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7.

 久しぶりに会う汐月(しおつき)君からは、柑橘系のいい匂いがした。

 レジデンス市座(いちのくら)を出て、県道をまっすぐ北上した先にある地下鉄駅のとあるカフェ。そこに遅れて現れた彼はちょっと困ったように眉尻を下げながら、先に席に着いていた私を見つけて苦笑する。


「久しぶり、理緒花(りおか)。遅れてごめん」

「ううん。別にそんなに待ってないから。ごめんねー、急に呼び出したりして」

「いや、それは別にいいけどさ……あ、俺、アイスコーヒーで。理緒花は? 追加で何か頼んだりとか」

「じゃあ私、この紅茶ケーキが食べたい」

「じゃ、これひとつで」

「汐月君は?」

「俺はいいよ。甘いもの、あんまり得意じゃないの知ってるだろ?」


 注文を取りに来た店員さんを見送って、意地の悪い私の質問を受け流した汐月君は、やっぱり苦笑していた。

 彼の視線の先には、私が待ち時間に頼んだレモンティーのグラスがある。特に何も言わないけれど、グラスの中身の減り具合で、私がどれだけ待ったか測ろうとしたのだろう──彼のこういうところ、ほんと好き。無神経な佳巳(よしみ)とは大違い。


「佳巳はどうしてんの」


 と、そんなことを考えていたら、見透かしたように佳巳の名前を出されてぶうたれた。私の膨れっ面からすべてを察したのだろう、向かいのソファ席に腰を下ろした汐月君は、「あー……」と曖昧に何か言おうとしながら頬を掻く。


「ま、あいつと上手くやれてるんだったら、こっそり俺を呼び出したり、しないよな……」

「オレンジスイート?」

「へ?」

「アロマディフューザー。使ってるんだ?」


 春先にふたりでちょっと飲んで以来の、せっかくの再会。それを大嫌いな佳巳の話題で始めるのが嫌で、私は無理矢理話を逸らした。

 すると汐月君は驚いた様子で目を見張る。かと思えば子犬みたいに自分のサマーニットをクンクンし始めて、私は思わず笑ってしまった──何やってんの。かわいい。


「俺、におってた?」

「におってるとか言わないでよ、せっかくいい匂いなのに」

「いや、ならいいけど……よく分かったな、匂い嗅いだだけで」

「そりゃ、汐月君にアロマをオススメしたのはこの理緒花さんですから。オレンジスイート、いいよね。効果、実感できてる?」

「んー、まあ、ぼちぼち。初めはこんなんでストレス解消とか安眠効果とか、ほんとに期待できんのか? って半信半疑だったんだけどさ。使ってみたら意外と良くて。眠りが浅かったのも改善された気がするし」

「へえ、それは良かった。そう言ってもらえると、私もオススメした甲斐があるよ。佳巳なんていくら言っても〝臭いからやめろ〟の一点張りでさ。夜、寝るときは絶対に使わせてもらえないから、仕方なく佳巳がいない昼間に使ってる。お昼寝するときとか」

「昼寝って。いいなあ、専業主婦様は優雅な暮らしでさ。仕事しない生活にはもう慣れた?」

「まあ、慣れたかと言われれば慣れたけどねー。毎日ヒマだよ。子供がいるわけでもないし、趣味とかもないし、使えるお小遣いは限られてるしさ」


 結局また佳巳の話に戻りつつあることに嫌悪感を覚えながら、私はグラスを手に取った。ガムシロップの甘味と紅茶の苦味、そしてレモンの酸味がほどよく混ざり合って、冷房で乾燥した喉を潤してくれる。

 私と汐月君、ついでに佳巳の3人は大学時代、ゼミの飲み会で知り合って以来の付き合いだった。汐月君と佳巳は1年の頃から仲が良かったみたいで、2年になると一緒のゼミに入り、1個上の私は先輩としてふたりをもてなす立場だった。

 ふたりはそのとき、揃って私に一目惚れしたらしい。当時私には彼氏がいたから、そんなことには全然無頓着だったけど、別れた頃に友人経由でそう聞いた。後輩ふたりがあんたのこと狙ってるらしいよって、冗談混じりに。


