01. 始まりの契約
新シリーズです。
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「ねえ。知ってる? この世界には、たくさんの神様がいるんだよ」
古い祭壇に腰掛けて、少女はそう問いかけてきた。
とても綺麗な少女だった。
年の頃は10代の半ばほどだろうか。
神秘的なまでに整った顔立ちだが、生き生きとした明るい表情のために、とっつきにくさは感じない。
小柄ではあるものの手足はすらりと伸びており、恵まれた体のラインが神官風の白い衣服の胸元を柔らかく押し上げている。
その起伏の上を流れる黒い髪は、腰まで届くほどに長くてつややかだ。
黄金の瞳を嬉しそうに輝かせて、彼女は続けた。
「至高神を頂点に階級に分かれた神々は、人の世を見守り、ときに使徒との契約ってかたちで干渉する。もっとも、例外はあるんだけど」
「例外?」
こちらから尋ねると、少女は笑みを深めた。
そうして話をできること自体が、楽しくってしょうがないと言わんばかりに。
「うん、そう。例外。階級を持たない神。この世界では、邪神なんて呼ばれてるね」
「邪神……」
「といっても、邪神は……邪神にされてしまった神々は、大抵が封印されてるし、そうでなくても世界にはろくに干渉できないんだけどね。彼らは世のことわりから外れているから、自然な営みのなかで生まれた人々とは契約できないんだ」
あとから知ることになるのだが、それはこの世界の常識だった。
しかし、このときの自分にとってはそうではなかった。
とはいえ、それは自分が非常識だということではなく、特殊な事情があってのことだ。
それを知っていたから、少女はなめらかに言葉をつないだ。
「邪神が契約できるのは、自然のことわりとは外れた『人工的な手段で生み出されたモノ』だけ。ただし、そんな手段で生まれたモノには、今度は『契約を交わすために必要な魂』が宿らない」
「……それじゃあ、どうしようもないってことか」
邪神が契約できるのは人工的な存在だけ。
人工的な存在には魂が宿らないので契約できない。
どうしようもない。
少女は頷いた。
「うん。そういうこと。これまではね」
整った顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「だから、キミなんだよ」
そう告げる少女の瞳のなかに、目の前に立つ自分の姿が映し出されている。
ただただ貧相な少年の姿が。
あるいは、自然の理とは違う手段で生まれながら、本来宿らない魂を持つ存在が。
邪神たる少女の前に立っている。
「提案があるんだ」
真摯で誠実な声が、運命を動かす。
「わたしと契約をしてほしい。キミだけができる、例外の契約を。わたしは、キミがこの世界を生き抜く力になるよ。その代わりに、キミは――」
にっこりと邪気なく笑って、お人好しの邪神の少女は言ったのだ。
「――わたしの友達になってよ」
これが最初の契約だ。
邪神に堕とされた少女たちと、運命に見放されたちっぽけな少年とが交わすことになる、神聖な契りの一番目。
いずれ世界を大きく動かすことになる少年の物語は、ここから始まる。
始まりは、数時間前のこと。
少年は異世界に転生した。
***
――ホムンクルス、というらしい。
正確に言えば、実験体魔法生物・ホムンクルス・No.17947。
それが、異世界に転生した自分の身分だった。
訂正。その10秒後にはクラス・チェンジしていた。
実験体魔法生物・ホムンクルス・No.17947・失敗作と。
「廃棄しろ」
そんな声が聞こえたと思った直後、培養槽に浮かんでいた体がびしゃりと床に投げ出された。
濡れた肌を冷やす空気の感触。
混乱する。
なにが起きた?
わからない。
聴覚と触覚は生きているが、視覚は機能していなかった。
体はぴくりとも動かない。
混乱しているうちに、どうやら誰かに担ぎ上げられた。
そのまま運び出される。
移動時間は、そう長くなかった。
一度立ち止まったのがわかり、体のなかをぞわりとなにかが走り抜けるような感覚があった。
直後、浮遊するような感覚がして、無造作に体が投げ出された。
衝撃と痛み。
うめき声が出た。
倒れた体に、硬い石の感触がある。
廃棄……廃棄しろ、と言っていたか?
捨てられた?
そのあたりで、もやのかかった思考がようやくはっきりしてきた。
そして、『思考がはっきりしている』という事実に違和感を覚えた。
そんなこと、ここ1年ほどはなかったはずだ。
間違いない。
いや。だが、1年前?
