エレベーターの哀歌(エレジー)
これは、スポーツジムで気持ちよく汗を流した私が、自宅があるマンションのエレベーターで経験した、甘酸っぱい思い出の話。
沖縄旅行まで後十日。
部活動に明け暮れていた学生時代とは異なり、社会に出てから車通勤が板についてしまった私の体型は見るも無残に崩れている。
旅行の同伴者はそんな私を好きになってくれたわけだし、別に誰が見ているわけでもない。それでも水着を着る以上、出るべきところ訴訟大国のあの人たちのように主張し、引っ込むべきところはノーと言えない私たちのようになりを潜めていてほしいのだ。これは、男女に共通する考えだと思う。
ちなみに私、男ですよ。
そっちの気はありません。ノンケです。どんだけぇ~。
さて、そんなこんなで最近の私は仕事が終わったら即ジム通い。飲み会なんてもってのほかよ。ごはんは一膳しか食べられないけど生ビールは別腹なんだから。
職場から五分の距離にあるジムについたわ。こんだけ近いんだから歩いて行けよなんて言わないでね? 手早く着替えて、まずは準備体操。各部の筋肉をしっかりと伸ばしてから少しアップをするの。
でもってエアロバイクね。って、いつの間にかオネェになってるじゃないの!
はい、軌道修正。
エアロバイクにまたがり、負荷を調整する。十分かけて心拍数を百三十五~百四十に。その後三十分ほどそれを維持。クールダウンは一分でいい。
汗を拭い、私はヨガマットを取り出す。
ゆっくりと腕立て伏せを十回。
続いて腹筋、背筋運動をあれこれと繰り返し、それを三セットこなす。
ここまでですでに一時間経過している。
毎日やる運動なんてこれで十分だ。
おかげでこの二週間、毎日運動を継続できている。
体重は四キロ減少し、ズボンもゆるゆるである。
別に二か月であの体を目指しているわけじゃないし、金銭的にそこまで余裕じゃない。
ヨガマットの汗を丁寧に拭き取り、乾かしている間にシャワーを浴びる。家に帰ってからもまた浴びるのだが、やはり汗だくのまま私服に着替えるのは気が引け――だからゲイじゃないって言ってるでしょ!?
着替えをしながら大胸筋を動かしてみたりして、あれこれ調べた結果たどり着いた自己流トレーニングの効果を噛みしめつつ帰路に就く。
スーパーマーケットに寄って、晩飯の買い物をする。
なんと、一本釣りのかつをの刺身が三十パーオフですと。
今夜はのっけ盛りで一杯やるか。
酒を止められればもっと痩せられるんだろうけど。
いつもの自問自答が始まる。
「あと十日ぐらい我慢できないものかね? 正確な数字は出せないが、少なくとも摂取カロリーは抑えられるだろう」
私の中に住む永遠の皮肉屋、“熱量仮面”が軽やかに振っていたステッキを私の鼻先に突き付けた。
「いやぁ、三日断酒しただけで相当なストレスだぜ? ストレスは結局過食に繋がるんだ。それにこいつはビールをとワインを止めて、細々とハイボールを飲んでいる。酒を飲みながらも努力をしているわけだ」
熱量仮面に抗するは、酒好きオヤジの“ご飲居”だ。彼は酒に関すること以外の議論には全く参加しないが、話題が酒のことなら全力で私を擁護してくれる。最強ポジティブな頼れるオヤジなのだ。
「ハイボールなんて、レモンを入れた炭酸水とたいして変わらないだろう? それならほどゼロカロリーだし微量ながらビタミンも摂れる。それに何も一生飲むなと言っているわけじゃないんだ。たったの十日だよ。沖縄に行ったら存分に飲めばいい」
「おいおい、たったの十日だって? 男子三日会わざれば――って言うだろうが。十日となったらそりゃ大変な数字だ。ああ、数字と言えば今日の体重は?」
「ぷ、プラス〇.五キロでした」
私はご飲居に促されるまま答えた。当然と言えば当然だが、熱量仮面はそれを聞き逃さない。
「ほら見た事か! 大方、昨夜のトンテキのせいでいつもより多く酒を飲んだのが効いているのだろう。百薬の長などというのは迷信に過ぎん!」
「ほう! あんだけ飲んだのにそれっぽっち! 心配することはねえ。今夜はカツオだからな。肉よりは格段にカロリーが低い。基礎代謝だって下がってるってことはねえんだから!」
鬼の首を取ったような熱量仮面だったが、ご飲居も負けてはいない。彼は熱量仮面の得意なカロリーの話を出して、今夜の酒を含めたメニューの正当性を主張した。
