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9.

 最高潮にイライラしながら玄関のドアを開けると、今まさに家を出るところだった理緒花(りおか)と鉢合わせた。

 サンダルとパンプスの中間みたいな靴を履き、今にも外へ飛び出そうとしていた理緒花が、俺の顔を見るなり「あっ……」と驚きの声を漏らす。

 目を見開いたその顔はみるみる血の気を失い、花柄カバーのスマホを握り締めながら、理緒花は2、3歩あとずさった。揺れる瞳はありありと絶望を物語り、グロスで濡れた唇が恐怖にわなないている。


「……よお、理緒花。こんな時間に、どこ行くんだ?」


 時刻は20時半。俺が飲み屋で鈴生(りんき)と別れてから、まだ30分と経っていなかった。理緒花は俺の帰宅まで、もう少し時間がかかると踏んだのだろうか。そんなことだろうと思ったから、タクシーで帰ってきたんだけどな。

 大事そうにスマホを握り締めているところを見ると、鈴生から連絡があったらしい。俺の説得に失敗したから、ふたりで駆け落ちでもしようって?

 まったく馬鹿だな。そう簡単に逃がすわけないだろ?

 俺より無能で頭も弱いくせに──こいつら、とことんナメくさりやがって。


「よ……佳巳(よしみ)……は、早いじゃん? 今日は帰り、遅くなるって……」

「ああ……そのつもりだったんだけどな。なんか急にお前の顔が見たくなって、早めに切り上げてきたんだよ。で、(めか)し込んでどこに行くんだ?」

「べ……別に粧し込んでなんかないでしょ。あんたが今夜ごはんいらないって言うから、コンビニにお弁当買いに行こうとしてただけで……よ、佳巳はごはん、食べてきたの? まだなら、一緒に買ってこよっか」

「いや、いい。なんか作れよ、お前。冷蔵庫になんにもないってことはないだろ? 急に帰ってきた俺も悪かったし──手伝うからさ」


 終始低く淡々と、抑揚を殺してそう言えば、理緒花は完全にうつむいた。この3年、俺も見たことがないくらい手の込んだ化粧をして、いかにもよそゆきのワンピースに身を包んだ理緒花は震えている。一見収まったように見えて、俺の中の嵐がまだ荒れ狂っているのを感じ取っているのだろう。

 だが分かっているなら話は早い。理緒花は今までの経験から、こういうときの俺に逆らえばどうなるか分かっている。従うしかないはずだ。

 俺は玄関を上がる素振りをしながら、理緒花の肩をがっしり抱いた。急に触れられた理緒花はびくりと飛び上がり、吐息を震わせて泣いている。


「ほら、早くしようぜ。腹減った」


 凍ったように硬い嫁の体を引きずって、俺は自宅に上がり込んだ。理緒花はよろめきながらもどうにかこうにか靴を脱ぎ、あとはされるがままついてくる。

 消えていたリビングの電気をつけ、キッチンの方へ理緒花を押しやった。たたらを踏んだ理緒花はキッチンとダイニングの狭間で立ち竦み、まだスマホを大事に抱えている。


「で? 食材、何あるんだよ」


 寝室にも戻らず、その場でスーツの上着を脱いだ俺は、ダイニングテーブルの椅子に邪魔なものをまとめて置いた。さっきまで稼働していたと思しいエアコンの電源を入れ、ついでに壁掛けテレビにもリモコンを向ける。

 途端にわあっと画面から溢れる歓声。見れば有名な音楽番組に、大人数の男性アイドルグループが出ているところだった。特に見たい番組もないからチャンネルは回さず、ネクタイを外して、ストライプ入りのワイシャツも腕まくりする。


「お前も鞄置けば?」


 慄然と佇んでいる理緒花にそう声をかけ、すぐ脇を通り抜けた。キッチンの戸棚に入っている男物のエプロンを取り出す。俺も伊達に数年間、寮暮らしをしていたわけじゃない。はっきり言って、料理は理緒花よりも上手い自信があった。


「理緒花。手伝え」


 いつまでも立ち尽くしている嫁に命令すれば、ボレロを羽織った肩がまた跳ねる。さすがに観念したのか、理緒花はとぼとぼとソファへ歩み寄り、夏色のショルダーバッグをついに下ろした。

 俺はそんな理緒花の後ろ姿を横目に見ながら、早くも夕飯後のことを考える。今夜は理緒花をめちゃくちゃに犯してやろう。明日が仕事だろうと構わない。

 心の真ん中に鈴生がいる今、俺に犯されるのは理緒花にとって最大の屈辱だろう。ここ数ヶ月、俺たちはずっとレスだったし、余計に嫌がるかもしれない。


 俺は泣き叫ぶ理緒花を押さえつけて無理矢理するところを夢想しながら、ニヤニヤ笑って冷蔵庫を開けた。中には思ったより色々な食材が入っている。卵に牛肉、豆腐、じゃがいも、茄子に玉ねぎ、にんじん……これだけ食うものがあるのによくもまあ、コンビニ弁当を買いに行くなんて言えたもんだ。

