02. 難を逃れて
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≪困ってるみたいだね≫
誰もいないと思っていたところに響いたのは、少女の声だった。
「うお!?」
完全に不意を突かれてしまい、少年は慌ててあたりを見回した。
「……誰かいるのか」
壁の明かりは頼りなく、ほとんど視界は利いていない。
ただ、近くに誰かいるような気配はなかった。
あるのは、精霊の小さな光だけだ。
「それとも、まさかいまのはお前が?」
視線を向けるが、精霊はふよふよ浮かんでいるだけだ。
なにが起こっているのか。
まだまともに動けないこの状況で、よくわからないことが起きるのは怖い。
そんな少年の内心も知らず、声の主は明るく答えた。
≪あはは。違うよ。その子はね、わたしにキミのことを教えてくれたんだよ≫
慌てた反応がおかしかったらしく、面白がるような声だった。
≪わたしはそこにはいないよ。これは、思念を届けてるんだ≫
「思念を……?」
言われてみれば、確かに声は耳に聞こえない。
脳内で声が響いている。
奇妙な感覚だが、間違いなかった。
「テレパシーってことか」
≪そうだね。その理解でいいと思う。使っているのは魔法だけどね≫
「……魔法」
思わず、眉が寄った。
魔法。
植え付けられた知識のなかにあったので、あるのだろうと考えてはいた。
そして、いま自分は魔法による干渉を受けているということらしい。
よくわからないことをされているというのは、正直、あまり良い気分ではなかった。
ただ、この声の主は、この世界で初めて出会った人物だ。
それも、どうやらこちらに敵意を持っている様子はない。
絶対的に情報が足りていないいま、これは貴重な機会だった。
「……お前はなんだ」
結局、慎重に尋ねることにした。
もちろん、警戒は解かないけれど。
対して、声はあくまで能天気だった。
≪答えてもいいんだけど、時間がかかるかなあ。それより前に、移動したほうがいいと思う≫
「なに?」
≪わたしのところまで、来てほしいんだ。話はそれからにしない? まだ大丈夫だけれど、移動したほうがいいと思うしね≫
「……」
ますます眉が寄るのを自覚した。
声の主は、自分が誰だかも話さないのに来いという。
こちらにしてみれば、まだ信頼できるかどうかもわからない相手だ。
明るい声からは悪い印象は受けないが、声だけではわからないこともある。
それなのに、ほいほいと行けるわけが……。
「……いや。待て」
いま、他に気になることを言っていなかっただろうか。
「『まだ大丈夫だけど』だって……?」
ぞっとした。
それは、裏返せば『いずれ大丈夫ではなくなる』ということだ。
実際、声はあっさりと言った。
≪うん。そこ、危険だからね≫
「……っ」
反射的に、周囲を見回した。
古い遺跡のような通路の様子は、変わらず乏しい光源でろくに見えない。
ただ、もう鼻が慣れてしまっているが、意識すると嫌な臭いがしていることに気付いた。
自分がここにきた経緯を思い出す。
ホムンクルスで、実験体で、失敗作。
No.17947。
廃棄されたのは、間違いなく自分だけではない。
実際、そばには他に捨てられたホムンクルスがひとりいる。
数字の数だけ実験体がいたのなら、自分のようにここに捨てられたモノが過去どれだけいたのか、わかったものではない。
けれど、他にこれまで捨てられた実験体の姿は見えない。
さっきから感じている嫌な臭いはなんなのか。
捨てられた他の膨大な数の失敗作はどうなったのか。
猛烈に嫌な予感がした。
「……どっちに行けばいい?」
端的に問い掛ける。
迷っている暇はなかった。
≪その子についてきて≫
「その子?」
≪精霊のこと。案内するように言い聞かせておいたからさ≫
見れば、精霊がふよふよと揺れている。
道案内をしてくれるということらしい。
≪そのへんにね、通路に彫られた文字で、境界線が引いてあるのがわかると思う。そこまでいけば大丈夫。『やつ』はそこから絶対にこっちには来れないから≫
「……わかった」
わからないことは多い。
だが、この際、その言葉を信用するしかない。
生きるために、最善の行動を。
さいわい、すでに這いずって移動することくらいならできる。
痛みに堪えて体を動かしていて、本当によかった。
時間はあるということだし、なんの問題もない……。
「……あ」
だが、そこでふと気付いた。
気付いてしまった。
倒れている、もうひとりのホムンクルスの存在に。
この場には、もうひとりいたのだった。
ぴくりとも動かないし、話しかけても反応しないことはすでに確認している。
ただ、生きてはいるのだ。
息をしている。
しかし、このままここに置いておいたら、どうなるかはわからない。
「……」
人影はぐったりと倒れたまま。
そこに、病床に縛られて死を迎えようとするみじめな誰かの姿が重なった。
「……くそっ」
