8.
鈴生が珍しく「飲もう」と声をかけてきたのは、休みが明けた翌々日の、金曜日のことだった。
平日が定休日の俺たちは、当然ながら明日も出社。休みの前日でもないのに飲みに行く──というだけでも珍しいのに、まさか鈴生の方から誘ってくるとは。
こいつは社内の飲み会も、3回に1回は断ることで有名なやつだ。別に酒が嫌いなわけではなくて、倹約のためらしいのだが、そのせいで飲み好きな先輩方には「付き合いが悪い」なんて陰口を叩かれている。
俺も大学時代にはよくふたりで飲みに行ったが、社会人になってから回数はめっきり減った。最後にこいつと飲んだのはいつだったか。GW前に新入社員の歓迎会に参加して……あれきりじゃないか?
ましてや鈴生の誘いで飲みに行くなんて、学生の頃以来じゃなかろうか。一体どういう風の吹き回しだ? と首を傾げながら、しかし俺も鈴生の異変には気がついていた。
何しろ鈴生は昨日から、妙に思い詰めた表情でいるのだ。口数も少なく、昼を一緒に食べに行っても上の空。後輩のアポイントに同行したときも心ここにあらずといった様子だったらしく、「汐月先輩、何かあったんですか?」と、俺が尋ねられる始末だった。
そんな有り様だからさすがに俺も気になって、「お前、昨日からなんか変だぞ」と声をかければ、返ってきたのは「……お前、今夜空いてるか?」という答えになっていない答え。
空いていると答えれば、「じゃあ、飲みに行こう」と言下に鈴生は言った。無表情に俺を見据えた鈴生の眼差しは揺れていて、何かを恐れているようにも、ギラついているようにも見えた。
「──で? お前、マジでどうしたんだよ。高橋も心配してたぞ、なんかお前の様子がおかしいって」
20時前。その日、残業もそこそこに仕事を切り上げた俺たちは、会社から歩いて15分ほどの小さなバーにいた。俺たちの職場はS市最大の歓楽街にほど近く、金曜の夜ともなれば通りは飲み屋のキャッチで溢れ返る。
特に行く店も決めていなかった俺たちは、最初に声をかけてきたキャッチについていくことにして、店名もよく分からないまま雑居ビルの4階に押し込められた。ワインレッドを基調とした内装からも分かるとおり、ここはビールよりもワインやカクテルといった酒を中心に出す店のようだ。
まあ、とは言え今日日、アルコールメニューにビールがない飲み屋なんて存在しない。俺と鈴生はとりあえず、先客が3人ほどいるカウンター席に腰かけて、グラスビールを2つ頼んだ。
お通しは絶妙に塩味と胡椒が効いたサラミ。つまみにサラダと適当な料理を何品か頼んで、ざっと店の様子に目を配る。
空席を2つ挟んだ先にいる3人組は、まだ早い時間にもかかわらず、すっかり出来上がった様子だった。周りをまったく憚らない馬鹿騒ぎと年の頃からして、恐らく大学生だろう。そう言えば学生はもう夏休みか。いい気なもんだ。
「まあ、ちょっと……休みの間に、色々あってな……」
と、俺の質問から微妙な間を置いて鈴生は答えた。店内はほどよく空調が効いているが、ここまで歩いてきたせいだろうか。
鈴生はクールビズと称してネクタイを外した襟元を、さらに乱暴にくつろげた。途端にふわっと柑橘系の香りが鼻先をくすぐる──こいつ、香水なんてつけてたのか? 俺は意外な思いで鈴生を見やった。
「色々って何だよ。まさか親父さんの容態が悪化したとか?」
「いや……そうじゃない。まだ入退院を繰り返してるけど、最近は調子いいみたいだよ、親父。家にひとりでいても暇なのか、しょっちゅう電話してくるし。とは言え歳が歳だから、油断はできないんだけど」
「へえ……ま、元気なら良かったじゃんか。でも、親父さんのことでもないとすると……まさかバイクで事故ったとか?」
「──佳巳。お前、理緒花と最近どう?」
いきなり懐に踏み込まれ、切りつけられたような驚きに俺は目を丸くした。一体いまの話のどこから理緒花の話題が出てくるのだろう?
