3.
南側の駐車場から、マンションを見上げてみた。
レジデンス市座、8階。右から5番目の部屋。
そこが俺の借りている813号室だ。時刻は夜7時過ぎ。変な気を遣った鈴生に今日は定時で帰れとせっつかれ、何故か職場の近所にある有名百貨店のケーキまで持たされて、俺は今、麓から我が家を見上げていた。……いる。
「いや、単に電気消さずに出ていった可能性もあるけど……」
とついひとりごちながら、乾いた笑みを浮かべて自宅のバルコニーを見やる。この時期、7時を回っても空はまだうっすら明るい。夏の太陽の残り火が彼方で燻っているのを認めながら、しかし部屋には電気の明かりがともっているのを、俺は憂鬱な思いで確認した。知らず、深いため息が出る。
「マジで帰るのかよ……」
悪態混じりに自問しつつ、右手に提げた紙袋を一瞥した。一目であの百貨店のものだと分かる手提げ袋には、鈴生が買って寄越した苺のショートケーキが2つ入っている。しかし何故2つなのか。決まっている。1つは俺ので、もう1つは理緒花の分だ。
鈴生曰く、理緒花は昔からショートケーキが好きだとかで、これを持っていけばきっと話を聞いてくれるはずだと太鼓判を押された。普段余計な買い物は一切しないあの鈴生が、1個600円もする有名店のケーキを買ってきたということは、俺と理緒花の仲をかなり気にかけているということだ。
だがあいつは勘違いしている。どうも鈴生は「理緒花がこちらの話に聞く耳を持たない」という俺の言い分を、完全に夫婦喧嘩の一環だと思い込んでいるようだった。それを理解したとき、俺が真っ先に疑ったのは、これが鈴生の仕掛けたドッキリなのではないかということだ。あの女は鈴生が用意した悪戯の仕掛人で、鈴生自身も口裏を合わせ、俺をからかっているんじゃないか、と。
何しろ俺と鈴生は親友だが、同時に長年のライバルでもある。学生の頃から互いに成績を競い合ってきたし、就職先に同じ企業を志望したのも、こいつにだけは負けたくないという思いがあったからだった。
当然そのせいでギスギスしたり、相手の幸運を妬んだりしたこともある。だからちょっとした憂さ晴らしとして、俺を騙して遊んでいる可能性もないとは言い切れないのだった。
しかしただの悪戯にしては、さすがにちょっと悪質すぎる。加えて昼間、「お前も一枚噛んでるんじゃないか」と問い質したときの鈴生の反応も、嘘をついているようには見えなかった。鈴生は俺の言葉の意味を理解できなかったようで、終始きょとんとしていたのだ。あの反応にはむしろ毒気を抜かれた。
とすればあとは直接、あの女に真相を吐かせるしかない。念のため、護身用にと小型のカッターナイフも買ってきた。もしもあの女がイカれたストーカーならば、口論の末に刺される可能性もゼロではない。そうなったらさすがの警察も、俺の正当防衛を認めてくれることだろう。
覚悟を決めて、俺はマンションの東側にある共用エントランスを目指した。集合玄関機に暗証番号を入力し、中へ入ってエレベーターへ。
通り際、軽く管理人室を覗いたが、俺の帰宅を見計らったかのように留守だった。ほんとに使えねえなと内心毒づきつつ、8階へ。
「……なんで俺はこんな目に遭ってるんだ」
そうぼやきたいのをこらえながら、俺は自宅の前に立った。さりげなく左右を確認してみるものの、ホテルを模した内廊下には今のところ自分以外の人影はない。
インターホンの上に踊る流麗な『813』の文字が、こんなにも余所余所しく思えたのは初めてだった。俺は己を鼓舞するため、もう一度深く息を吐いて、洒落たナンバーキーへ手を伸ばす。
「……ただいま」
極力音を立てないように玄関を潜った。俺の居ぬ間に暗証番号を変えられていたらどうしようかと思ったが、そちらは杞憂で済んだらしい。
