11.
先月の半ばを過ぎたあたりから、佳巳の様子がおかしいことは分かっていた。
真夜中に一度、大量の買い物袋を提げてドンキから出てきたあいつを見て以来、何かあるとは思っていたのだ。
あれから日が経つにつれて、佳巳の奇行はますます目立つようになっていった。いつもどおり会社には来るものの、明らかに挙動不審で言動は支離滅裂。顔つきも日に日に別人のようになり、頬が痩けて目が飛び出していく。
顔色は土気色。病人、というよりは死人に近い。ふたりきりで話していても、左右の目はそれぞれ違う方を向いて泳ぎ、明らかに焦点が合っていなかった。
女性社員たちはそうした佳巳の変貌した姿を不気味がり、客からもクレームが入る始末。上司は何とか話をしようと試みたようだが、終始ヘラヘラと笑っているだけで話にならず、さすがに寒気を覚えたという。
どう見てもアレはまともじゃない。誰か病院に連れていった方がいいんじゃないか。そんな話になった頃、折悪しく会社は盆休みへ突入した。連休前日、佳巳は終業を告げるチャイムが鳴るやすっくと立ち上がり、誰とも話すことなくさっさと会社を出てしまった。
追いかけて話ができれば良かったのだろうが、生憎と俺はお得意様と電話中。次の商談の日取りを決めて電話を切り、慌ててビルを飛び出した頃には、佳巳は姿を消していた。ダメ元で携帯を鳴らしてみるも、まったく出ない。LINEはここ数日ずっと未読無視。連休前、最後のチャンスを逃した俺は肩を落として、残りの仕事を片づけるべく事務所へ戻った。
昨年のちょうど今頃、名前も知らない飲み屋で喧嘩してから、互いに少しずつ歩み寄り、ようやく以前の関係に戻れたと思ったのに。
それがまた、理緒花の影がチラつき始めた途端に壊れた。喧嘩別れして実家に帰ってしまったという理緒花が、思い直して戻ってきてくれたことは素直に嬉しかったが、そのせいでまた佳巳との関係がこじれるのではと、俺は毎日怯えていた。
いや、本当に恐ろしかったのは佳巳と敵対することじゃない。もう一度理緒花に会って、封印したはずの感情が解き放たれるのが怖かったんだ。
あの日の佳巳との喧嘩以来、俺は二度と理緒花には近づくまいとそう誓った。今も心は理緒花を求めてやまないが、彼女の幸せを思うなら、そうするのが1番だと思った。結局、俺がふたりの間に無理矢理割って入ったところで、事態は決して良くならない。むしろ悪化し、理緒花を余計に苦しめるだけだ。
第一俺も、これ以上叶わぬ恋に身を焦がしたくはなかった。佳巳と結婚するべきか否か、悩んでいた理緒花を止めなかった時点で、俺に彼女の手を取る資格はないのだから。
「ほんだらなあ、鈴生。気ィつけて帰れよぉ。家さ着いたら、電話けろ」
それから10日間、長い連休を地元で過ごした俺は、父の笑顔に見送られてS市への帰路に就いた。もう何年も入退院を繰り返している父をひとり残して帰るのは不安だったが、俺にも仕事がある。微々たる年金しか収入のない父に楽をさせるためには、1人息子の俺がしっかり頑張らないと。
久しぶりに親子水入らずで過ごした数日間は、俺にそんな気力と活力を与えてくれた。年に一度会えるか否かの旧友たちも、各々の職場や家庭で日々奮闘しているのだと知った。
だったら俺も弱音なんか吐いちゃいられない。心なしかアパートを出てくるときよりもご機嫌な愛車の唸りに身を任せ、俺は高速道路を走り抜けた。
翌日、田舎の鄙びた土産を持って出社。父を連れていった温泉で買った菓子だ。それを朝のうちに同僚たちへ配り、佳巳のデスクにも置いておく。
が、始業時間の9時を過ぎても佳巳は出社せず。体調でも崩したのかと内心首を傾げていると、佳巳の課の上司から「汐月、お前、何か連絡来てないか」と尋ねられた。「え?」と驚きながら携帯を確認するも、佳巳からの連絡はなし。どうやら無断欠勤らしい。こんなことは俺たちの入社以来、初めてだった。
しかしあいつ、連休前から明らかに様子がおかしかったし。ひょっとして盆休み中に何かあったんじゃないか、なんて話になって、嫌な予感がした俺は、外回りついでに佳巳の自宅へ寄ってくると上司に告げた。上司は上司で、まずは緊急連絡先になっている佳巳の伯母を当たってみるという。
お互い何か分かったらすぐに報告を入れることにして、俺はひとり、レジデンス市座を目指した。佳巳と理緒花が結婚してから買ったあのマンションには、一度も行ったことはないが道順なら覚えている。
俺は社用車を飛ばして目的地へ急いだ。マンションが近づくにつれて、胸に小さく芽生えた嫌な予感がすくすくと育っていく。
建物に着くやまず管理人に事情を説明し、一緒に部屋まで来てもらうことになった。佳巳と理緒花が住んでいるのは813号室。俺は管理人とふたりでエレベーターに乗り込み、8階を目指す。
「ここですね」
やがて流麗な字体で『813』と記されたドアの前まで来ると、初老の男性管理人が、マスターキーのようなものを使って電子ロックを開けてくれた。「降田さん? いらっしゃいますか?」と声をかけながらドアノブに手をかける。
ところがいざ玄関を開けようとしたところで、管理人が「おや?」みたいな顔をした。どうしたのかと目をやると、何度もノブを引いているのにドアが開かない。「何か引っかかってるな……」と渋面を浮かべて彼が言うので、俺も手伝い、力づくでドアを引いた。すると何かが裂けるようなすさまじい音がして、俺も管理人も肝を潰す。
