかげで戦いも避けられているし、順調だな。といっても、気をゆるめたら駄目だけど」
「ふふっ。グレイはそのへん、きっちりしてるよね。そこは心配しなくて大丈夫そうだ……」
順調に、着実に、前に進んでいる。
喜ばしいことだ。
けれど、それはつまり、別れが近付いているということでもあって……。
同じことを考えたのかもしれない。
小さく笑ったカミコは、抱きついた腕にひたいを寄せるようにしてきた。
失われるものを惜しむように。
あるいは……と、グレイは思う。
そのように感じられるのは、自分自身がそう思っているからではないだろうか。
胸がざわめくのだ。
時間が経てば落ち着くかと思っていたけれど、むしろ昨日より強い。
いよいよという段になって、胸のざわめきは明瞭なかたちを取りつつあった。
それは、予感だ。
まるで自分が、なにか大事なものを手放してしまいそうになっているかのような。
それがなければ『死んでしまう』ような。
そんな、不安に満ちた予感。
……そんな馬鹿な。
生きのびるために、自分は危険な迷宮を脱出するのだ。
少なくとも、物理的な意味での危険は薄まる。
ありえるとしたら、これは心理的な部分での不安ということになる。
だったら、ますますわからない。
だいたい、カミコとだって、死に別れるわけではない。
ただ、離れ離れになってしまうだけだ。
前世の病室で、ずっとひとりだったことを考えれば、今回はカミコひとりがいなくなるだけだ。
なにも変わらない。
それなのに、どうしてこうも胸がうずくのだろうか。
「……」
気付けば、そんな自分たちをサクラがじっと見つめていた。
茫漠とした光を宿した翡翠と白灰色の瞳は、どこか心の底を映す水鏡を思わせる。
横たわるばかりのただのホムンクルスであったときから、その目は自分をいつも見つめていた。
だからこそ、気付けることもあったのかもしれない。
「お兄様。カミコ様。おふたりは……」
彼女は口を開いた。
なにを言おうとしたのだろうか。
しかし、そのときだった。
「これは……」
なにかを感じ取ったかのように、小さくカミコがつぶやいた。