 だけど私が彼氏と別れたのは、大学卒業間際のこと。

 彼は就職した会社の都合で、1年目からいきなり関西に飛ばされることになってしまって、何度も相談した結果、お互いに遠距離は無理だという結論に落ち着いて別れた。彼のことはまだ好きだったものの、体が離れたら心も離れてしまいそうな予感があって、実際、卒業したらそうなった。

 私が就職したのは、ネームバリューだけならそんじょそこらの会社には負けない大企業、S社。女性社員の待遇は正直あんまり良いとは言えなかったけど、どうせ就職するなら安定した一流企業が良かったから、私は自分が選んだ進路におおむね満足していた。


 とは言え大学の後輩である汐月君と佳巳が、私を追いかけてS社に入ったと分かったときにはさすがにびっくり。汐月君は市内の北の方の支店に配属されてしまったけれど、佳巳は最初から私と同じ支店での勤務だった。

 それからの佳巳の猛烈なアタックと言ったら。あいつは新人研修から戻るなり私に言い寄ってきて、会社でも不必要なくらい接触してきた。

 今になって思い返すと気持ち悪いことこの上ないんだけど、当時は私も佳巳をハキハキした好青年だと思っていたし、前の彼氏はあそこまで熱烈に求めてくれなかったから、実はちょっとだけ嬉しかったりもした。


 でも、どちらかというと気になっていたのはイケメンで優しい汐月君の方で……私たちは大学時代から親しかったこともあり、休日は3人でよく遊んだ。大型連休には旅行にも行ったし、大晦日を3人で過ごした年もあった。

 そんな日々の中で、汐月君からも好意を感じなかったわけじゃない。ただ彼は、佳巳に比べるとアプローチの仕方がずいぶん消極的で、私が勘違いしているだけかも、なんて不安になる場面が何度もあった。


 それでなくとも汐月君は、社内の女の子たちからモテまくっていたし……他に好きな人ができていたとしても不思議じゃないよなって、自分まで消極的になってしまったのがいけなかったんだと思う。

 私は汐月君よりも、言葉や贈り物で好意を明確に示してくれる佳巳に靡いた。佳巳はちょっと怒りっぽくて、時々周りが見えていないような発言をするのが気になったけど、会社では勤勉で成績優秀。上司や先輩にも信頼されていた上に、羽振りが良かった。私にくれる贈り物は、いつだってブランドものの高級品だった。デザイン選びのセンスとかも、抜群に良かったし。


 だから佳巳から告白されたとき、私は抵抗なく付き合うことを了承した。恋人になってからも佳巳は変わらず優しかったし、仕事以外の時間のほとんどを私に使ってくれた。私はこのまま佳巳と結婚するのかなあ、なんてぼんやり思っていた。

 けれどその一方で、汐月君のこともまだ心のどこかに引っかかっていて……彼は私と佳巳の関係を祝福してくれたものの、以後、フェードアウトするように私たちから離れていった。ふたりの関係を邪魔しちゃ悪いとか、彼のことだから、きっとそういうことを気にしたのだろう。


 私はそれが寂しくて、佳巳にまた3人で遊ぼうよ、と誘いかけたこともあった。だけど佳巳は「鈴生(りんき)が気を遣うから」とか言って、だんだん私を汐月君に会わせまいとするようになった。そして次第に汐月君の名前を出すと、不機嫌になるのを隠そうともしなくなった。

 あのあたりから、佳巳はどこかおかしくなっていったんだと思う。あるいは元々ああいう人だったのだろうか。

 やがて佳巳は私に汐月君の悪口を吹き込んだり、彼を見下すような発言を繰り返したりするようになった。私は佳巳の変貌ぶりに「えっ……」と内心ドン引きし、日に日に愛情が薄れていくのを感じた。


 だって自分の友達を平気でこき下ろす神経が理解できなかったし、陰ではあれだけひどいことを言っておきながら、いざ本人を前にすると何の変哲もなく振る舞うのだ。友達面をしてふざけ合ったり、気を遣うふりをしたり。

 私はそういう佳巳の二面性に気づき始めていて、このままこいつと結婚していいのだろうか、と大いに悩んだ。確かに稼ぎはいいし、ルックスもそこそこ。汐月君の件を除けば騒ぎ立てるほどの欠点はない。


 けど、本当にいいの……?