自分はたったいま、製造後すぐに捨てられたばかりではなかったか。
なにか変だ。
なにもかもおかしい。
なにより、体が動かない。
普通ならパニックになっていたかもしれない。
ただ、さいわいと言っていいものか、自分は――こうした状況に慣れていた。
だから、冷たい石の体に身を横たえたまま、ここに至る経緯を思い起こそうと努めることができた。
そうして、思い出した。
自分がいったい、何者であるのかを。
あるいは、何者にもなれなかった自分のことを思い出した。
***
白い天井。慣れ親しんだベッド。清潔なシーツ。
腕に繋がった何本ものチューブと、その先につながった最先端の医療機器。
ただ命をつないでいるだけの生き物。
覚えている自分の姿は、そうしたものだった。
生まれつき、ベッドから出ることのできない子供だった。
それも、科学の発展したいまの世の中でさえ、成長することが難しいほどの病気だ。
それなりに高額な医療費を払い続けられる家に生まれたことは幸運だったのだろう。
……一方で、その金がただ家の面目を保つためだけに支払われており、親の顔もまともに見たことがない環境だったのは、不幸と言えたかもしれない。
もっとも、これだけ酷い病と生まれたときから抱き合わせだった事実を思えば、多少の幸や不幸なんて誤差みたいなものだ。
少なくとも、自分ではそう認識していた。
容体が悪化したのは、10歳のときだった。
その時点でできるかぎりの措置は行われていたから、医者には1年もたないだろうと言われた。
しかし、闘病生活は、実に7年に及んだ。
内容については……正直、思い出したくもない。
脳味噌と内臓を秒ごとにかき回されるような、苦痛に満ちた日々だった。
体がどんどん壊れていく時間は、1秒1秒が恐怖に満ちていた。
それでも、生にしがみついた。
重い病気を抱えているときに重要なのは、本人の生きる意志なのだという。
その7年間は、気力だけで命をつないでいるようなものだった。
苦しくても死なない。
痛くても死なない。
……死にたくなっても、死なない。
だって、これではあまりにみじめだ。
自分の人生はただベッドの上で苦しんだだけ。
ただ、それだけだ。
そんなのってない。
あんまりだ。
だから、絶対に諦めなかった。
結局、それがただ苦しむだけの時間を伸ばすだけなのはわかっていても。
奇跡的だと何度も言われた。
どうして生きているのかわからないと驚かれた。
最後には、気味悪がられるようになった。
けれど、人間の限界をいくつも超えたその先で、命の限りは来てしまった。
それでも。
それでも、自分は――。
***
少し経つと、目が見えるようになった。
となれば、まず状況を把握することだ。
そう判断した。
冷静な行動を取れている……と、言っていいのではないだろうか。
といっても、恐怖を感じていないわけではなかった。
ただ、そんなものより命を脅かされている危機感のほうが強かっただけだ。
生きるために。
それが、自分にとって最も大事なことだ。
恐怖に縛られているような時間はない。
周囲を注意深く見回した。
「……」
石造りの通路の真ん中に、自分は捨てられたようだった。
通路には窓がなく、外は見えない。
壁のところどころに取り付けられた不可思議な石が、頼りない光を発していた。
光源の周り以外は輪郭くらいしか見えないが、通路は古く風化しているようだ。
空気は埃っぽく、いやな臭いがする。
捨てられたのは自分ひとりだけではないらしく、近くに人影がひとつ転がっているのが見えた。
実験体。ホムンクルス。失敗作。
そんな単語が頭に泡のように浮かび、消えた。
ここはどこだ?
自分はなんだ?
なにがどうなってこうなった?