≪え? なに?≫
気付けば体が動いていた。
這いずって近付いた。
倒れているホムンクルスの見た目は、せいぜい10代半ばだ。
背は低いし、体は細い。
大人なら簡単に運べるだろう。
だが、この場合、運ぶ側の自分も同じような体格だ。
おまけに、まだまともに体が動かない。
とてもではないが、運べない。
このままでは。
≪あれ? あれれ? なになに、どうかしたの?≫
頭のなかで声がした。
能天気とも感じられるが、どちらかといえば、状況がわかっていない感じだった。
どうやらリアルタイムで状況を把握しているわけではないらしい。
あくまで声を届けているだけということなのだろう。
≪もしもーし。どうかした?≫
それにしても、さっきからずいぶんとなれなれしい。
話好きなのかもしれない。
だが、それは現状では好ましい。
いま情報を手に入れられるとしたら、彼女しかいないからだ。
「なあ。魔法ってどうやったら使えるんだ?」
≪……え? なに、いきなり?≫
尋ねると、頭のなかの声は不思議そうにした。
≪というか、変なことを聞くんだね。ホムンクルスは大抵、製造段階で魔法の知識を植え付けられるはずだけど≫
「俺は失敗作として捨てられたんだ。知識が一部欠けてる。魔力がどんなものかわからない」
≪ああ。そういうこと≫
納得できたのか、声は必要なことを教えてくれた。
≪だったら……ほら。頭のなかがざわざわしない? それが魔法の干渉だよ。わたしの魔力を感じ取ってるんだ。やろうと思えば、干渉を打ち消すこともできるよ≫
「なるほど」
確かに、意識を向けてみると、頭のなかに違和感があった。
視覚でも、聴覚でも、嗅覚でも、触覚でも、味覚でもない感覚で、感じ取れるなにか。
ひとつ感覚器官が増えたような。
この感覚を元の世界の言葉で表すのは難しい。
あえていうなら、それは『目であり手であるもの』だった。
その奇妙な感覚を自分自身に向けてみると、自分の体から薄らと魔力が放出されていることに気付いた。
わかる。わかる。
こちらが自分の魔力だ。
感じ取ることもできないものを操作することはできない。
だから、先程までは魔法を使うことができなかった。
いまは声の主に指摘してもらったおかげで、干渉してくる魔力を感じ取れている。
ここまでくれば、あとは簡単だった。
なぜなら、それは『目』であると同時に『手』でもあるのだから。
「打ち消すこともできるって言ったな」
≪え。あ、ちょっ、待っ……≫
頭のなかに触れている魔力を、こちらの魔力の『手』で抵抗して掻き消す。
すんなりと、ざわざわした感覚が消えた。
同時に声も届かなくなった。
「よし」
予行練習は成功だった。
これならいける。
植えつけられた知識には『魔力の認識の仕方』の情報は欠けていたが『魔力の使い方』については情報があったからだ。
その知識によれば、魔力は世界に意志を届ける媒体なのだという。
意思によって世界を正しく認識し、意志によって世界を塗り潰す。
それが、魔法である。
魔力の扱いはもちろん、意志力などが重要なファクターとなり、どれだけの規模でどのような魔法が使えるのかが決まるらしいのだが……。
いまは難しい話はいい。
重要なのは、この場で必要な魔法が簡単な部類であることだった。
「強化の魔法」
それは、最も簡単な魔法の名前だ。
強化の魔法は、対象の性能を上げる魔法である。
そして、すべての魔法に言えることだが、対象として一番干渉しやすいのは自分自身の肉体だ。
つまるところ、最も簡単な魔法とは『自分の肉体』を『強化する』魔法ということになる。
筋力出力、肉体強度、敏捷性、反応速度、自然治癒力、生命力。
強化できる対象はいろいろあるが、いま必要なのは単純な筋力だ。
つまり――
「自分の筋力を強化してやればいい……っ」
正確にいえば、どうやら先程から無意識に使ってもいたようだ。
だから、さっき自分の体をチェックしたとき、そこを流れる魔力が感じ取れたのだった。
無意識に魔力を使っていたあたりは、ホムンクルス――魔法生物としての特性なのかもしれない。
魔法によって創られたモノなら、魔法を使えて当たり前。
もっとも、貧弱過ぎる体の代償としてはまったく釣り合うものではないが。
ともあれ。
これまでの無意識の強化では、効果は微々たるものだった。
今度は、それを意志を込めてやってやればいい。
「……む」
肉体に魔力を通した。
途端に、全身が熱を帯びたような感覚があった。
さっきまで支えるだけでも大変だった自分の体が、軽くなったように感じる。
成功だ。
これで、超人的な力を発揮することが……。
いや。それはない。
強化の効果自体がたいしたことないのもあるが、元の肉体が貧弱過ぎた。
強化後でようやく、年相応の10代半ばの筋力。
それも、どちらかといえば非力なほうだ。
それでも、さっきまでに比べればマシだった。
これなら倒れているもうひとりのホムンクルスを引きずることくらいはできる。