左隣に座る鈴生の横顔を見据え、真意を探ろうとするも、鈴生はカウンターの向こうのビールサーバーをじっと睨んだままだった。束の間の沈黙を、酔っ払った学生たちの無遠慮な哄笑が掻き乱す。
「……何だよ、藪から棒に。お前、もしかして理緒花と連絡取ってんのか?」
「取ってないよ。お前と結婚してから、理緒花にはLINEもブロックされたし。ただ、女子社員の間で噂になってるの、ちょっと小耳に挟んでさ……お前と理緒花が、結婚してからあんまり上手くいってないんじゃないかって」
……噂好きの独身女どもが。俺は女性社員たちの口の軽さに辟易しながら、ため息をついてグラスを呷った。
だから理緒花には鈴生のLINEアカウントをブロックさせ、会社の連中とも連絡を取らないよう言っておいたのに。大方俺の目を盗んで昔の同僚とこっそり会って、好き放題愚痴を吐き散らかしていたのだろう。
あいつのLINEやメールや電話の履歴は逐一チェックしているものの、俺は仕事で家を空けている時間の方が圧倒的に長い。営業という職業柄、いくらGPSの位置検索サービスを利用していても、顧客や取引先との商談中はさすがに会社を抜け出せないし。
……だがまあ、バレたのならしょうがない。むしろこれは好機だ。
俺もいい加減、柄でもない愛妻家を演じるのに疲れ始めていた。ここらでひとつ、溜まった膿を吐き出すのも悪くない。
理緒花だって俺の目を盗んでそうしていたのだ。だったら俺が同じことをやってもお相子だろう。ついでにあいつを散々にこき下ろして、鈴生を幻滅させてやる。
鈴生はまだ理緒花に未練タラタラだからな。そろそろ諦めさせてやるのが、真の友情ってもんだろう。
「まあ、上手くいってるのかと言われたら、正直言って微妙だな。もう結婚して3年になるってのに、未だに子供はできないし、そのせいでお互いなんかギスギスしてるし。向こうの実家からも、孫はまだかってせっつかれててさ。けどそんなの、俺じゃなくて理緒花に言えって話だよなあ」
俺がそう切り出しながらグラスを置けば、鈴生がわずか息を飲む気配が伝わってきた。視界の端で、カウンターに乗った鈴生の右手が拳の形を作っていく。
──こいつまさか、俺と理緒花が鴛鴦夫婦だなんてまだ信じてたのか?
だとしたら傑作だ。本当に友達甲斐のあるやつだな、鈴生は。
「子供ができない、って……だったら不妊症の検査は? もしかしたらお前か理緒花か、どっちかの体に問題があるのかもしれないだろ」
「あるとしたら理緒花だな。今だから言える話だけど、俺、大学時代に女をひとり妊娠させてんだ。向こうがどうしても生みたくないって言うから、仕方なく堕ろさせたけどさ。とは言えあの一件で、俺の実績は証明されてる。わざわざ検査するまでもなく、な」
「大学の頃に……? そんなの初耳だぞ。相手の女は? お前、学生時代に彼女なんていなかったろ」
「セフレだよ、セフレ。風俗行くより安上がりだったから、出会い系で適当な女、引っかけてさ。お互いハンドルネームで呼び合ってたから本名は知らないし、今どうしてるのかも知らねーけど」
「佳巳……お前、なんでそう──」
と語気鋭くして言いかけた鈴生が、ぐっと言葉を呑み込んだ。表情は明らかに気色ばんでいるものの、ここで怒鳴れば本題に入る前に解散になると思ったらしい。
今の鈴生の目的は、理緒花の近況を探ること。だったら名も知らぬ女との惚れた腫れたの話に時間を割いている場合ではないと判断したのだろう──ま、俺が妊娠させた女なんてそもそも存在しないんだけどな。
「……だとしてもその女、出会い系をやってるような女だろ。だったらお前の他にも男がいて、堕ろしたのはそいつとの子供だった可能性は?」
「おいおい、鈴生。お前、どうしても俺を笑い者にしたいのかよ? あの女に他の男がいたかどうかなんて、そりゃ俺には分かんねーけどさ。少なくともあいつは俺にゾッコンだった。逆にアレが全部演技だったんだとしたら、あいつ、ガチで女優になれるぜ」