 そんな自問を繰り返すようになっていた頃に、佳巳からプロポーズを受けた。「はい」と即答できなかった私に、佳巳は勃然としていた。


「ねえ、汐月君。私、ほんとに佳巳と結婚していいと思う?」


 佳巳からのプロポーズを受けたあと、私はついに我慢できなくなって、汐月君とふたりで会った。長いあいだ佳巳の悪口を聞かされていたせいか、私は逆に汐月君を守りたいという気持ちになっていて……久しぶりにふたりきりで会ったことで、その気持ちが彼へ向かう愛情なのだと気がついた。

 とは言え佳巳が言っていたことをありのまま伝えれば、汐月君はきっと傷つく。彼の方は佳巳のことを、本当の友達だと思っているみたいだったから。

 だから私はどうしても佳巳の本性を伝えられなくて、オブラートに包んだ言い方で、あの男の残酷な二面性について相談した。話を聞いた汐月君はしばらく考え込んだあと、静かな口調でこう言った。


「けど、あいつが理緒花を想う気持ちは、本物だと俺は思うよ」


 いかにも彼らしい、お人好しな言葉。

 でも、とか、だけど、とか、どうにかこうにか彼を味方につけようと私があげつらう佳巳の欠点を、汐月君はひとつひとつあいつの長所に変えていった。

 汐月君が決して私の言い分を否定せず、けれど同時に佳巳を庇う言葉を口にする度に、私は彼を好きになった。どうしようもないくらい、好きになった。

 私は、一緒になるならこの人がいい。そう思って本心を告げたら、汐月君は面喰らい、そして──泣き出しそうな顔を、していた。


「……今更、そんなこと言うなよ……」


 と、大きな手で前髪をくしゃっとやって、うなだれながら。


「それでも汐月君は、私に佳巳と結婚しろって言うの?」


 自分でも、ひどい質問を投げかけていることは分かっていた。佳巳を散々冷酷な人間だと罵ったけれど、私も同じくらい残酷な人間なのだとそのとき悟った。

 汐月君は私を恨めしげに見つめたあと、苦しそうに目を逸らして、言った。


「……俺も、あんたのことは好きだけど」

「だけど?」

「でも、一緒にはなれない。佳巳を……裏切れない」


 それが汐月君の答えだった。彼は未練がましく縋る私を、「俺はひとりでいる方が好きで、結婚には向いてないから」とか「実家に病気の親父がいて、結婚したら苦労をかけるから」とか、色んな理由を並べて振った。やがていたたまれなくなったのか、逃げるように帰ってしまった彼の背中を、私はただぼんやり眺めていた。


 今からちょうど3年前。このカフェの、この席で。


 あの日のことをまだはっきりと覚えているくせに、わざわざ彼をこんなところへ呼び出す自分は、どうしようもなく性悪でひどい女だ、と思う。


「……またS社で働きたいなー」


 汐月君の分のコーヒーと、季節限定の紅茶ケーキが運ばれてきたあと。私が椅子にもたれて、ケーキの上の苺を見つめながらぽつりと言えば、汐月君が惑うように目を伏せた。


「……けどそんなの、佳巳が許さないだろ」

「……」

「あいつ、死んでも俺をあんたに会わせたくないみたいだしさ。妊娠したわけでもないのに無理矢理退職させたのも、そのせいだろ。俺が、今の支店に異動になったから……」

「そうだけど、仕方ないよ。だって部署の異動は、汐月君の意思でどうこうできることじゃないもん」


 ──別に汐月君を責めたかったわけじゃない。


 そう思った私は慌てて身を乗り出した。すると汐月君は目を上げて、複雑そうな顔をしながら、けれどへらっと笑ってくれる。


「あんた、変わんないなー、そういうとこ」

「そ、そう? だって、汐月君が心配させるから……あれからもう3年も経つのに、未だに彼女も作らないっていうし」

「それこそ理緒花のせいじゃないよ。前にも言ったと思うけど、俺、基本ひとりでいるのが好きだから。父親の治療費払うだけで、生活はいっぱいいっぱいだし」

「うーん。ほんとにそれだけ~? 実は女より男の方が好きだったり……」

「ぶはっ。ないない、絶対ない!」


 私のからかいに大笑いして、汐月君は大袈裟に手を振った。だから私も「ほんとかな~? 怪しいな~?」なんて勘繰れば、彼はまた困った顔になって──何だか眩しそうに、目を細める。