疑問はたくさんあった。
だが、いまはひとまず置いておく。
それどころではなかったからだ。
「……いきて、る?」
生きている。
声を出したのどが、ひどく痛んだ。
けれど、その痛みこそが生きている証だった。
痛みさえなくなったときの途方もない恐怖を覚えているから、そう言い切れた。
いまは痛い。
だったら、生きている。
そこまできて、混乱していた頭がようやく状況を呑み込んだ。
この日、自分は生まれ変わった。
人とは別の存在として。
***
状況を整理しよう。
絶望的な闘病生活のすえに死んだ自分は、製造されたばかりのホムンクルスとして目覚めた。
フラスコの中の小人。
ただし『小人』とは言うが、現在のホムンクルスは人間の少年少女と背格好はそう変わらない。
違うところは、人と人との交わりの結果ではなく、培養槽で生み出された魔法生物であるということだ。
それも、自分はただのホムンクルスではない。
実験体魔法生物。
No.17947、失敗作……のあたりは、この際どうでもいいか。
魔法生物というからには、魔法と呼ばれるものがあるらしい。
いや。あるらしいというか、あることはわかっている。
知っている。
その知識が、いまの自分にはあった。
……知らないはずの知識が、頭に刻み付けられているからだ。
どうやら製造段階での仕様らしい。
ホムンクルスがなんなのか知っていたのも、その知識のなかにあったからだ。
正直、かなり気持ち悪いが……埋め込まれてしまっているものはどうしようもない。
便利でもあるので、ここは我慢しておく。
どうやらその知識によれば、ここは元いた世界とは違うらしい。
大陸図なんかも頭に入っているのだが、どう考えてもこれは地球ではない。
もっとも、魔法なんてものがあるのだから、そのほうが納得はいくけれど。
ちなみに、自分にも魔法が使えるのかといえば、どうやらそれは無理らしい。
少なくとも、いまのところは。
肉体的には使えるはずなのだが、どうすれば使えるのかがさっぱりわからない。
知識に穴があいているのだ。
たとえば、魔力によって肉体を強化できることは知っている。
けれど、どうやってその魔力とやらを使えばいいのかわからない。
名前も知らないホムンクルス製作者は、どうやら失敗作とわかったところで、知識を流し込むのを中断してしまったらしい。
最後までやりきってほしかったが……。
まあこれはいい。
考えようによっては、失敗作認定されたおかげで培養槽から出て、自由を手にしたとも言えるからだ。
自意識に目覚める前のことを思い返してみると、ガラスの巨大な容器のなかに閉じ込められて、培養液に浮かんでいる記憶が薄らとあった。
あれは最悪だった。
なにせ自由がない。
生前の病室と同じだった。
いうなれば、前世ではあの病床こそが自分にとってのフラスコだったのだ。
逆戻りなど、ごめん被る。
それに、確かに知識が中途半端なのは残念だが、済んだことに文句を言ってもなんにもならない。
重要なことは他にあった。
こうして、生まれ変わったということだ。
それこそが大事だった。
気持ちが昂るのも仕方のないことだと思う。
もう一度、思いがけずチャンスを得られたのだ。
今度こそ、自分は生きる。
生きるのだ。
実験体だろうが、魔法生物だろうが、失敗作だろうが、この際、そんなのどうでもいい。
というか、そんなことを気にしている場合ではないとも言えた。
「……」
浮かれていたので、状況に気付くのが少し遅れてしまった。
いや。最初から認識はしていたので、危機感を覚えるのが遅れたというべきかもしれない。
ひとけのない古い石造りの通路にひとりきり。
倒れた体が動かない。
***
「……うっそだろ」
昂っていた気持ちが、一瞬のうちに冷えた。
嫌な予感が背筋を凍らせる。
まさか、またか。
またなのか。
起き上がれない体。ベッド一枚分の世界。
このパターンは知っていた。
同じだ。
まったく、同じだった。
全身に悪寒が走った。
ありえない。
呪われているのではないだろうか。
わめき出したくなる気持ちがわきあがって――大きく、息をついた。
「れいせい、になれ」
まだ舌たらずな口で、あえて自分に言い聞かせる。
冷静になるのだ。
呪いなんてあるものか。
あったとしても、屈したりなんてするものか。
「おちつけ」
どことも知れない、ひとけもない場所にひとりきり。
このまま動けなければ確実に死ぬが、ここで焦ってはいけない。
「おれは、いきる」
自然と、その言葉は口に出た。
前世での自分はただ死んだ。
けれど、自分はこうして別の存在として生まれ変わったのだ。
だったら、二度もただ死んでたまるものか。
「いきる、んだ」
奥歯を喰いしばる。
燃え上がるような想いが沸き上がった。
それは、理不尽への怒り。