家の中へ踏み込むや否や、頭上の照明がぱっと光って出迎えてくれた。リビングもやはり明かりがついているのが、ドアのスリットガラス越しに確認できる。
俺は自然と足音を忍ばせ、廊下を渡った。カッターを隠してあるスラックスのポケットへ手を突っ込み、まずはドアの前で聞き耳を立てる。
リビングからはどこか聞き覚えのある男の喚き声と、時折どっと沸き立つ哄笑が聞こえた。テレビの音声……だろうか。後ろでは軽快なBGMやSEも一緒に鳴り響いている。
意を決してドアを開けてみた。途端に鼻をつく生臭さ。昨日よりひどくなっている。生ゴミの臭いをもっと悪化させたような、吐き気を催すレベルの悪臭だ。
しかし真っ先に目に入るキッチンに、あの女の姿はない。ならばと右に視線を転じれば、俺の気に入りのソファの上に人影があった。
ゆったりとしたウォーターグリーンのカウチソファは、奥の壁掛けテレビと向き合う位置に置かれている。つまりあそこに腰掛けると、自然と入り口に背を向ける形になるわけだが、人影は俺の気配を察知するやゆっくりこちらを顧みた。
降田理緒花。
そいつは俺が帰ってくることを初めから見越していたかのように、昨夜と同じ薄ら笑いを今日も口元に貼りつけている。
「おかえり、佳巳」
──狎々しく呼ぶんじゃねえよ。そう恫喝したいのを懸命にこらえて、俺はカッターの刃をほんの少し、ポケットの中で前進させた。
「……まだいたのか、お前」
「当たり前でしょ。だってここはあたしの家だもん」
「いつからお前の家になったんだよ。これ、立派な不法侵入だって分かってんのか?」
「夫婦で暮らしてるのに不法侵入も何もないでしょ。ねえ、そんなことよりごはん、食べるよね? 昨日作ったおかず、残ってるから」
やはり話が通じない。理緒花は涼しい顔で俺の前を通り過ぎると、どこから取り出したのか、昨日と同じ俺の自炊用エプロンを身に着けてキッチンに立った。かと思えば俺が口を開くより早く、予想外の問いを投げかけてくる。
「汐月君は元気?」
俺は図らずも目を見張った。……こいつ、鈴生のことを知ってるのか。
いや、鈴生も理緒花を知っていたのだから、当然と言えば当然だ。辻褄は合っている。けれど俺は、理緒花が鈴生の名を呼ぶことに激しい嫌悪感を覚えた──この胸のモヤつきを、他に何と形容すればいいのか分からない。
「……お前、あいつとグルなのか?」
「何の話?」
「今日、あいつにお前の話をしたんだよ。そしたら鈴生も何か知ってる風だった」
「まあ、それはもちろん知ってるんじゃない? 私も汐月君には色々話したし」
「話したって、何を」
「佳巳には関係ないでしょ。ねえ、そんなことよりこれ、テーブルに運んで」
理緒花はあくまで俺の嫁であるという設定を押し通すつもりのようだった。いや、あるいは本気で自分は降田佳巳の妻であると思い込んでいるのか。
今日、帰りがけにネットで検索してみたのだが、ストーカーというのは往々にしてこういう思い込みを元に行動するものらしい。確か〝妄想性障害〟……とか書かれてたっけ。自分は相手に愛されているという妄想と現実の区別がつかなくなり、相手の言動のすべてを自分にとって都合のいいように解釈する一種の病気だ。
仮にこいつがその妄想性障害を患っているのだとすれば、まず肝要なのは刺激しないこと。こいつらは自分の妄想を否定されると逆上する。
結果、拒絶の態度を示した相手を死傷させる──なんてのがわりとよくある話だということは、最近のマスコミの報道を見ていれば馬鹿でも理解できるだろう。だから俺は、必死で平静を保った。こいつの妄想に付き合いつつ、どうにか正体を暴き立ててやるために。
「……これ」
と、理緒花が立ったキッチンのカウンターに、例の百貨店の紙袋を置く。まずは〝好物のケーキでも食わせれば話を聞いてくれるだろう〟という鈴生の証言を確かめてみることにした。