「……まあ、いっそそうなった方が、俺も幸せになれるかもしんないけど」

「え? ゲイになりたいの?」

「なれるもんなら。そしたら……そしたらさ。あんたとも、ずっといい友達でいられるだろうし」

「汐月君」

「理緒花、前にさ。アロマを焚いて寝るときはゆっくり深呼吸して、自分に暗示をかけるといいって言ってたろ。アロマを嗅いでリラックスしてるときって、自己暗示をかけやすくなるからって」

「それは、」

「だったらアロマ焚きながら、寝る前に俺はゲイになる、ゲイになる……って暗示をかけ続けたらさ。そのうちほんとに男を好きになれるかもな」


 なんて、口では冗談めかして言いながら。

 汐月君は、見ている方がいてもたってもいられなくなるくらい切なげな笑みを浮かべて、音も立てずにコーヒーを啜った。

 そうして伏せられた彼の長い睫毛が。カップを掴む骨張った指が。襟元から漂う彼のにおいが。


 ──好き。全部好き。


 何もかもあのときのまま、まったく色褪せずに。


「……汐月君さ。碧ヶ島(みどりがしま)って知ってる?」


 だから私がそう切り出せば。汐月君は不思議そうな顔で「ん?」と小首を傾げ、グラスをコースターの上に戻した。


「碧ヶ島……? って、確か日本で1番人口が少ない村だっけ。伊豆諸島の南の方の……」

「うん。じゃあさ、碧ヶ島には祟り神がいるの、知ってる?」

「祟り神?」

「そう。カナドコサマっていうらしいんだけど。あの島には、むかし気が狂って村人を大勢殺した男がいてね。生き残った村の人たちは、そいつを神さまとして祀り上げたんだって。男が悪霊になって、死んだあとまで暴れ出さないようにって」


 キンと冷房が効いた店内に、爽やかな夏の陽射しが注いでいる。そんな気持ちのいい空間で私が紡ぐ言葉たちは、まったくの場違いで、異質で、生温く……同じように感じたのだろう、向かいで汐月君が眉をひそめた。


「いや、まあ……日本じゃそういうの、わりとよく聞くけどさ。有名な平将門(たいらのまさかど)とか……でも、なんで急に祟り神?」

「碧ヶ島の祟り神──カナドコサマはね。普段、島の人も近寄らないボロボロの社に今も祀られてて。そこへお参りに行ってお願いすれば、人を呪ってくれるんだって。実際、噂を聞いて島の外からお参りに来る人が、年に何人もいるらしいよ」

「理緒花」

「佳巳がね。そこに行きたいみたい」


 ほどよい喧騒に包まれたカフェの片隅で、固まった汐月君の顔面からみるみる血の気が引くのが分かった。私たちを隔てる小さなテーブルの上に沈黙が落ちる。重たい静寂を見計らったみたいに、グラスの氷がカランッと鳴った。


「……なんで佳巳は、そんなところに」

「決まってるでしょ。私を呪い殺したいんだよ、きっと。だって結婚してから私たち、毎日喧嘩ばっかだもん。子供ができないのも全部私のせい。産婦人科に行って、私の方は異常ないって言われたのに、佳巳は検査もしてくれない。たぶん私との間に子供、欲しくないんだろうね。私のこと、愛してないから。なのに佳巳は絶対離婚しない。私を手放せば、汐月君に取られるって分かってるから」

「取られるって」

「佳巳が私と結婚したのはね。私を愛してたからじゃないの。ただ汐月君に勝ちたかった。それだけなの。ライバルの汐月君に負けるなんて、あいつの歪んだプライドが死んでも許さないから。だから離婚して私を汐月君に取られるくらいなら、呪い殺してやろうって」

「理緒花、いくら何でも考えすぎ──」

「考えすぎじゃないよ。だって佳巳、パソコンの中にもうひとつブラウザを隠してて、そこにカナドコサマについて書かれたページをいっぱい保存してたんだよ。他にも碧ヶ島までの行き方とか、島まで行く船の時刻表とか、そういうのも全部」

「理緒花、落ち着け」

「汐月君は私が殺されてもいいって言うの!?」


 捲し立てているうちに感情が昂って、気づけば私は両目に涙を浮かべていた。しかも、場所も考えずに怒鳴ったせいで、店内のあちこちからぎょっとしたような視線が集まってくる。