前世の自分を生にしがみつかせたもの。
燃える想いは瞬く間に、恐慌を胸のうちから駆逐していく。
生きるのだ。
そのために、すべてを尽くせ。
「よし」
そうして、気持ちを切り替えることに成功した。
ここで冷静さを取り戻すことができたのは、前世での無残な経験があればこそだったかもしれない。
だとすれば、あんな経験をしていたのも無駄ではなかったとも言える。
ともあれ。
冷静になって思い返してみれば、目は見えるようになったのだ。
かすれきっているが、声だって出る。
多分、体が動かないのは、まだ『生まれたばかり』だからだ。
だとすれば、なんとかなる。
なんとかするのだ。
「まずは、ゆびから」
あえて口に出して、気合いを入れた。
意識を指に集中して、力を込める。
やはり動かない、が……。
「……お」
ぴくりと震えた。
まともに動いてくれないが、これで焦るのは素人だ。
反応するということは、神経は通っている。
神経が腐り落ちた生前の経験からすると、これは大丈夫なやつだ。
確信が得られれば、あとは大丈夫だと信じて続けるだけ。
継続は力なり。
じっくりと集中すると、ぴくぴく痙攣しながらも、ほら、少しずつ指が動き始めて……。
「……っい!?」
思わず引き攣った声が漏れた。
関節に鋭い痛みが走ったからだ。
「これ、は……」
考えてみれば、当然のことだった。
恐らく、この体は生まれて初めて動くはずだ。
関節が固まってしまっている。
そこを無理に動かすのだから、これはもう拷問に近い。
じわりと脂汗が浮かんだ。
ホムンクルスも汗をかくらしい。
ひとつ勉強になった。
だからもうやめてしまいたいが、それでは詰む。
せっかく、こうして生まれ変わったのだ。
諦めるわけにはいかない。
さいわい、こうした苦行には慣れていた。
生前でも、痛みをこらえて、放っておけば衰弱するばかりの体を動かすことはしていたからだ。
本来であれば、介護者に手伝ってもらってもっと負担のないかたちでやるべきだが、手伝ってくれる人間なんてここにはいない。
あまりもたもたしていると野垂れ死ぬ。
あるいは、もっと恐ろしい死に方をするか。
なにせ魔法なんてものがある世界だ。
自分自身もホムンクルスなんてよくわからないものになっている。
どんな危険が降りかかってくるかわかったものではなかった。
やるしかない。
「ぐ、がが……」
きしむ指をゆっくりと握り込んでいく。
再び開く。ゆっくり、ゆっくりだ。
当然、激痛はセットで付いてくる。
痛みに堪える。
堪えろ。堪えろ。自分に言い聞かせる。
何度か繰り返して、腕に移る。
「……ぁあ、ぎぎ」
痛みはいっそ殺せというレベルだったが、死ぬのはごめんだった。
全身を少しずつ動かしていく。
時間はじりじりと、痛みとともに進んでいく。
そうして、20分くらいは経っただろうか。
まだまだ先は長い。
だが、少しずつ体勢を変えることくらいはできるようになってきた。
「……ははっ」
笑いが口をついで出たのは、痛みをまぎらわせるためだったか。
それとも、呪いのような現状を打破しつつあることに、どんなもんだと見返してみせたのか。
どちらにしても、やることは変わらない。
生きるために、関節を動かす。
生きるために、激痛に堪える。
いつもやっていたことだ。
なら、やれる。
「しんで、たまるかよ……っ」
強く思い、口にした。
そのときだった。
「わっ」
心臓がとまるかと思った。
目の前を、小さな光がよぎったのだ。
***
自分の体だけに意識を向けていただけに、完全に虚を突かれてしまった。
「ぐっ……」
思わず驚いて体を跳ねかけて、走った激痛にうめいた。
身がまえているなら堪えられる痛みも、不意打ちだと別だ。
しかし、痛みを気にしている場合ではなかった。
「う、ぐ……な、なんだ」
なにもわからない世界。なにもわからない場所。
どんな危険があったものかわかったものではない。
「……うっ!?」
急いで状況を確認しようとして、血の気がひいた。
浮遊する小さな光が、すぐ近くで動きをとめているのを見たからだ。
指先ほどの小さな光だった。
緑がかったやわらかな色合いをしている。
目も鼻もないが、明らかにこちらを認識している挙動だった。
「……」
こいつはなんなのか。
危険なものではないのか。
いまはまともに動けない。
襲いかかられたら、ひとたまりもなくやられてしまう。
息がとまる。
時間が凍り付く。
「……」
そして、何事もなく10秒ほどが経過した。
さいわい、飛び出してきた小さな光がそれ以上のアクションを起こすことはなかった。
「なんだ。おどろか、せるなよ……」
ゆるゆると息を吐き出した。
寿命が縮むかと思った。
生まれた直後だというのに、冗談ではない。
とはいえ、危険がないのならそれに越したことはなかった。
