1.
家に帰ると、知らない女がいた。
俺と同い年くらいの──つまり三十路手前くらいの、若くて茶色い髪の女だ。
「ああ、佳巳、おかえりー」
なんて、そいつは血のついた鋏を片手に言う。
何故俺の名を知っているのだろう。
俺はこの女を知らないのに。
× × ×
レジデンス市座。S市の県道に面するタワーマンション。
高さは地上30階。でもちょっとした高台の上にあるおかげで、麓から見るともっと全高があるように見える。
セキュリティはもちろん万全で、共用エントランスはオートロック。入館のためには入り口の集合玄関機に暗証番号を入力しなければならず、自由に出入りできるのは実質、管理会社の人間と居住者だけだった。
俺はそんなマンションの8階に部屋を借りている。南向きで日当たりのいい813号室。間取りは1LDKで、玄関はナンバー式の電子ロックだ。この部屋へ入るための4桁の番号は、俺しか知らない。
「ただいまー」
1人暮らしを始めてもうだいぶ長いのに、帰宅すると自然と口をついて出る帰宅の挨拶。無意識に響いた自分の声を聞きながら、家に上がろうと革靴の踵へ指を引っ掛けたところで、それは俺の視界へ飛び込んできた。
「……え?」
夜10時過ぎ。仕事を終えて帰宅したばかりの俺の足元には、見たこともない女物の靴が几帳面に爪先を揃えて置かれている。水商売の女が好んで履いていそうな、エナメルの赤のハイヒールだ。照明の明かりを衒うように弾くその靴を目にした途端、俺の口から漏れたのはまず舌打ちだった。
「またかよ……」
無能上司をフォローするための残業で、ただでさえ荒んでいた心が輪をかけて荒んでいく。近頃俺は、この部屋で度々起こる怪奇現象にひどく頭を痛めていた。外出先から帰宅したり、朝、眠りから覚めてみると、こんな風に見たこともない靴や服や日用雑貨が忽然と増えているのだ。
それも決まって増えているのは女物。今日みたいに玄関に靴が置かれているだけならまだかわいいもので、時にはクローゼットの中に女物の下着が入っていたり、洗面所の歯ブラシが1本増えたりしていた。
その度に俺は不気味に思い、すべてゴミ箱へ叩き込むのだが、しばらくするとまた新たな何かが増えている。原因は分からない。何故なら上で述べたとおり、この部屋へ入るための暗証番号は俺しか知らないはずで、親しい友人にすら教えたことはないからだ。
「管理人、マジで何やってんだよ……」
苛々と悪態をつきながら、俺は誰が置いていったとも知れぬ靴を取り上げた。ここ3ヶ月ほど断続的に続くこの現象について、俺は当然管理会社に相談したのだが、事態は未だ解決を見ていない。
と言うのも管理会社曰く、マンションのあちこちに設置されている防犯カメラには、怪しい人物は一切映っていないというのだ。俺は再三頼んで部屋の前の通路を映すカメラの映像を全部チェックしてもらったのだが、何度確認しても813号室に出入りする人物は降田様だけです、と言われる始末だった。
どうしても心配なら警察に行けと言われたが、犯人がカメラに映っていない以上、どうせ取り合ってもらえないに決まっている。俺はため息混じりに自宅へ上がり込むと、まっすぐゴミ箱のあるバルコニーを目指した。
叶うことなら今すぐにでもマンションのゴミ集積所へ持っていきたい気分だが、生憎とゴミの日はつい昨日だ。こいつを家の外へ捨てるには、次の収集日まであと2日待たなきゃならない。
近所にあるコンビニのゴミ箱へ捨てに行くという手もあるものの、近頃は店員が家庭ゴミを捨てるなとか何とかうるさくて見つかると面倒だった。何より今日はもうへとへとだ。正直動きたくないし、考えたくない。
俺はそんな一心で、玄関から一直線に伸びる廊下を進んだ。とにかくこの目障りな靴のことは、生ゴミ用のゴミ箱の奥底に沈めて忘れてやる。
突き当たりにあるスリットガラス入りの白いドアは、リビングへと通じるドアだ。俺はバルコニーへ急ぐため、レバー式のドアノブに手をかけた。そして、
「……あ?」
苛立ちに任せ、乱暴にドアを開けてから気がついた。
明るい。部屋の電気がついている。このマンションは玄関照明こそ人感だが、リビングや寝室の電気はすべて手動だ。
妙だな、今朝家を出るときに消し忘れたのか、俺──なんて思って、ダイニングテーブルの真上にあるシーリングファンライトを仰ぎ見た。その瞬間を見計らったかのように、左手から声がする。
「ああ、佳巳、おかえりー」
ぞっとした。心臓が縮み上がって、全身に鳥肌が走り、俺は目を見開いて振り向いた。だって、俺以外誰もいないはずの部屋から声がしたのだ。これでビビるなという方がどうかしている。しかもまだ若い、女の声。
「は……?」
恐怖と動揺のあまり、間抜けな声を上げてしまった。レジデンス市座の売りである、かなり広めのリビングダイニングキッチンには、まったく知らない女がひとり、ぽつねんと佇んでいた。
そいつはキッチンから張り出したカウンターの向こう側で、にこりと笑みを作っている。自分こそがこの家の住人だとでも言いたげな、何の気後れもない顔で。
ぱっと見、歳は俺と同じくらい──いわゆるアラサーと呼ばれる年頃だ。髪はいかにも染めましたという感じの明るい茶髪。あの髪型って、ワンレン……っていうんだっけ。俺、そういうのあんまり詳しくないんだけど。
顔つきは、正直言って「かわいい」の部類に入る。小顔で目がぱっちりしていて、顔だけ見た印象は「人懐っこそう」だ。
けれど俺はこの女を知らない。誰だお前。とっさにそう叫びたかったのに、動転のあまり喉が閊えて無理だった。俺にできたのは、しゃっくりみたいに息を飲み込むことだけ。ていうかこいつ今、俺の名前を呼ばなかったか?
