読書ログ① 河童
芥川 龍之介『河童』1992年
・桃太郎
・雛
・点鬼簿
・蜃気楼
・河童
・歯車
・或阿呆の一生
・或旧友へ送る手記
高橋 敏夫氏による解説と夢枕 獏氏による鑑賞 付き
私は本を読んだ。部室に置いてある本をくすねて──いや、正確には部室のホワイトボードに借りていく旨を書いたし、数人にはそのことを話したので、くすねたという言い方は間違いである。(しかし私は見つけてしまった。自室の本棚の手前に横積みにされた本の中にさだまさしの『茨の木』があることに。それは私が2年以上も前に大会で朗読する部分を選ぶために持ち帰り、そのまま返すことがなかった代物である。 (つまりもう少しで無意識のうちにくすねてしまうところだったということだ)きちんと全部読まないうちにどこかにやってしまったと思っていた(正確にはもう既に返却した物だと思っていた)のだ。私はこの本をきちんと読んでしまってから部室にそっと返しておきたいと思う)
今回 私が手に取ったのは芥川龍之介の『河童』という短編集である。その一つひとつの勝手な要約と感想、そして最後に全体の感想を書いてみたいと思う。
まず最初は「桃太郎」である。
これはもちろん日本の童話であるかの”桃太郎”を題材にした作品だ。話は桃太郎の入っていた桃がどこからどんな風にしてやってくるかというところから始まる。そしてここに出てくる桃太郎はお爺さんやお婆さんに愛され、悪い鬼達を退治にしに行くような人物ではない。鬼退治の動機は働くのが嫌というだけ、極楽の島に住む鬼は皆 気立てが良く退治する必要などどこにもなかった。桃太郎はそこにある宝の数々を目当てにしていた。犬や猿や雉も同様であった。(しかも桃太郎はこれらを仲間にするために、きびだんごをまるまるひとつではなくそれぞれに半分しかくれてやらなかった)鬼は平和主義者で金棒を持つこともなかったために桃太郎とその仲間たちに敗れ、金銀財宝を(打ち出の小槌なども含めて)献上した。しかし人(?)の良い鬼もただただこんな仕打ちばかり理由も聞かされずに受けているわけにはいかなかったために理由を問うたところ、桃太郎は 答えにならない答えを返して言いなりにしてしまったそうな。桃太郎たちは幸せに、鬼たちは人間に復讐する機会を伺いながら、暮らしましたとさ。という感じのお話です。(あらすじを簡単に書くつもりがだいぶ長い説明になってしまいました…。次はうまくやります)
これを読んだ時、私は彼を大分 人間らしい桃太郎だと感じた。仕事をしたくないだとか、きびだんごをケチって半分しか与えないだとか、財宝に目がくらみ否のない鬼たちを成敗するだとか。ありふれた正義を振りかざす主人公が悪を成敗する話にはもう誰も彼も──きっと子供たちでさえも飽きてしまったことであろうと思う。ここで登場するキャラクターの方が私は好きだ。新鮮味があるし、もとよりは随分現実味が増したと言えるだろう。そういう意味ではある意味愛らしく生まれ変わり、より共感を集めやすくなったこと間違いなしである(ここでひとつ確認しておきたいのは、私がこれらの行いを良いことだと思ってはいないということだ)。
次は『雛』である。
あるところに一人の女の子がいて、その家にはたいそう立派な(そしてとても値打ちのある)雛人形がありました。ある年その家の主人は家計が苦しくなったのでその雛を売ることを決心しました(母親も病気で苦しんでいて、その回復ためにも雛を売ろうということだったような気もします)。女の子はその雛を最後にまたもう一度だけ見たくて見たくて、父にせがむのですが父ばかりか兄にも叱られ、結局 見れません。そこでとうとう売られる時が間近に迫ったある夜、最後にどうしても一目見てやろうと蔵に入って(眠って)いたところ、物音が聞こえたので覗いて見ると──薄明かりの中に父親が座って泣いているのです。女の子はなんとも言えない気持ちになったのでした。という話です。細かいところに少しだけ触れるとするならば、この家の家族間の色々が丁寧に書かれているということです。(また大分 長いあらすじとなってしまいました)
私はこれを読んだ時、本当に芥川龍之介の作品なのかと疑った。確かに芥川龍之介 独特の感じは誰がなんと言おうと確実に醸し出されている。しかしこれは(「解説」にある言葉を借りれば)芥川の後期作品としてあまりにも毒が少ないようである、と今となっては感じるのである(この本に収められている物語を(「解説」や「鑑賞」さえも)読んでしまった今となっては)。私は確かにこの作品の中に”女の子”と同じ感動を共有し、身震いをしたのであるが──なんとも不意打ちだったのである。こういう作品は芥川龍之介らしくないというのは私の一個人の見解であるが、何はともあれ私はこの作品が好きであることに間違いはない。
その次は『点鬼簿』である。