 とりあえず味噌汁でも作るか、と、俺は袋に包まれたままの茄子、豆腐、そして赤味噌の容器を取り出した。今夜は理緒花には絶対包丁を持たせない。調理の主導権は俺が握る。俺が常時凶器を手にしていれば、理緒花は絶対に逆らえないから。材料は先に切って、味つけだけあいつに任せればいい。

 正直、理緒花のメシはマズくて食えたもんじゃないが、今日だけは文句を言わずにおいてやろう──そう思いながら屈み込んで収納を開けた、直後だった。


「……っ!?」


 シュルッと蛇が這うような音がして、一瞬ののちに首が締まる。「がっ……」と呻いて腰を抜かし、首元へ手をやれば、さっき外したばかりのネクタイが俺の喉を締め上げていた。

 視線を上げた先には化粧を涙でぐしゃぐしゃにしながら、力いっぱい俺の首を締めている嫁。「理緒花、てめえ……」と呻いた声は声にならず、気管がギリギリと圧迫される──嘘だろ。これが女の力かよ?


「お願い、佳巳……死んで。早く死んで! あんたがいたら私、一生幸せになれない……! だから死んで、死んで、お願い、死んで……!」


 理緒花の方も半狂乱で、ふざけたことを喚きながらさらにネクタイを締め上げた。俺は呼吸が止まるというよりも、首の骨が折れるんじゃないかという恐怖に駆られて叫びながら暴れ出す──この女、この女、この女!!

 床に腰をついた俺は無我夢中で腕を伸ばすと、まず理緒花の顔面を鷲掴みにした。それに怯んだ理緒花の力が、ほんのわずかだが確かに弱まる。

 俺はその隙を見逃さなかった。体に反動をつけ、背中から体当たりを決めると、理緒花は笑えるほど呆気なく吹き飛んだ。後ろ向きに倒れ、食器棚に激突し、衝撃で開いた扉の向こうから色んなものが降ってくる。


 俺は荒い息をつきながら、床に散らばる諸々の中にギラリと光る(はさみ)を見つけた。理緒花がいつも調理に使っている万能鋏だ。

 おめきながら床を蹴り、迷わず鋏に飛びついた。すぐ傍で食器が割れて、破片が理緒花を怯ませる──今だ。あいつが起き上がる前に。

 閉じたままの鋏を振り上げ、俺は理緒花に襲いかかった。襲撃に気づいた理緒花が悲鳴を上げて逃げようとする。


 腰が抜けているのか立ち上がりこそしなかったが、這うようにして俺から遠ざかろうとした。瞬間、刃を防ぐべく伸ばされた腕を、万能鋏が引き裂いていく。

 「痛い……!」と甲高い悲鳴が上がり、血が飛沫(しぶ)いた。逃げ出そうとしていた理緒花の動きが止まる。そこに俺は何度も、何度も何度も何度も、鋏の先端を振り下ろした。刃が肉に突き刺さる感触が伝わってきて、返り血で両手が真っ赤に染まる。


「痛、い、やめ、て、佳巳、ゆるして、やめっ……グボッ……」


 既に全身傷だらけの理緒花の胸に、深々と鋏が突き立った。そこへ馬乗りになって体重をかければ、刃先が肺にでも達したのか「ア゛……ア゛、ァ゛、ギッ……」とか何とか、理緒花が苦しげにもがき出す。

 やがて口から血の泡を噴いて、理緒花は目を剥いたまま大人しくなった。バタバタと抵抗を続けていた両腕も力を失くし、糸が切れたように動かなくなる。


「ヒ……ヒヒッ……やった……ついにやってやったぞ、この女……! ふざけやがって……もっと早く……さっさと死ねば良かったのによォ……! 散々手間取らせやがって……こんなに呆気なく死ぬんなら、わざわざカナドコ参りになんか行く必要なかったぜ……ヒヒ、ヒヒヒ、ハハハハハハハ……!」


 テレビから溢れるスタジオの歓声と、俺の狂笑と。血の海と化した部屋で俺は笑った。理緒花の死体に馬乗りになったまま、思いきり天井を仰いで。

 だが、そうしてどれくらいの時間が流れただろうか。俺はあるときはたと我に返り、「あれ……?」と自分の股の下を見下ろした。

 いつの間にか音楽番組は終わり、テレビは深夜の報道番組を映している。メインキャスターのコメントを聞きながらさまよう視線の先には頬を切られ、口から血を流し、血溜まりの中に沈む俺の嫁。


「理緒花……?」


 なんだ、これ。

 こいつ、本当に理緒花か……? なんで動かない?

 ていうか、何だよ、これ。生臭い。血まみれだ。鋏を握ったままの手も、白いエプロンも、気に入りのカミチャニスタのワイシャツも。


「あ……あ、ぁ、あぁ……!」


 狂気から醒めた俺は腰を抜かし、目の前の死体からあとずさった。床についた手がぬるりと滑り、ドシャッと倒れ込みながら、言葉にならない悲鳴を上げ続ける。


「嘘だ、嘘だ嘘だ……!」


 俺じゃない。俺は悪くない。半狂乱に陥った俺は現実を否定し、血濡れた鋏を投げ捨てようとした。ところが鋏を握る右手の関節がこわばり、自力で開くこともできない。俺は喚きながら自分の指をひとつひとつ左手で引き剥がし、ようやく鋏を放り投げることに成功した。金属がフローリングを叩くカシャンという音が嫌に反響して、俺はガタガタと震え始める。


「ち、違う……違うんだ……俺じゃない……俺は悪くない……!」


 そうだ。今のは正当防衛だ。

 だって理緒花は俺を殺そうとした。夫である俺を絞殺しようとしたんだ。

 だったら俺は悪くない。悪くない悪くない悪くない。そうだろ?