「何よ、幽霊でも見たような顔して」
と、女は不思議そうに首を傾げて尋ねてくる。そんな女のすぐ傍で、沸騰した両手鍋がぐつぐつと音を立てていた。
一体何を煮立てているというのだろう、清潔感漂う白い壁紙のリビングには、異様な生臭さが充満している。俺はそのひどい悪臭と女の存在に混乱し、思わず1歩あとずさった──何なんだ、こいつ。まさか居直り強盗か?
「な……何だよ、お前……」
「何だよってことはないでしょ。1年も連絡寄越さないで、久しぶりに会えたと思ったらその反応? もっと気の利いたお出迎えの言葉はないの?」
「は……? 何言ってんだ、知らねーよお前なんか」
「あのねえ……もしかしてあのときのこと、まだ根に持ってる? だからまったく連絡してこなかったってこと?」
女は何故だか呆れた様子で、ため息混じりに俺を見つめた。だけど何かこう、話が噛み合っていない。根に持ってるって、何の話だ?
俺はこんな女知らない。会ったこともない。なのになんでこの女は、我が物顔で人の家のキッチンに立ってるんだ? 俺がごく稀に自炊するときだけ身につける、男物のエプロンを着て。
「まあ、そんなことだろうと思って来てみたんだけどさ。この1年何やってたの? あたしのことなんて綺麗サッパリ忘れ去って、第2の人生を歩んでた?」
「お前、さっきから何言って──」
「それはそれで別にいいけど。あたしはあなたによりを戻す気があるのかどうか、訊きに来ただけだから」
「よりを戻すって何だよ。俺はお前なんか知らねーって言ってるだろ!」
このままじゃ埒が明かない。俺はいつまで経っても噛み合わない会話に寒気を覚えながら、精一杯の虚勢を張った。混乱と動揺で思考は漂白されかけているが、唯一頭の片隅に、警察、という単語がよぎる。
そうだ、警察だ。こいつがどうやって人の家に上がり込んだのかは知らないが、これは立派な不法侵入だ。今まで家の中で起きていた奇妙な現象の数々も、こいつがやっていたんだとしたら納得できる。
だったら今の俺が為すべきことは、通報。スマホはスーツの内ポケットにある。この女とはまともな意思疎通ができそうにないと踏んだ俺は、両手に持っていた鞄とハイヒールとをそれぞれ放り出し、素早く内ポケットへ手を入れた。けれど、
「佳巳」
再び名を呼ばれ、背筋が凍りつく。こちらを見据える女の顔は無表情。しかし手には、血のついた万能鋏。
その瞬間、俺は胃がひっくり返りそうなほどの吐き気を覚え、掴んだはずのスマホを取り落とした。液晶がフローリングに叩きつけられる音がして、俺はさらに2、3歩あとずさる。
「ねえ。あたしのこと、ほんとに覚えてないの?」
「し……知らない……お前のことなんか、知らない……!」
「そう。じゃ、思い出させてあげよっか?」
抑揚もなく言った女が、鋏を握り締めたままゆっくりと1歩踏み出した。迫ってくる女を前に、引き攣った俺の喉が「ひっ」と情けない音を上げる。
──殺される。
本能がけたたましく警鐘を鳴らした。俺は女から距離を取ろうとして壁に背をぶつけ、それ以上身動きが取れなくなる。
女が俺の目の前で止まった。死んだ魚のような目が、空洞みたいに俺を見ている。突き飛ばして逃げることも考えたが、無理だ。まるで金縛りにでも遭っているみたいに指先まで凍って、動けない。
「フルタリオカ」
そのとき女が、意味不明な言葉を吐いてニヤァ……と笑った。
「あたしは降田理緒花。佳巳、あんたのお嫁さんだよ?」