「な、なんだあ?」
小柄な管理人が頓狂な声を上げ、俺も面食らって立ち竦んだ。が、ようやく開いたドアの隙間からは、何だか変な匂いがする。
まったく系統の違う複数の匂いが、デタラメに混ざり合ったような……なんだこれ、と思わず眉をひそめながらも、とにかく俺はドアを開けた。
途端に視界に飛び込んできたのは、玄関ドアの内側に貼られた無数の御札。紋様のような字で『悪霊退散』と書かれた和紙が、ドアを埋め尽くさんばかりにあちこちに貼られている。それを見た俺は目を疑って凍りつき、管理人は「ひぇっ……」と声にならない悲鳴を上げた。今にも腰を抜かしそうな足取りであとずさった彼の前に、剥がれ落ちたダクトテープがだらりと垂れる。
どうやらなかなかドアが開かなかったのは、このダクトテープで4方が目張りされていたかららしい。あまりにも異様な光景に俺たちが立ち尽くしていると、玄関と廊下の照明がひとりでにパッとともった。
冷静に考えれば人感センサーが俺たちに反応しただけなのだが、カチッと照明が点灯する音に心臓が止まりかける。マンションの中はそこそこ空調が効いているのに、気づけば俺は汗だくだった。
「よ……佳巳? 理緒花? いないのか──?」
ただ友人宅に訪ねてきただけなのに、笑えるくらい声が震える。だってどう考えても、これは異常だ。一体何があったのか。そう思いながら視線を向けた玄関には、男物の革靴と女物のハイヒールが1足ずつ並んでいた。
とても理緒花のものとは思えないド派手なエナメルのハイヒールだが、靴があるということはふたりとも中にいる、のか……? そう思って耳を澄ませば、奥から何か──聞こえる。あれは男の声、だろうか?
「あ、あの、私は、中には、ちょっと……」
完全にビビってしまったらしく、管理人は真っ青な顔で入室を拒否した。そんなのってアリかよ、と思いながらも、ここまで来てふたりの安否を確かめないわけにもいかない。
俺はカラカラに渇いた喉から辛うじて「何かあったら、すぐに警察に電話して下さい」という言葉を絞り出すと、物音を忍ばせ部屋に入った。いや、忍び足になる必要はまったくないのだが、何故か自然と。
玄関からまっすぐ伸びた廊下には、右手に2つ、左手に3つ、そして正面に1つドアがある。右の2つは物入と寝室。左の3つは同じく物入とトイレ、洗面所。いずれにも佳巳たちの姿はなかった。とすれば残るは、あの正面の扉だけ。
「佳巳──」
意を決してドアノブに手をかけ、一気に開けた。
瞬間、目の前に人の足が見える。
「え?」と思わず上げた声は、声になっていなかった。
──佳巳。いた。
リビングの真ん中にあるシーリングファンから縄を下げ、そこにだらりとぶら下がった状態で。
「あ──」
異臭の原因が分かった。俺は放心して、その場に腰からへたり込んだ。
佳巳。動かない。下半身を糞尿で汚し、舌を垂れてうなだれたまま。
「汐月さん、どうですか……!?」
なんて管理人の声が遠くから聞こえたが、俺は答えられずに、吐いた。胃が痙攣して猛烈な吐き気が何度も押し寄せ、こらえる間もなく吐瀉物をぶちまける。
「よ……佳巳──」
嘘だろ、こんなの。
そう言いたかったのに喉が引き攣り、俺はただただ嘔吐くことしかできなかった。見かねた管理人が俺を追ってきて、佳巳を見るなり絶叫している。
管理人は走り去った。たぶん、警察を呼びに行ったのだろう。だが俺は動けない。現実感が一気に遠のき、ぼうっとする頭で、風もないのにぶらぶら揺れる佳巳だったものを眺めているしかない。
「なんで……」
ようやく吐き出した声は、自分のものとは思えぬくらいに掠れていた。けれどそのとき、俺の視界の端にふと、何か白いものが映り込む。
茫然自失したまま目を向けた。大量に床に散らばるそれは、ノートから破り取ったと思しい何枚もの紙切れだった。
というかこの部屋、テレビがついている。さっき聞こえた話し声の主はアレか。奥の壁にかかった壁掛けテレビ。そこには神妙な顔をしたニュースキャスターと、『S市Iヶ岳に白骨遺体』というテロップが映っている。
『次のニュースです。昨日、S市のI区Iヶ岳を訪れていたレジャー客から警察に〝人間の遺体が埋められている〟との通報があり、身元不明の白骨化した遺体が見つかりました。遺体はゴミ袋に詰め込まれた状態で埋められており、警察は死体遺棄事件と見て、被害者の身元の確認を急いでいます。関係者の発表によりますと、遺体は身長160cm程度の女性のものと思われ──』
淡々と読み上げられるニュースの原稿を、どこか他人事のように聞きながら、俺は紙切れへ手を伸ばした。試しに1枚手に取り、ぼんやりと眺めてみると、乱れた字で意味不明な言葉が繰り返し書き殴られている。
『おかしい』
『りおか』
『りおかがいる』
『帰ってくる』
『なんで』
『死なない』
『殺しても殺しても』
『おかしい こんなの』
『くるな』
『消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ』
『もういやだ』
『つかれた』
『カナドコサマの呪い』
紙面が真っ黒に見えるほどの、狂気の痕跡。
俺が茫然と眺めたその紙切れからは、噎せ返るようなジャスミンの香りがした。
(了)