改めて、浮遊する光を見つめた。
「こいつは……」
イメージとしては、ホタルが近いだろうか。
ふわふわと飛んでいる。
ただし、羽音のようなものはしない。
――当たり前だ。
――これは実体を持たない存在なのだから。
「ああ、なるほど」
落ち着いて観察できたからだろう。
頭に『精霊』という単語が浮かんだ。
ホムンクルスとして製造時に埋め込まれた断片的な情報のなかに、この存在のことが含まれていたのだ。
その知識によると、精霊は魔法生物と魔法現象の間の存在であり、ある程度の自律した意思を持ち、おおむね敵対的な存在ではない――らしい。
さすが魔法のある世界。
精霊なんてものもいるらしい。
ファンタジーだ。
ともあれ、どうやら知識によれば危険な存在ではないようだ。
その事実に安心して、ふと疑問に思った。
「それで、なんでその精霊が?」
尋ねてみるが、答えはない。
伝わっていないのか、伝わっているけれど答えるすべがないのか。
光はふよふよと浮かんでいるばかりだった。
「……まあいいか」
しばらく待っても状況が変わらないことを確認したところで、そう結論づけた。
気になるが、いまはやるべきことがある。
危害を加えてくる様子でもなし、気にしていても仕方ない。
気を取り直して、腕の曲げ伸ばしに戻ることにした。
すると、精霊はときに前に、ときにうしろに、移動しつつ近くをちょろちょろし始めた。
「……なんなんだ?」
わからないが、こちらを気にしているのは確かのようだった。
ホムンクルスの知識によれば……精霊というのは人里離れた『力ある土地』に住んでいるらしい。
ひょっとすると、普段は出会わない人間の存在が物珍しいのかもしれない。
もっとも、いまの自分はヒトではないが。
ちなみに『力ある土地』のほうは知識にないので、ここがどこであるかの手掛かりにはならない。
残念だった。
そんなことを考えている間も、歯を食いしばって手足を動かした。
というよりも、動かした体の痛みをまぎらわせるために思考を遊ばせているというのが正しい。
ふわふわと浮かぶ光は、しばらく近くを離れなかった。
なんとなくだが、見守ってくれているような感じもする。
悪い気持ちではなかった。
なんとなくだが、ちょろちょろしている小動物を見ている気持ちになる。
「……そういえば」
ふと思い出した。
「ぺっとがほしいと……おもったことが、あったっけな」
まだかろうじて体が動いた頃のことだった。
本当に幼い頃の話で、結局、飼うことはなかった。
あれはなにがきっかけだったのか。
あの頃の気持ちは、長い闘病生活のせいで思い出せない。
「……あ」
そんなことを考えていたら、不意に精霊は去っていってしまった。
追いかけることはまだできない。
少しだけ残念に思う自分がいた。
体が動くようになれば、また会う機会もあるかもしれない。
なんにしても、まずはこの体をどうにかすることだ。
歯を喰いしばった。
***
根気よくリハビリを続けた。
1時間ほどが経過した頃には、成果が出ていた。
どうにか体を持ち上げて、上体を起こすことに成功したのだ。
這いずれば移動もできそうだった。
ちょっと、達成感だ。
しかし、ほぼセルフ拷問の苦行ではあったものの、リハビリとして考えてみると、成果が出るまでの時間が短い。
むしろこれは、野生動物の子供が生まれてから歩けるようになるまで早い、というのと似た話なのかもしれない。
……そう考えてみると、動物の子供と違って苦しまなければいけなかったぶん、損した気分にもなるけれど。
「なんにしても、すぐ動けるのに越したことはない」
声のほうも、まともに出るようになった。
ちなみに、こちらの世界の言葉は製造段階でちゃんと頭に刻まれているので、会話はできるようだ。
これは良い発見だった。
もっとも、肝心の話相手はいないのだけれど。
ひとり、同時に廃棄されたホムンクルスが近くに転がっていたのだが、声をかけても揺すっても、まったく反応を示さなかった。
話し相手にはならない。
生きるために必要な情報を得ることもできない。
現状、あまりにもわかっていることが少な過ぎるのは問題だった。
「動けるようになったんだ。これからのことを考えないとな」
まだ少し舌がもつれるので、声を出す練習がてらつぶやいた。
そのときだった。
「あれ?」
目を丸める。
通路の向こうに、見たことのある緑の光が近付いてきたからだ。
間違いない、精霊だった。
「さっきの……?」
と、同じかどうかはわからないが。
少なくとも、見た目に見分けは付かない。
ふよふよと近付いてくる。
「戻ってきたのか?」
訊いてみるが、返事があるはずもない。
ひとりごとのようなものだった。
そのつもりだったのだ。
≪困ってるみたいだね≫
どこからか返ってきた声に、少年は目を見開いた。