「……」
鈴生は拳を握ったまま、視線を落として黙り込んだ。どうやら学生時代、俺にセフレがいたという話はとりあえず信じたようだ。盗み見た横顔からそう判断した俺は、ほとほとお人好しだなこいつは、と内心ほくそ笑んだ。鈴生は昔から優柔不断な男だから、相手に強く出られると何でも「そうなのか」と納得してしまうきらいがある。そういう鈴生の性格を熟知していれば、言葉で丸め込むのは造作もない。
「だけど、理緒花は……」
「理緒花が何だ?」
「いや、俺が聞いた話では……理緒花は検査で、何の異常もなかったって……」
「そうなのか? 誰からの話だよ、それ。あいつが検査に行ったなんて、俺、聞いてないぞ」
わざとらしくならない程度に驚いてみせれば、鈴生は顔を上げて戸惑いの表情を見せた。揺れる瞳は「本当に?」と尋ねていて、俺は笑いそうになる口元をグラスで隠しながら首肯する。
「けど検査して異常がなかったんなら、なんで俺に言わないんだ? 何か異常が見つかって、言いにくいから黙ってるってんなら分かるけど……」
「そう……だよな……そう考えると、変だよな……」
「ああ。だいたい理緒花は隠し事が多いんだよ。なかなか子供ができなくて、イライラしてんのかもしんねーけどさ。そのせいなのか何なのか、当てつけみたいにだんまり決め込んだり、こそこそ俺のスマホとかネットの履歴をあさったり……」
「……」
「結婚する前はいい女だと思ってたんだけどな。実際一緒に暮らしてみると、なんかちげえわ。メシはまずいし俺の話は聞かねえし、おまけにすぐキレるしで、ぶっちゃけマジで鬱陶しい。最近じゃ顔会わせたくない日の方が多いくらいだね」
うっすら顎に髭を蓄えた店員が、カウンターの向こうから洒落た盛りつけのグリーンサラダを差し出してきた。とっくにお通しのサラミを食い終えていた俺は「おっ」とそれに反応して、礼を言いながら器を受け取る。
ついでに2杯目の酒も注文した。対する鈴生は、喋っているか黙っているかのどちらかで、まったく酒が進んでいない。数枚のサラミも手つかずのままだ。まったく困ったやつだなと思いながら、俺は取り皿を手に取った。仕方がないから今日は特別に、俺が料理を取り分けてやろうとトングを開いたところで──
「碧ヶ島」
刹那、左隣から聞こえた予想外の単語に、俺は思わず硬直した。
限界まで目を見開き、ゆっくりと鈴生を振り返る。鈴生は額に汗をかきながら、されど覚悟を決めた顔つきで俺を見ていた。だから、
「──……ああ」
と俺もすべてを悟り、トングを置く。
ああ、くそ。俺も大概馬鹿だな。
なんで気づかなかった? 嘘をついていたのは俺だけじゃない。
この店に1歩踏み込んだ瞬間から、俺たちの駆け引きは始まっていたんだ。
「鈴生。お前、理緒花に会ったな?」
自分でも聞いたことがないほど低い声でそう言うと、鈴生の喉仏が上下した。ごくりと生唾を飲み込んだ音が聞こえそうで、俺はニッと口の端を持ち上げる。
「だったら最初からそう言えよ、水臭いやつだな。ていうかお前、嘘つけるタイプの人間じゃねーだろ。慣れないことするなよなあ」
「……佳巳、お前さ。先月、珍しく連休取ってたよな。理緒花と一緒に旅行に行くって……3日間、がっつり有給使ってさ」
「ああ。確かに旅行なら行ったけど?」
「本当に、理緒花と行ったのか? 今朝、営業内務の保田さんに訊いたらさ。お前が連休取ってる間、理緒花からLINEが来たらしい。お前が3日間研修に行ってて暇だから、久々に会わないかって──そう書かれてたって。それを見てうちの女子社員みんな、顔を見合わせたって言ってたぞ」
俺は小さく舌打ちした。理緒花のやつ……あの連休は実家に帰ると言ってたくせに、あいつまで俺を騙してたのか。
