29. 解放
29
紋章持ちとしての力量を示す紋章は、グレイの場合、左腕の前腕部に存在する。
魔力を駆動させると輝きを得る紋章は、以前とはかたちが少し変わっていた。
角の丸い長方形が重なり合う模様は複雑性が増しており、長方形の数は増えて手首とひじの双方向に伸びている。
今日までの数ヶ月におよぶ日々の結晶。
三階紋だった。
そして、これこそが第一層に進むための資格でもあった。
というのも、三階紋への到達は、カミコから提示されていた迷宮を脱出するための条件だったからだ。
その目標が、ついに果たされたことになる。
それでは、なぜ提示された条件は三階紋だったのか。
もちろん、グレイ自身の力が増すことは大きい。
しかし、もうひとつ大きな要因があることを忘れてはならなかった。
「ふむ。それじゃあ、確かめてみますか」
明るい声でカミコが宣言した。
普段と比べると、その表情はどこか浮足立ったものだ。
彼女はグレイとサクラの視線を集めつつ、邪神の封印部屋の祭壇にひらりと飛び乗った。
くるりと正面を向くと、パチンとひとつ指を鳴らす。
途端、その身につながれた鎖が具現化された。
いずこともなく伸びる鎖に実体はない。
とはいえ、だからといって、存在を縛りつける機能がないわけではない。
この鎖は邪神の封印を視覚化したものだ。
つまりは、現在の封印の状態を反映している。
いまだに鎖は少女の体につながれたままだった。
しかし、その一方で鎖は完全にゆるんでおり、地面に垂れていた。
それはつまり、この迷宮から逃げ出すことはできないにしても、ある程度の自由が確保されたということであり――
「どうだ、カミコ?」
「……うん」
と、カミコは自分の両手をまじまじと見つめると、確かめるように頷いた。
「……これなら、この部屋を出られる。迷宮の入り口までいけると思う」
契約者であるグレイの力が増すにつれて、カミコの封印はゆるむ。
三階紋というのは、彼女がこの封印部屋から出ることのできるようになる階級だった。
第一層を攻略するに当たって、邪神たる彼女の参戦がどれだけ助けになるかは言うまでもない。
そして、それは彼女にとって長年の望みが叶う瞬間でもあったのだ。
「うん。うんっ。これなら……これなら! グレイ!」
弾んだ声が名前を呼んだ。
もうこらえられないとでもいわんばかりに、勢いよくカミコは祭壇を飛び降りる。
ふわりと広がる漆黒の美しい髪。
カミコはグレイに駆け寄ると、その手を取って引っ張った。
「お、おい。カミコ……っ」
「来て!」
相手の困惑に気付く余裕もあればこそ。
握った手を引いて、彼女は一目散に部屋の入口へと駆けた。
尾を引くようにじゃらじゃらと音を立てる鎖は、もう彼女をこの部屋にとどめない。
その足が、部屋の外の石床を踏んだ。
「……ぁあ」
少女の口から、震える吐息がもれた。
そこにあるのは、もちろん、朽ちた冷たい石の廊下だ。
グレイにしてみれば、部屋のなかとそう変わり映えのしないさびしい景色でしかなかった。
しかし、カミコにとっては違うのだろう。
彼女は本当に長い間、あの祭壇に封じられ続けていたのだから。
「グレイ……!」
こちらを振り返った彼女の目元は、興奮に赤く染まっていた。
泣くような笑うような表情は、大きな感情をどう表現していいかわからないせいに違いない。
いつでも感情を素直に表現するし、ころころと表情を変える彼女だ。
けれど、こんな顔は見たことがなかった。
あふれんばかりの喜びが、少女を満たしているのが一目でわかる。
黄金の瞳が湖面のように揺れて、こちらを一心に見つめる眼差しは熱を帯びている。
グレイはそのさまに目を奪われて――
「ありがとう、グレイ……!」
次の瞬間、正面から抱きついてきたカミコを反射的に受けとめていた。
「ありがとう。ありがとう。キミのおかげで、わたしは少し自由になれた……!」
口にされた言葉には、万感の想いがこもっていた。
「俺は……別に。お礼なんか」
「ううん。本当に、感謝してるんだよ」
耳元でささやかれる言葉。
胸のなかの気持ちを分け合うような熱い抱擁に、まるでこちらの体にも火が灯ったように感じた。
不思議な感覚が生まれるのをグレイは自覚した。
なぜだろうか。
喜んでいるのはカミコなのに、なんだか自分まで嬉しい。
「……」
前世での自分はただ病床であがくことしかできなかった。
こんなふうに自分がなにかをすることで、誰かが喜んでくれるようなことはなかった。
そのうえ、それが自分の……パートナーの彼女だというのだ。
こんなことは初めてだったから、とまどわずにはいられない。
けれど、そのとまどいは決して悪いものではなかった。
「……よかったな。カミコ」
グレイは少し迷ってから、自分からも少女の背中に腕を回した。
ぎゅっと抱きしめ合う。
そうして喜びを分かち合う。
追いかけてきたサクラが、そんなふたりを見つめていた。
いつもぼうっと無表情な彼女の口もとも、いまばかりは心なしかほころんでいるように見えるのだった。




