5.
理緒花の影がチラつき始めてからというもの、まともに睡眠が取れていない。
横になっても胸の内がモヤモヤして眠れず、うつらうつらし始めたかと思えば、悪夢を見て飛び起きる。
1週間もこんな状態が続くとさすがに嫌気がさしてきて、俺はひとり、ドライブへ行くことにした。時刻は深夜0時すぎ。
寝静まった街の真ん中で、駐車場に停めてあるヤマハのセローからバイクカバーをひっぺがし、その背に飛び乗って走り出した。銀色のボディに黒いアクセントが映えるオフロードバイクが、低く唸りながら悪夢の手招きを振り切っていく。
持ち物は財布とスマホと免許証だけ。人気のない暗い道を抜けて、大通りに飛び出した。ハンドルから伝わるエンジンの振動が心地よく全身に伝播する。鼓膜を震わせる駆動音に、自然と気分が昂揚した──やっぱこれだよな、これ。
学生の頃はよくこうやって、夜中にこっそりバイクを飛ばした。当時の相棒は、なけなしのバイト代を積み立ててようやく買った中古のオンボロだったけど、機械の性能なんてどうでもいいと思えるくらい深夜のドライブは心が踊った。
誰もいない真っ暗闇に、テールランプの軌跡を残しながら疾駆する爽快感。解放感。いや、あるいは全能感とでもいうのだろうか。周りには誰もいなくて、ただ静けさとバイクの音だけがあって。
世界は俺のものだ! 俺は自由だ! なんて、自分でも馬鹿みたいだと思いながら、そんな清々しさにどっぷり浸れた。元々ひとりでいるのが好きな性分だから、世間のしがらみから解放される瞬間がいっとう好きなんだ。
特に行く宛はなかったけれど、ただバイクを走らせるだけで満足だった俺は、片側3車線の県道を走り続けた。生温い夏の夜風が、ずっとまとわりついていたモヤモヤを少しずつ引き剥がしてくれる。羽が生えたように体が軽い。
どうせ明日も会社は休みだ。幸いアポも入ってない。だったら多少羽目を外してもいいだろう──と、頭を空っぽにしてバイクを飛ばした。長時間風に当たったせいか、何となく疲れを覚え始めたのは、家を出て30分ほど経った頃のことだ。
元々寝不足気味だったし、帰りのこともあるから無理はすまいと、俺はようやくいつもの自分を呼び戻した。前方に皓々とライトアップされた自販機が見えてきて、あそこで少し休むか、とハンドルを切る。
しかし減速して歩道に乗り上げたところで、思わず「げ、」と呟いた。
だって目当ての自販機の隣には、こんな時間だというのにビカビカ存在を主張する『ドン・キホーテ』の文字。
何も考えずに走ってきたつもりだったけど、どうやら俺は無意識のうちに、レジデンス市座周辺をうろうろしていたらしかった。自販機は駐車場の入り口に置かれたもので、俺はまんまと殺虫灯に誘き寄せられた哀れな羽虫の気分になる。
けれどバイクの前輪は既に歩道へ乗り上げた状態。道路へ戻ろうにも、さっきまではいなかったはずの後続車が何台も並んで迫ってくる。
俺は諦めてシートを降り、バイクを押して歩道に上がった。かなり大きな道路に面しているから車の音は絶えないが、さすがに歩道を歩く人影はない。
自販機の傍にバイクを停めて、スマホを確認すれば午前1時。されど店内の照明がついているところを見ると、ドン・キホーテはまだ営業中らしかった。耳を澄ませば、あの頭に残るフレーズも確かに聞こえてくるし。
「こういうとこに勤める人も大変だよなぁ……」
なんてぼやきつつ、自販機に歩み寄って小銭を入れる。いつもの癖で缶コーヒーのボタンへ手が伸びたが、今から帰って寝るのにカフェインはまずい、と、すんでのところでミネラルウォーターへ変更した。
