2.
毎朝恒例の満員電車に揺られながら、会社を目指した。
俺が務めるS社は、日本人ならだいたいの人が知っていると言っても過言ではない規模の上場企業で、このS市にもいくつか支店を持っている。
俺はその支店のひとつに、毎日地下鉄を使って通っていた。自宅から歩いてすぐのところに地下鉄駅があって、天候次第ですぐ渋滞する県道を車で走るより、地下鉄を使った方がスムーズに通勤できるからだ。
とは言え梅雨も明け切らぬこの季節、寿司詰め状態の地下鉄に乗って移動するというのも楽ではない。
押しくらまんじゅうでもするみたいに乗り込んだ乗客は皆、未明からの雨で濡れた傘を携えており、そのせいで車内の不快指数は最高値を叩き出していた。
右手で吊革に掴まり、左手には革のビジネスバッグと傘を提げたまま、俺はそんな拷問に近い時間に耐えている。今時期特有の熱気と湿気の絡み合う臭いが、昨夜マンションの部屋を満たしていた生臭さを想起させて、正直なところ吐きそうだ。
降田理緒花。
昨日突如として俺の前に現れ、そう名乗ったあの女は、何度否定しても俺の妻だと言い張って憚らなかった。
俺はお前なんか知らないし、結婚なんてしていない。どんなにそう主張したところで向こうは「忘れているだけ」と取り合わず、薄ら笑いを浮かべるばかり。
さすがに気味が悪くなった俺は警察を呼ぶぞと脅したが、「警察が来て困るのは佳巳の方だと思うけど?」と意味不明な反論をされた。どういう意味だと尋ねたら、七分丈の袖を捲り上げて、理緒花は赤く爛れた何本もの切り傷を見せてきた。そして、
「これ全部、佳巳からのDVで受けた傷だって、警察に言うから」
などとのたまうのだ。そのとき俺は、本能的に察知した。理緒花が手にした万能鋏が血まみれだった原因を。
当然ながらあの鋏は俺の私物で、普段使いしているものだから指紋もべったりとついている。そもそも赤の他人なので、警察が見てDVという判断を下すかどうかは微妙なものの、少なくとも傷害の疑いはかけられるはずだ。
おかげで俺は恐ろしくなり、「勝手にしろ」と吐き捨て家を出た。
そうして飛び込みで泊まれるホテルを探し、逃げ込んだわけが、当然恐怖と混乱で寝つけるはずもない。本気で警察を呼ぶべきかと考えたものの、動揺しすぎてまともに思考が働かなかった。通報したら最後、俺の人生はあの女に滅茶苦茶にされるような気がして、結局朝が来ても110番することはできなかった。
──俺はどうすればいい?
寝不足という名の靄がかかった頭で、繰り返しそう自問する。あの女は俺が出ていったあともマンションに留まり、今も待ち構えているのだろうか?
時折脳裏をよぎるのは、ストーカー、という言葉。ああいう被害に遭うのは女だろうという先入観があるせいで、自分の身に起きていることとしてなかなか受け入れ難かったが、もはや考えられる可能性と言えばそれだけだった。
しかしこれが仮にストーカー被害というやつだとして、何故まったく知らない女が? という疑問は消えない。
あの女は一体どこの誰なんだ? 降田というのは俺の苗字だから、少なくとも苗字は偽名だろうが、理緒花という下の名前も本名なのかどうか……。
《ご乗車ありがとうございました。次はK公園駅、K公園駅です》
暗闇の中を走っていた地下鉄が、ゆっくり減速し人工の明かりの中へ滑り込んでいく。じっと物思いに耽っていた俺は、扉のエアシリンダーが立てる音で我に返った。K公園駅。他でもない、俺の会社の最寄り駅だ。
どっと扉から溢れ出す人波に揉まれるようにして、慌ててホームへ降り立った。俺の自宅の最寄り駅から4駅ほど離れたK公園駅は、S市の中心街に位置しているため乗り降りする客の数がかなり多い。
特に通勤ラッシュと重なるこの時間は、1本しかない昇りエスカレーターに利用客が群がり長蛇の列となる。俺はその列を避けて階段を目指した。順番待ちの列に並ぶというのは、昔からどうも性に合わないんだ。
「佳巳」
ところが階段の1段目に足をかけたところで、いきなり後ろから肩を叩かれた。疲れ果ててぼんやりしていたときのことだったので、俺は不覚にも飛び上がる。
ほんの一瞬、理緒花の姿が脳裏にちらつき、ぶわっと恐怖が押し寄せてきた。ワイシャツが汗で濡れるのを感じながら険しい顔で振り向くと、そこには面食らった様子で立ち尽くすマッシュヘアの男がいる。
「……なんだ、鈴生か」
自分と同じくスーツをまとい、黒い傘と鞄を引っ提げたその男を見て、俺は思わず脱力した。汐月鈴生。大学時代からつるんでいる、同い年の同僚だ。
俺と鈴生は同じ大学の同じ学部から同じ会社に就職を志望して、同期としてS社に入った。初めこそ別々の支店に配属された俺たちだったが、入社して3年経った頃に鈴生が俺のいる支店へ異動してきて、今は同じ職場で営業として働いている。
こいつとは地下鉄に乗る方向が同じだから、通勤途中でこうしてばったり会うことも珍しくなかった。鈴生はほっと胸を撫で下ろした俺を見るや隣に並んで、颯爽と階段に足をかける。
「おはよ。どうしたんだよ、朝から疲れ切った顔して。ていうか俺、今日はホームが見える位置に乗ってたんだけどさ。お前、K四番丁から乗ってこなかった?」