さっそく、肩に担いで引きずって、移動を開始した。
「ぐぐぐ……」
途端、まだもろい関節が悲鳴をあげた。
しかし、泣き言は言っていられない。
筋肉出力を強化しているぶんの魔力を肉体強度に回せば痛みは薄れるだろうが、そうすれば引きずることも難しくなる。
堪えるしかない。
「ぐっ、ぬ……」
心なしか焦ったようにぴょこぴょこ動く精霊のほうへと、少しずつ移動していく。
歯を食いしばる。
5分か、10分か。
どれだけ経った? 時計がほしい。
いや。あったら余計に焦ってしまうから、なくてよかったのか。
「……これか」
声は『通路に文字が彫られていて、境界線が引いてある』と言っていた。
確かにあった。
あたりは暗いが、這いずっていたので感触でわかった。
あの声は『そこまでいけば大丈夫。やつはそこから絶対にこっちには来れない』と言っていた。
いまは、その言葉を信じるしかない。
気付けば、先程感じた嫌な臭いは薄くなっていた。
それだけ離れたということだ。
念のために、もっと遠くまで這いずってからとまった。
ずいぶん、時間を使ってしまった。
息があがっている。
体力を使ってしまった。
しばらく息を整える。
なにげなく振り返った――途端に、全身が凍り付いた。
通路の向こうに『それ』が姿を現していたからだ。
「……ぁ」
死だ。
死が地上を歩いている。
そう感じられてしまうくらいに、あまりにも『それ』は禍々しかった。
遠目には大男と見えた。
少なくとも人型ではあった。
だが、人にしては大き過ぎる。
背丈は3メートル以上はあるだろう。
筋肉で膨れ上がった体は、ほとんど大岩が動いているに等しい。
鬼という単語が脳裏をよぎった。
実際、頭には5本の短い角が生えていた。
燃え盛る火のような赤い目がこちらを向いた。
冗談ではなく、一瞬、心臓がとまった。
「……っ、ふっ、かはっ」
まともに息ができない。
これは死ぬ。
殺される。
そう確信した。
だが、鬼はそこできびすを返した。
「……?」
これは……こちらが見えていない、のか?
疑問に思ったところで、思い出した。
そういえば『そこまでいけば大丈夫』と、声は教えてくれていたのだった。
辿り着いたこの場所は安全だ。
その事実さえ忘れてしまっていたのは、それだけ目の前の存在が圧倒的過ぎたからだろう。
死の気配をまき散らしながら、鬼は去っていく。
見えていないとわかっていても、少年はそのうしろ姿が消えるまで、息を詰めて見つめることしかできなかった。
***
どれだけ凍り付いていただろうか。
めまいを覚えて、息をしていないままだったことに気付いた。
「づっ、あぁ……」
酸欠になりかけて、短くあえぐように息をする。
無意識のうちに、ここまで引っ張ってきたホムンクルスの体を抱きしめていたが、気にしている余裕はなかった。
本当に、いま自分は生きているのだろうか。
もう鬼の姿はないのに、生きた心地がしなかった。
廃棄されたホムンクルスを『処理』していたのが、あの鬼であることは疑いようがない。
あのまま倒れていたら、自分は今頃わずかな肉片だけになっていただろう。
「……よかった」
思いっきり脱力した。
絶対的な死から逃れることができたのだ。
心の底から安堵した。
生きている。
それが一番大事なことで、確かなひとつの成果だった。
あれだけの存在が相手だったのだから、なおさらだ。
そうしてへたり込んでいると、精霊の光が視界に入った。
これまでになく近付いてきて、目の前をただよっている。
ひょっとして、心配してくれてるんだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、頭がざわざわした。
≪ちょっと! 酷いよ!≫
少し怒ったような声が届いた。
≪いきなり切るんだから!≫
そういえば、彼女の魔法の声を消してしまっていたのだった。
ただ、いまは反応をする力がなかった。
≪……あれ? ちょっと。返事がないけど、大丈夫? 声、届いてる感覚はあるから、生きてはいるよね。ひょっとして、怪我でもした?≫
こちらが反応しなかったのでなにかあったと気付いたらしい。
声が途端に心配そうなものになった。
ずいぶんなお人好しのようだ。
これだったら……。
いいや、そうでなくても、もはや選択肢はない。
「……」
脱力していた体に、もう一度、気を張り直した。
自分は鬼を見た。
この世界にはあのような危険があることを知った。
今回は逃れることはできた。
だが、次はどうかわからない。
だから……。
「……大丈夫だ。怪我はしてない」
≪あ。よかった≫
答えると、伝わってくる声の調子がいくぶん、ほっとしたふうになった。
≪無事だったんだね。それならよかっ……≫
「悪いが、話がある」
ゆるんだ声をさえぎった。
生きるために。
「さっき、お前のところに行けば話をしてくれるって言ったよな。どこに行けばいい?」