紙袋の中にはケーキ屋のロゴ入りの、真白いケーキ箱が入っている。それを取り出して見せつければ、途端に理緒花の瞳が見開かれ、爛々と輝いた。
「あっ、アンリ・シャルパンティエのケーキ! 買ってきてくれたの!?」
「いや……俺じゃなくて、鈴生が、な。これでも食ってお前と仲直りしろって、余計な気を回しやがってさ」
「そっかぁ、さっすが汐月君! 相変わらず気が利くよね~。ほんとなんでモテないんだろ、彼」
「そりゃ、あいつが貧乏性だからだろ。けど、その鈴生がわざわざ買って寄越した高いケーキだ。食えよ」
「言われなくてもおいしくいただきますー。とりあえず冷蔵庫に入れといて」
今日も今日とて我が物顔でそう言われ、俺は内心ムカッとしつつも、ひとまず理緒花に従った。まあ、〝ケーキが好き〟という鈴生の証言は正しかったようで、理緒花は見るからに上機嫌になっている。なんで選曲が『とおりゃんせ』なのかは知らないが、鼻歌まで歌ってやがるし。
……果たしてこいつと鈴生は一体どういう関係だ? 俺は勘繰りながら、流しの横の調理台に置かれた皿を取り、電子レンジで温めた。昨夜からずっと冷蔵庫に入れられていたのか皿は冷たく、ラップもかけられていたからだ。
ほどなく温めの完了を告げるアラームが鳴って、俺は取り出した2つの皿をカウンターの向こうのテーブルに並べた。どちらか一方の皿に毒が盛られていて、理緒花の胸三寸で毒入りの皿をこっちに寄越されたのではたまらない。
俺は殺されたくない一心で、仏頂面のまま淡々と食事の支度を進めた。理緒花が「あとはあたしがやるよ」とか何とか言っていたが、聞こえなかったふりをして、飲み物まできっちり揃えてやる。
「いただきます」
やがて料理が出揃うと、理緒花とふたり、対面に座って食卓に着いた。
部屋の奥では壁掛けテレビがつけっぱなしで、ソファ越しに品のない女芸人の笑い声が響いている。
……今夜の献立は味噌汁と白い沢庵、玉子が入ったポテトサラダに、腹を開かれた鯵の姿煮。これらが昨夜のうちに用意された品だとしたら、ひょっとして理緒花が血まみれの万能鋏を持っていたのは鯵を調理していたからか?
俺が胸裏でそう尋ねても、大きな目を不気味に白く濁らせた鯵は、うんともすんとも答えない。
「今日は記憶喪失ごっこ、しないんだね」
しばしの不自然な沈黙ののち。突然向かいからそんなことを言われて、ぎょっとした。理緒花が食事を口に運ぶのを用心深く観察してから、自分も同じ料理にありつこうとしていた俺の手の中で、漆黒の京塗箸がぴたりと止まる。
「……あれだけ言っても、お前が全然出ていかないからな」
「作戦失敗、残念でした」
勝ち誇ったように片眉を上げて、理緒花は得意気な笑みを刻んだ。俺は「ふざけんなよ、このストーカー女が」と怒鳴りつけてやりたいのをこらえつつ、鯵の身へ箸を入れる。
「そう言うお前は実家、どうだったんだよ」
「実家?」
「親父さんとお袋さんに、なんか言われなかったのか? 1年も向こうに居座ってたんだろ」
そっちがその気なら、こっちだってお前の〝設定〟の粗を暴いてやる。俺は今朝、鈴生から聞き出した情報を頼りにカマをかけていくことにした。
曰く、理緒花は俺との夫婦喧嘩が原因で、去年の夏に実家へ帰ったのだという。だが俺はこいつの実家がどこにあるのかも知らないし、義父母の顔も名前も知らない。それはこいつが俺の知らない赤の他人だからか、はたまたこいつの言うとおり、俺が記憶喪失になっているせいか。
俺は前者だとしか思えない。だからまずは証明する。こいつが俺とは縁もゆかりもないただのストーカーだということを、可能な限り穏便かつ迅速に。
ところがそんな俺の思惑は、
「──あたし、実家になんて帰ってないよ?」
決意を込めた1歩目で、ものの見事につまづいた。
「……は?」
「だから、実家になんか帰ってないって。確かに一旦地元に戻ろっかなって、考えたりはしてたけど」