「せっかくオカズのカロリーが下がっても、酒を飲むなら台無しだ。いいかね、これは単純な算数なんだ。取りすぎれば太るのがカロリーだ。ましてや夕食はもっとも抑えるべきだし、飲み過ぎ食べ過ぎは消化不良の元でもある。明日の仕事に響くぞ――」
「聞いたかおい。今日も元気に仕事をして、ダイエットのために一時間も運動してきたお前さんを労うどころか、楽しみを奪って明日も働け、だとよ。まったくあの仮面様は血も涙もねえや――」
「なんだと!? 私こそ彼のためを思ってだな――」
結論から行くと、私は昨日飲み干してしまったウィスキーを補充し、炭酸水にレモンも購入してホクホク顔でスーパーを出た。
運動後はとにかく腹が減る。
駐車場に車を停めて、エレベーターのボタンを押して待つ。私の部屋は十階だ。エアロバイク後の足には階段はちとつらい。マンションに一基しかないエレベーターがなかなかやってこないこともしばしばあるが、我慢するしかない。
さんざ待たせた後に録音された声で「お待たせしました」などと言ってくれることがあるのだが、あれがまたイラッとくる。
ダイエット中ということで、この二週間色々なことを我慢してきた私はこの日、いつも以上に苛立っていた。
貧乏ゆすりのリズムに合わせて買い物袋もカサカサと音を立てる。
五分経ってもまだ来ない。
無意味と知りつつドアのガラスに頬をくっつけ、エレベーターの底が見えないかと目を凝らす。
さながら血の池地獄に垂れた一条の糸を待ち望む亡者のごとき心境だ。
一向に姿を見せない、私を天上へといざない直方体には今誰が乗っているのだろう。私は一階のエレベーターホールをうろうろしながら待った。
そうして八分経過したことを携帯の画面で確認して舌打ちをしたとき、ついに蜘蛛の糸が垂れてきた! そして、私の目の前をエレベーターが通過していった。
ここで地下か!!
地下にはゴミ捨て場がある。
出す時間は朝と決まっているというのに、モラルの欠片もない連中がこういう時間に捨てに行くのだ。大抵は出し忘れて嫌な臭いを放ち始めたやつを。
ちなみに私の前を無情にも通過したエレベーターに乗っていたのは、おっさんだった。大方かみさんにケツを蹴られて泣く泣くゴミ捨てに行っているのだろう。情けない奴だ。
私の中にどす黒い、なんでもかんでもディスリスペクトしたくなる悪魔がいつの間にか住み着いていた。
まあ、思うだけなら人を傷つけるわけでもない。
ともかく早く来い来いエレベーター。残念ながらゴミ捨て場に到達するには扉を二つ開かねばならず、どんなに急いでも扉が閉まるまでに戻ってくることはできない。もちろん、ドアが閉まるのを防止する様なアイテム――例えば帽子とか――でも挟んでおけば話は別だが。
……エレベーターがなかなか上がってこない。まさかあのオヤジ、ヅラでも挟んでいるのじゃなかろうな!?
などと内心で毒づいたとき、柔らかな暖色系の蛍光灯の灯りがせり上がってきた。元旦のご来光よりもはるかに在り難い。私は思わず手を合わせてエレベーターに飛び乗った。
『お待たせしました』
ああ、本当に、な。
迷わず十階のボタンを押す。
閉まるボタンを連打する。
ドアが閉まる。
そこでようやく異臭に気づいた。
生ゴミ特有の臭いだけじゃない。
あのオヤジ、腋に獣を飼っていやがる!!
一度気になるともう止まらない。私は断じて臭いフェチじゃない。どちらかと言えば潔癖に近く、他人の腋臭なんて嫌悪の対象でしかない。
鼻と口を覆い隠し、浅く短く呼吸をする。匂い物質の侵入をほんの僅かでも少なくしたいからだ。
これでは本当に地獄だ。エレベーターよ、早く私を天国へといざなってくれ。私は目を閉じ天井を仰いでエレベーターを吊るしているワイヤーが巻き上げられて床が上昇していく感覚に身を委ねた。
エレベーターはすぐに止まった。
二階エントランスは駅へと続く歩道橋に繋がっており、帰宅時間にはたくさんの人が利用するので当たり前と言えば当たり前。
やあ、お嬢さん。こんばんわ。
おや、よく見かけるご夫婦も。今夜はお出かけですか。
同じマンションに住む者同士だ。親しみを込めて黙礼をするも、彼らの視線はなぜか冷たい。
三人の同乗者は一様に顔をしかめ、私の肩の少し上あたりに視線を固定していた。
なんですか。
肩越しに幽霊でも覗いていますか?
訝りながら私も左肩を見る。
そこには丸めて専用の筒に収納されたヨガマット。
エレベーターに充満する汗と腋臭の臭い。
なるほど。
私じゃない! 誤解です!