6.
それはあと2週間で、盆休みに入るという日のことだった。
「今年はさー、お盆休み、どこか行きたくない?」
なんて、しきりにスマホをいじりながら、ダイニングテーブルに座った理緒花が言う。
「……どっか行くって、どこに? 連休だし、どこ行っても混んでるだろ」
「そうなんだけどさ。たまには旅行とか行きたいじゃん?」
「旅行って……いくら何でも、今から計画立てたんじゃ遅すぎるだろ。そもそもローンの支払いが終わるまで、遠出は無理だって」
「国内の、そこまで遠くない場所なら行けるでしょ。あんまり人気なさそうな穴場のツアーとか探してさ」
「そんなもん、そうそう都合よくあるかよ」
「あるよ。たとえばほら──碧ヶ島とか」
そう言って理緒花が見せつけてきたのは、いかにも低予算で作りましたといった感じの、鄙びた観光サイトだった。トップページには太字ゴシックで中央寄せされた『ようこそ、碧ヶ島へ』の文字。島の観光協会が作ったものだろうか。
文字列の下には、海上から撮影したと思しい島の遠景。でかくて平べったい亀の甲羅を、木々が鬱蒼と覆っているようなシルエットが、晴れているのか曇っているのかよく分からない空をバックに写っている。
一目見ただけで辺境の離島なのだろうと推測できる一枚画。それを見せられた刹那、俺は急速に瞳孔が開き、背中を汗が濡らすのを感じた。
「……は? その島、なんか見るとこあんの?」
「さあ。まだ詳しく調べたわけじゃないから、分かんないけど。でも、屋久島みたいでちょっと良くない? 久しぶりに自然と触れ合う、みたいな」
「だったら最初から屋久島に行けばいいだろ。碧ヶ島ってそもそもどこだよ」
「あれぇ、佳巳、知らないの? 碧ヶ島って、伊豆諸島の南にある島だよ。つまり東京の離島ってこと。屋久島より近いし、マイナーだし、行きやすそうじゃん」
理緒花は終始にこにこしながら、上機嫌に碧ヶ島を推してくる。そんなに行きたいならひとりで行けば、という言葉を敢えて飲み込み、ソファの上の俺は壁掛けテレビに向き直った。旅行の話なんて興味がないことを示すために、無言でテレビの音量を上げる。映っているのは他愛もないワイドショーの芸能コーナーだった。せっかくの休日でも、平日の午後となるとこんな番組しか見るものがない。
「行きたくないの? 碧ヶ島」
「俺は行きたいなんて一言も言ってない」
「ふーん。そっか。じゃあ、いいけど」
自分から言い出したくせに、何故か無関心そうにそう言って、理緒花が立ち上がった気配があった。ギィ、と椅子の脚が床を擦る音に心臓が跳ね、しかし俺は懸命に平静を装い続ける。
「私、夕飯の買い出し行ってくる。何か食べたいものある?」
「……別に、何でもいい」
「あっそ。なら適当に買ってくるから」
……いつもなら「一緒に行く?」と尋ねてくる理緒花が、今日は珍しく何も訊かずに家を出ていった。もしかしたら本当に旅行に行きたくて、断られたことで拗ねたのかもしれない。まあ、この際どっちだっていい。
俺は理緒花がひとりで出ていったのをこれ幸いと、急いでバルコニーへ駆け出した。息を殺してじっと麓の駐車場を見やり、理緒花がマンションから出てきたところを確認する。
車体が水色と白に塗り分けられた、スズキのアルトラパン。理緒花はいかにもあいつらしい軽自動車に乗り込んで、ほどなく駐車場を出ていった。
鬱陶しいくらい葉を茂らせたエントランスのシンボルツリーが、車を覆い隠すのを認めて俺は身を翻す。そうして次は寝室へ駆け込むと、背の高いアルミ製のパソコンラックにかじりついた。
置かれているデスクトップPCの電源を入れ、起動するまでの数秒間を焦燥に駆られながらやりすごす。『ようこそ』の文字が浮かんで画面が切り替わったとき、俺はようやく席に着いて、前屈みになりながらブラウザを開いた。
近未来的なデザインのワイヤレスマウスを握る指先が震えている。それでも何とかカーソルを操作して、画面右上のブックマークメニューを開いた。
開いたブラウザはFirefox。理緒花はいつもInternet Explorerしか使わないから、俺は自分もIEを使うふりをして、Firefox起動のショートカットをデスクトップに置いていない。
スタートアップメニューからも隠し、Cドライブに保存されているフォルダまで潜らないとFirefoxを起動できない状態だ。どうしてそんな手間のかかることをしているのかと言われたら、答えはひとつ──Firefoxの存在を隠し、理緒花にブラウジングの履歴やブックマークを覗かれないようにするためだ。でも。
「あいつ……なんで碧ヶ島のこと……」
俺は血の気が引くのを感じながら、ブックマーク一覧の中にある『2017年春 メンズ|ショートの髪型・ヘアアレンジ』というタイトルをクリックした。するとブックマークタイトルから連想される、カラフルな美容室のホームページ──ではなく、真っ黒な背景がモニターを埋め尽くす。
小さな藁人形が並ぶ背景画像の上には、おどろおどろしいフォントで不吉な単語が踊っていた。俺はそれを確かめたのち、急いでブックマーク一覧から削除する。
もちろんブックマークをひとつ削除したあとは、本物の美容室のサイトを探し、同じタイトルで保存した。作業が完了するまで理緒花が帰ってこないことを祈りながら、何度も何度も、削除と保存を繰り返した。