「だから、考えすぎだって」


 けれど汐月君も突然のことで混乱しているのか、それしか言えないみたいだった。彼は私を宥めるように声を低めると、右手でそーっと何かを抑える仕草をする。


「さすがの佳巳も、そこまで考えちゃいないって。ただ単に島に興味があって、行き方を調べてただけかもしれないだろ。たとえばあんたと一緒に、いつか旅行に行きたいと思ってるとか……」

「だけど、さっき……私が碧ヶ島に旅行に行きたいって言ったら、何も言ってくれなくて。〝そもそもどこにある島?〟って言われた。あんなに熱心に、島のこと調べてたくせに……」


 堂々と嘘をつかれた悔しさと、屈辱と。やっぱり自分は愛されていなかったんだという悲しみと、呪い殺してやりたいと願うほどに憎まれている恐怖と。

 色んな感情がごちゃ混ぜになって、私はぼろぼろ涙を零した。どうしたらいいのか分からなくて、不安で、怖くて……だから今日、行き場を失くして汐月君を頼った。仕事を辞めて、あのマンションで軟禁に近い生活を強いられて。私が今も頼れる相手と言ったら、実家の両親か汐月君以外にいなかったから。


「……」


 でもいきなりこんな話をされて、どうしたらいいのか分からないのは汐月君も同じみたいで。彼は口を噤んだままテーブルに肘をつき、サラサラのマッシュヘアをくしゃりと掴んだ。……彼が本当に困惑しているときの癖だ。


「……いや、けど、そんなの……呪い、とか言われても……祟り神なんて、所詮迷信で……まあ、佳巳が理緒花に殺意を持ってるっていう、証明にはなるかもしれないけど……」

「だったら汐月君から佳巳に言って。素直に離婚して、お互い幸せになった方がいいに決まってるって」

「俺が言ったら逆効果だろ。だいたいこれは夫婦の問題なんだから、まずは理緒花が自分で何とかしないと──」

「私があんなやつと結婚する羽目になったのは、汐月君のせいだよ」

「は……?」


 髪を掴んでうなだれていた汐月君が、口元を歪ませながら顔を上げた。彼はどうにか笑おうとしているみたいだったけど、引き攣りすぎて全然さまになっていないその顔を、私は涙目のまま睨み据える。


「汐月君が言ったんだよ。佳巳が私を想う気持ちは本物だからって」

「おい」

「私は、ちゃんと言ったよ。佳巳より汐月君がいいって、ちゃんと言った。何回も言った。なのに……」


 あのとき汐月君が、佳巳から私を攫ってくれたら。

 そうしたら私はきっと幸せな家庭を築けて、こんな目に遭うこともなかった。八つ当たりだって分かっていても、そう思う心を止められなかった。

 汐月君は何か言いたげに口を開けて、怒ったような、当惑したような顔をしている。けれど最後はまたうなだれた。まるでこれ以上聞きたくないという意思表示のように、耳を塞ぐのに似た姿勢で頭を抱える。


「……やめろよ。今更、昔の話を持ち出したって──」

「意気地なし。私のこと、ほんとはまだ好きなくせに。なのにまた逃げるの? 今回も助けてくれないの?」

「やめろ」

「私は今も昔も、あなたが好き。汐月君が好き。ほんとは佳巳じゃなくて、あなたと一緒に──」

「やめろ! 頼むから、やめてくれ……」


 両腕の間に沈み込むようにして、泣き出しそうに汐月君は言った。

 優しすぎる彼の、1番の欠点。誰かを傷つけることにも、傷つけられることにも臆病で。だから本心では私のことを好きでも、助けてくれない。私の手を掴めばそれは、親友である佳巳への裏切りになるから。


 あんなやつ、庇い立てする価値なんかないって、本当は気づいてるくせに。


「……分かった。もういい」


 私は中途半端に余ったレモンティーと、半分も食べていないケーキを残して立ち上がった。


「私がもし殺されたら、一生恨むから」


 財布から取り出した1000円札をテーブルに叩きつけて、席を離れる。周りの客の好奇と訝りの眼差しが、歩き去る私に突き刺さった。

 でも、もう、どうでもいい。

 あと2週間待って、それでも汐月君が迎えに来てくれなかったら。

 そのときはお盆休みに(かこ)つけて、佳巳を置いて実家に帰ろう。


 そしてもう二度と、この街へは戻らない。



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