「ああ……昨日、帰ってからちょっと色々あってさ。それで仕方なくK四番丁駅近くのホテルに泊まって来たんだよ」
「何、わざわざホテルに泊まるほどのことって。上の階から水漏れでもした?」
「いや、お前んとこの安アパートじゃないんだから」
そんなわけないだろという意味を籠めてからかい混じりにそう言えば、隣で鈴生も「だよな」と笑った。鈴生は郊外の1Kアパートでひとり暮らしをしている。家賃は確か4万くらいと言ってたか。
給料は俺と変わらないので、金に困ってるわけではないはずなのだが──さすがに大企業というだけあって、俺はこの歳で手取り30万程度もらえている──何でも実家に仕送りをしているらしく、鈴生の暮らしぶりはかなり質素だった。
いわゆるジャニーズ顔で、容姿だけならそこそこウケがいいのに、まるで女っ気がないのはそのせいだろうと噂されている。あまり自分に金をかけないタイプの人間だからか、周りに貧乏人と誤解されがちなのだ。
俺たちの職場までは、K公園駅の改札から歩いて5分。ふとオメガの腕時計へ目をやると、始業まであと20分はあり、急ぐ必要はなさそうだった。
あたりはこの時間ならではの喧騒で、歩きながら会話しようと思ったら自然と大声にならざるを得ない。ときに俺はふと思い立った。今なら周りの耳を気にせず、冗談めかして鈴生に例の件を相談できるのではないか……。
「じ……実はさ」
と階段を上りながら声をかければ、鈴生が「ん?」と気の抜けた顔で聞き返してきた。これくらいの声でも、一応は聞こえるようだ。あんな話、言ったところで信じてもらえるとは到底思えないが、鈴生とはもう10年近い付き合いになる。職場でも〝お人好し〟の代名詞となりつつあるこいつなら、もしかしたら……。
「昨日……うちに帰ったら、嫁がいてさ」
俺が独身であることは、当然鈴生も知っている。だからこんな切り出し方をすれば、「お前、寝ぼけてんの?」といつもの調子で笑い飛ばしてくれるはずだった。
そうすれば俺は胸の閊えが下りる気がして──きっと何かの冗談だと思えるような気がして、祈るように鈴生を顧みる。だが図らずも目を見張った。
何故なら階段を上り切った鈴生が、途端にぴたりと立ち止まり、ひどく驚いた顔で俺を凝視していたからだ。
「帰ってきたのか」
「……は?」
次いで鈴生の口から零れた謎の言葉に、俺もつい足を止めてしまった。こんなところに突っ立っていたら通行の邪魔だとは知りつつも、視線は鈴生の口元に吸い寄せられる。
「理緒花のやつ、やっと帰ってきたのか」
俺は耳を疑った。……〝理緒花〟?
こいつ今、確かにあの女の名前を──
「馬鹿、そういうことならLINEくらい寄越せよな、お前! そしたら記念に花でも買ってきてやったのにさ!」
「……なんで……」
「いや、花は冗談。てか、それでホテルに泊まったって……もしかして再会して早々喧嘩か? 少しは懲りろよなあ、お前。これ以上こじれて離婚話にでもなったらどうするんだよ」
「離婚って……」
「ま、お前らのことだからまたお互いに意地張っただけだろ? 昼休みにでも詳しく聞かせろよ。俺、今日は朝からアポだけど、昼前には戻ってくるからさ」
なんて言いながら、鈴生はあっけらかんと笑って俺の背中を叩いてくる。それが「さっさと行くぞ」の合図だと、ほんのわずか残った思考力でどうにか理解した俺は、促されるがままふらふらと歩き出した。
定期代わりのICカードを改札に翳して、ピロンという電子音を聞きながら茫然と考える。鈴生の今の口振りは、明らかに理緒花を知っているものだ。
それどころかこいつは今〝離婚〟というワードを口にした。つまり鈴生の中で、俺と理緒花は夫婦ということになっている。ありえない。どういうことだ。おかしいだろ。何もかも、おかしすぎる。
「鈴生」
「ん、何?」
「お前……あいつのこと、何か知ってるのか?」
「は? 何かって、俺が知ってるのは去年の今頃お前らが喧嘩して、理緒花が実家に帰ったってことだけだよ。あれ以来、俺も理緒花とは連絡取ってなかったし」
「実家に帰った……?」
昨晩と同じだ。昨日まで普通に顔を合わせて、一緒に働いていたはずの鈴生とも話が噛み合わない。だが何よりぞっとするのは、鈴生の話と理緒花の話の辻褄が微妙に合っているところだ。
理緒花は昨日、「1年も連絡を寄越さなかった」と言って俺をなじった。その証言は「去年の今頃理緒花が実家に帰った」という鈴生の言葉と符合する。これじゃまるで、俺が本当に理緒花のことを綺麗サッパリ忘れ去っていて、あいつの言い分の方が正しいみたいじゃないか。
だけどそんなこと、あるはずがない。だって、特定の人間の存在だけ消しゴムで消したように忘れるなんてことがありえるのか?
もしもそうだとしたら、俺は何故自分の妻のことを忘れている?
3ヶ月前、家の中であの奇妙な現象が起き出すまでは理緒花がいた痕跡などどこにもなかったし、そもそも結婚指輪も持ってない。なのに実は嫁がいました、なんて、ありえないだろ。
俺は混乱と動揺のあまり、それ以上何も言えずに茫然と会社までの道を歩いた。
事務所に着くまで、隣で鈴生が何か話していたような気がするが、まったく記憶に残っていない。