自販機の目の前にはバス停。そこから少し離れたところに、乗客のための待合椅子が並んでいる。俺はバイクごとその前に移動して腰かけた。水色のキャップを拈り、ペットボトルを一気に呷る。ずっとメットを被っていたせいか、首を後ろへ傾けると、頬のあたりを汗が流れた。
「帰ったら風呂、入り直しだな……」
と苦笑しながら、もう一度スマホを出して目を落とす。左手の250mlを飲み干したら帰ろうと決めて、適当にブラウザアプリを起動した。
いつもの癖で、ニュース一覧をザッと眺めて……『34歳男性刺殺 動機は不倫か』という不吉な見出しに眉をひそめる。最近こういうニュース多いよな、ほんと。殺人が起きたと思ったら、動機は大抵借金か痴情のもつれ。
嫌な世の中になったもんだ。俺は何も見なかったことにして、暇さえあれば覗いているバイク専門店のサイトへ飛んだ。ずっと新調したいと考えているパーツをあれこれ眺めながら、やっぱり一度店頭に行くべきかなあ、なんて現実から逃避する。せっかくの夜だ。今夜はもう余計なことは考えたくない。
「ヒヒ……ヒヒヒ……」
ところが刹那、パーツ選びに没頭していた俺は、不気味な笑い声で現実に引き戻された。まるで昔話に出てくる年寄りの妖怪みたいな笑い声……。
ようやく乾き始めていた全身からどっと冷や汗が噴き出して、俺は即座に顔を上げた。目の前の道路を走る車はなく、一時的に訪れた静寂の中、背後から足音が近づいてくる。
「ヒヒヒヒ……ヒヒッ……イヒヒヒ……」
──なんだよ、これ。
振り返りたいのに、振り返れない。体が完全に凍りついている。
足音はまるで勿体つけるように、異様にゆっくりと近づいてきた。時折カサ、カサ、と、乾いた音も一緒に聞こえる。
たぶん、人……だよな? まさか不審者? この時間なら確かにありえる。
下手をしたら刺される可能性も……逃げるか? いや、けど、単に頭がアレなだけの人かも……なんて思考が余計に反応をにぶらせる。
結局俺はバス停の待合椅子から1歩も動けぬまま、全身を緊張させて相手が通り過ぎるのを待つしかなかった。我ながら情けないものの、もし目が合ったりしたらと思うと顔を上げられず、スマホを握り締めて耐え忍ぶ。
「おかえり……おかえり……おかえりィ……」
妖怪はぶつぶつとそんなことを言いながら、やはりゆっくりと俺の前を通り過ぎた。こわばった体は依然動かず、辛うじて視線だけ持ち上げて、相手を確認しようとする。途端に俺は息を飲んだ。「あっ」と思わず上げた声と、吸い込む息とが相殺し合って、何だかよく分からない悲鳴になったと言った方が正確か。
「おい……」
と思わず呼び止めそうになるも、言葉が掠れて声にならない。相手は気づいていないのか、足を引きずるような歩き方で、買い物袋を揺らしながら少しずつ遠ざかっていく。
「なあ、おい……!」
今度は腹に力を込めて立ち上がり、声を張った。されど俺は完全にへっぴり腰で、しかもこんなときに限ってやってきた改造車の爆音に邪魔される。
真夜中の静寂を蹴散らし、趣味の悪い真っ赤な車が、猛スピードで眼前を通り過ぎていった。俺の声はその車が吐き出すマフラーの音に掻き消されたらしく、あいつは振り向きもしない。ヒヒヒッ……と引き攣るように笑いながら、マンションへ向かっていくだけだ。
「何なんだよ、あいつ……」
ゆらゆらと不気味に揺れる背中を見送った俺は、脱力して椅子に座り込んだ。あいつの口元に浮かんでいた、刃物で裂いたような笑みに怖気が走り、俺はいよいよ頭を抱える──どう考えたって今のはまともじゃない。
再び訪れた静寂の中、俺は遠いドン・キホーテのテーマを聞きながら、しばらくそうしてうなだれていた。
……帰ったら、今夜もアロマを焚いて寝よう。