確かに俺は先月、溜めに溜めた有給を切り崩して休みを取った。3日間の連休は妻と東京旅行へ行くためのものだと言い触らし、俺の愛妻家っぷりを皆の脳裏に刷り込んだ──はずだった。
しかし一方で、理緒花には仕事の研修で3日間、東京に出張しなければならないと告げ……話を聞いた理緒花はちょっと考えたあと、「じゃあ私、実家に帰ってもいい?」と尋ねてきた。俺が出張を告げる少し前、理緒花の母親が体調を崩していたから、念のため様子を見てきたい、と。
理緒花の母親が体を壊したことは知っていたし、義父母は孝行者の娘婿を頭から信じきっているから、話を聞いた俺は大丈夫だろうと高を括った。万一実家に帰った理緒花が俺との不仲を訴えても、義父母は簡単には信じまい。
そのための工作は万全だったし、いざというときに備え、理緒花が不倫しているという偽の証拠も用意していた。理緒花が過去にボイスレコーダーを隠し持っていたときには、殴りつけて〝二度としない〟と誓わせたのもあって、死角はないと思っていた。
だがまさか実家に帰ると見せかけて、俺が出かけたあと、S市に戻ってくる算段をしていたとは……。
鈴生の話では、俺の狂言に気づいた女性社員たちが〝これはまずい〟と判断し、理緒花の誘いを断ったことで出張の偽装はバレずに済んだ。けれども内務の保田たちは俺の不倫を疑い、それゆえ先月の出来事を克明に記憶していた。
鈴生は当時、理緒花から保田に送られたメッセージも見せてもらったというし……とすれば言い逃れるのは苦しいだろう。しかし俺は頭をフル回転させ、まだ逃げ道はあるはずだと策を巡らせる。
「……分かったよ。確かにあの日、俺はひとりで東京に向かった。目的は学生時代のセフレ──つまりさっき話した女に会うためだ。少し前に、音信不通だったあいつからいきなり電話がかかってきてさ。今は東京で仕事してて、久しぶりに顔を見たいって言うから、一度だけって約束でな」
「で、3日間東京でそいつとデートか? それともふたりで碧ヶ島に?」
「おい、鈴生。お前が理緒花に何を吹き込まれたのか知らないけどな。惚れた女の言葉だからって、何でも鵜呑みにするのかよ。俺は碧ヶ島になんか行ってない。確かにちょっと興味があって調べはしたが、都合がつかなかったし。だいたい俺の浮気を咎める気なら、理緒花だって余所の男と」
「佳巳、悪い。けど、俺さ。──好きなんだ、理緒花のこと。あれから3年経った今でも、ずっと」
巨大な岩で、ガツンと頭を殴られた気分だった。俺を見据える鈴生の瞳は怯えていて、けれど真剣で、燃えている。
──3年前のジューンブライド。俺はウェディングドレス姿の理緒花を抱き上げて、参列していた鈴生に見せつけてやった。俺はお前に勝ったんだと、理緒花は俺のものだと証明することで、鈴生の心を叩き折ってやりたくて。
なのに、こいつは、
「お前、さっき言ったよな。理緒花のこと、顔も会わせたくないくらい鬱陶しいって。だったら……だったら俺が理緒花をもらう。それで文句ないだろ? お前は晴れて理緒花と別れられて、理緒花も──」
俺は、鈴生にみなまで言わせなかった。ただ怒りで目の前が真っ赤になり、気づいたときには、店員が差し出してきた2杯目のグラスを引っ掴んでいた。
次の瞬間、その中身を、間髪入れずに鈴生の顔へぶっかける。ビールの泡が飛び散り、店員が「うわっ……!?」と仰け反った。直前まで酔って馬鹿騒ぎしていたガキどもも、ぎょっとした様子で凍りついている。
「やらねえよ、てめえにだけは」
四方八方から突き刺さる視線に貫かれたまま、しかし俺は吐き捨てた。
ついでに結局取り分けなかったグリーンサラダも、ドレッシングごと鈴生の頭にぶちまけて、憎悪と共に踵を返す。
「佳巳」
掠れた鈴生の声が追いかけてきた。
けれど俺は振り向かず、代金も支払わないまま、胸の中に嵐を抱えて店を出た。