 こんなことで母親と同じ末路を辿るなんて嫌だ。俺はあいつらみたいになりたくない。なりたくないから実家(いえ)を出たのに。何もかも捨てたのに──


「嫌だ……こんなのは……」


 やがて俺はふらふら立ち上がると、目が開いたままの死体を引きずり、風呂場まで連れていった。フローリングには蛇行した血の川が流れる羽目になったが、散々足跡もついてしまっているし、今はかかずらっていられなかった。

 キッチンから包丁を持ち出して、運びやすいように理緒花の体を解体していく。ニュースでよくバラバラ死体がどうのとか言われているのはこういうことなんだな、なんて思いながら、理緒花の手足を胴から外した。みんな、死体をそのまま運ぶのは大変だから、わざわざ小さくするんだな。


 幸い明日はゴミの日だ。中身が見えないよう工夫して、死体をゴミ袋に詰めていけばカメラに映っても不審じゃない。

 殺し合いをしているときの叫び声なんかは、隣室の住人に聞かれてしまったかもしれないが、互いに怒声を張り上げての夫婦喧嘩はいつものことだ。きっと「ああ、また始まった」くらいにしか思われていないだろう。

 長い長い時間をかけて、俺は理緒花をバラバラにした。体中についた血を洗い流し、着替えを終えて、理緒花を()()()()()準備が整う頃には、すっかり夜も更けていた。


 時刻は午前2時過ぎ。消し忘れていたテレビからは、カラーバーの映像と共に甲高い電子音が流れている。

 俺はその音を背景に床を拭き、粗方部屋を片づけてから、ゴミ袋に詰めた理緒花を連れて家を出た。近隣住民に怪しまれないために、敢えて顔を隠したりせず堂々と……それでいて誰かと鉢合わせないよう、細心の注意を払いながら。

 無事に無人のマンションを抜けて駐車場に出る。管理人室には明かりがついていたが、中に人がいる様子はなかった。

 天が俺に味方している。そう思いながら急いで車に理緒花を詰め込み、エンジンをかけた。()()()()はもう決まっている。俺は迷わず走り出した。


 レジデンス市座(いちのくら)から40分ほど車を走らせると、市の北側に広がる山岳地帯へ到達する。この季節、キャンプ場は既に大賑わいだろうが、さすがに時間が時間だからか、山を登っていく道は無人だった。

 俺は敢えて地図にも乗っていないような細い道に入り、山の中腹あたりで車を降りる。適当なところまでゴミ袋を運んだら、あとは地中深く埋めるだけ。

 作業を終えて帰宅する頃には、夜が明けていた。

 マンションの駐車場に着いて車を降りたとき、朝日に照らされた汗が額から滑り落ちていくのを感じて、ああ、暑い、と俺は思った。ずっと遠のいていた現実感が戻ってきて、ようやく体が7月の暑さを思い出していた。


 ……始業まであと3時間はある。全身に鉛が詰まっているかのように重い体を引きずって、俺は殺害現場──否、813号室へ帰り着いた。

 もう一度風呂に入らなければならないが、その前に寝たい。1時間でもいい。

 俺はスマホのアラームをセットすると同時に、広々としたダブルベッドへ倒れ込んだ。スプリングの反動で軽く跳ねた体が沈む頃には、もう瞼が重い。目を開けていられない……。

 だけどせめて明かりだけでも消そう……もう半分眠っている頭でそう思い、ベッドサイドへ手を伸ばした。脇棚の上にある照明用のリモコンを手に取ろうとして、違うものが指に触れる。


 ──アロマディフューザー。


 そう言えば前から理緒花が、こんなものを使っていた……俺には何がいいのかさっぱり理解できなかったが、スイッチひとつで深い眠りが体験できるとか。

 アロマの香りにはリラックス効果があって、心身を癒やしてくれる……とも言ってたか。俺は今にも閉じそうになる瞼を支えながら、何気なく機械へ手を伸ばした。電源を入れると淡い緑の光がともって、清々しい香りを乗せた蒸気が噴き出してくる。この匂いは──ジャスミン、だろうか?


「いいな、これ……」


 なんて寝惚けながら呟いて、俺はついに瞼を閉じた。訪れた暗闇の中、最後に見た首だけの理緒花が、虚ろな眼でじーっと俺を見つめてくる。


 だから俺は言ってやった。


「俺は悪くない」


 ──悪いのは、お前だろ?


 そう言い聞かせながら眠りに落ちた。


 そうだ。俺は悪くない。


 俺には最初から嫁なんていなかったんだと、これからは、そう思って生きていこう。



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