「じゃあこの1年、どこにいたんだよ」
「それ、答える必要ある?」
「あるだろ、普通に考えて」
「あたしはそうは思わないなー」
「……もしかして、鈴生のとこか?」
「あはっ、なんでそうなるわけ?」
「あいつが異様にお前の肩を持つからだよ」
俺は完全に食事の手を止めてすごんだ。
仮にこの仮説が正ならば、やはりこいつと鈴生はグルということになる。ふたりで俺を罠に嵌め、混乱する様を笑おうとしているとしか思えない。
リビングに漂う不穏な空気を追い払おうと、テレビの向こうの番組司会者がやたらとハイテンションに捲し立てた。
が、今の俺には画面1枚隔てた世界の喧騒が、嫌に白々しくて仕方ない。
「佳巳ってさ。ほんと変わんないよね」
「あ?」
「全然周りが見えてなくて、他人の誠意を平気な顔で足蹴にしてさ。そのくせ自分は特別な人間だと思ってる。自分の甘えや主張は手放しに許されるべきだと思ってて、それを許さない人間は許さない。自分をおだててくれる人間以外いらないし、思いどおりにならない相手は目障りだもんね。自分の間違いは許せても、他人の間違いは絶対許せないもんね。あんたにとって大事なのは保身とプライド、そしてみんなにちやほやされることだけ。他人の痛みや苦しみなんて、いい人ぶるための材料としか思ってない。だから他人を平気で痛めつけられる。異常に外面がいいせいで、誰もそんなあんたの本性に気づかないけど」
「何言って」
「でもね、あたしは知ってる。あたしは知ってるんだよ、佳巳。あんたがどんなに冷たくて醜い人間か、全部」
「お前──」
「あたしが泣き寝入りするなんて思ったら、大間違いだからね」
瞬間、俺は踵で椅子を蹴るようにして立ち上がった。言葉も出ず、ただ唇をわななかせるばかりの俺を、理緒花は無表情に見つめている。
まったく感情のない顔面に開いた、ふたつの虚。そこに怯えた俺が囚われている。今の理緒花の眼はまるで、煮汁に浸った鯵のそれのようだ。
そう思った瞬間、全身を怖気が走って、俺は逃げるように身を翻した。隣の椅子に置いていた鞄とスーツの上着を急いで抱え、リビングを出てすぐの寝室に籠る。
扉には鍵をかけ、ろくに電気もつけぬまま手探りでベッドに倒れ込んだ。どうにかこうにかベッドサイドの卓上ランプをつけたのち、一緒に置かれているアロマディフューザーの電源をオンにする。
磨りガラスで覆われた淡い緑の光の中から、ジャスミンの香りを孕んだ蒸気が噴き出してきた。その香りを胸いっぱいに吸い込んだ俺は、広いベッドに仰向けになり、目元を覆って歯を食いしばる。
──俺は悪くない。
幼い頃から唱え続けた呪文を、今日も心の中で繰り返した。
俺は悪くない、俺は悪くない、俺は悪くない。
だって悪いのは、あいつだろ?
× × ×
翌朝、日の出と共に浅い眠りを打ち切った俺は、クローゼットからスーツを1着とワイシャツを1着、それからバーバリーのネクタイを持って一目散に家を出た。
扉の鍵を閉めていたから、理緒花は一晩中寝室に来られなかったらしい。昨夜の寝床をどうしたのかは知らない。知ったこっちゃない。
廊下に出て振り向けば、リビングの明かりは依然つけっぱなしだった。けれども俺は中の様子を覗くことなく、大急ぎで家を出る。
まだ地下鉄の始発も動いていない時間だったから、マンションの前でタクシーを掴まえ、駅前へ急いだ。24時間営業の漫画喫茶でシャワーを借りて、朝食もそこで済ませる。
一昨日の夜から昨夜にかけての出来事が、すべて夢であればいいと思った。そう祈りながら幽鬼のように青白い顔で仕事をこなし、悪夢から醒めるべく家路に就く。
レジデンス市座、8階の右から5番目の部屋。
今日も明かりはついていた。
「おかえり、佳巳」
抜け殻のようになりながら開けたリビングのドアの向こうで、いないはずの嫁が笑んでいる。