この作品についてのあらすじは省かせてもらいたいと思っている。まず短い話であるので興味があったらご自分の目で本文をご覧になって頂きたいし、何よりもまず私のこの作品に対する理解の無さに問題がある。今少しパラパラとページをめくってみても、何も思い出さない。私は本当にこの本を読んだのだろうか。
多分これはこの時 私の芥川作品に対する免疫が薄かったためだろう。今まであまりにも文学作品に触れなさすぎたのだ。少し集中が削がれた状態で読んでも内容が十分にわかる本しか手に取ってこなかったせいなのだ。そして何より最近の活字離れ。小説より漫画を見るようになり、更にそれよりもアニメや映画をみるようになった。でも私は後悔の念を、最近(小学校卒業以来)本離れしていたことに対する後悔を、あまり感じてはいない。どちらかというこの状態に満足しているのだ。今ここでこの時にこの事に気付けたことに。少し遅くてはもう手遅れだったように思う(きっと私がそう思い込んでいるだけであって、いつこのようなことが起きたのであっても、私は同じ感想を持ったに違いない)。
そのまた次は『蜃気楼 ──或は「続海のほとり」──』である。
主人公はある友人とともに蜃気楼を見に行った。蜃気楼はちっぽけで少しのものしか見ることができなかった(上物を見れる機会はとても少ないらしい(私は蜃気楼を((まさにそれが蜃気楼だというものを))見たことがなかった))。その話は長く続かず、浜辺などに打ち上げられた漂流物の話となる(というところから、私は「続海のほとり」が題名だった方がきっと好きだっただろうと感じたりした)。夜も海辺に探索に出た主人公たちだが何気ない話をして、奇妙な感じに(そうとしか私の語彙力では表現し得ない)終わるのであった。
これは大分 控えめに芥川龍之介らしさが出ているのではないかと思う。どんなふうにかということをここで示すのは、私がここに書くべきことのうちには含まれないであろうから、是非とも本文をご覧いただきたい。この作品には芥川龍之介が生きた時代の特色が色濃く出ている(それを知ったのは「解説」を読んで後のことであるが)。ここに出てくる漂流物には、水葬された遺体に付いていたであろう木札とか、遊泳履の片っぽだとか、──そしてもちろん潮の匂いのきつい海艸や汐木だとかが存在する。こういうものが物語のアクセントになるのだろうと思う。散りばめられた死のイメージは私の考える芥川龍之介の代名詞でもあるとも思う。しかしなんとまあ 解説を読んだ後に、この作品をまた考え直してみた時のイメージの変わりようは驚くべきものである。そういう作品はこれに限らず数多くあると思うが、これには特にその感じがある。つまり、芥川龍之介の作品は二度楽しむことが可能であるということだ(ただしそのためには一度目は芥川龍之介に対する知識がほとんど無いに等しくなくてはいけない(知識を知っていても踏まえずに読めるなら別だが))。
それからこの書籍の題名にもなっている『河童』である。
これは精神病院に入院している一人の男の患者が、”河童の国”なる所に行ってきた時の紀行である(正確に言うと筆者はこの男を訪ね、そこで聞いた話を本に起こしたものである(そして何であろうこの患者はこの思い込み(?)のせいでここに入院している))。不思議な河童との出会いと国に至るまでの経緯、愉快な河童たちとその習慣・風習、そして人間の住む場所に戻ってからの彼、それから最後に”現在”のことを述べている。
これについてのあらすじはこのくらいにして終わろう。何しろこの話は私がこの本で読んだ中で一番に”裏切り”を感じた作品だったからである。 ──しかも悪い意味で。というのも、──私はこの話の中盤まで来た時、芥川龍之介の不思議な世界を楽しんでいた。河童に人間らしさが伺える点が存在し、しかも共感することさえあるなんて。(私はこの話を読んでいる最中、いつでも「この話はどうやって結末を迎えるのだろうか」ということを考えていた)主人公は河童の友人がたくさんいたし、河童の国の色々な場所へも足を運んでいた上に、しかも"河童語"('que'のような)もこの面白さに拍車をかけて──とにかく”河童たちとの生活”は楽しく快活なものだった。…そう、途中までは。ある時、河童の友人の一人(一匹)が自殺したのである。ここから話は斜め下がりの雰囲気を出してくる。…そしてとうとう主人公が人間界へ戻ると、──もうそこには何も主人公が期待できうる者が何一つなかったそうな(それはまるで芥川龍之介が世間に対してそう思っていると言っているようだった)。又、私はここで語られていない、主人公が現世に戻ってから失敗したという事業の話をいつきか聞きたかった(その話をする前に医師たちが「あなたはこの話をした後は必ず発狂するから」と語らせなかったのである。目の前でご馳走をお預けにされた気分である)。最後に主人公はその発狂ぶりを我々に見せつける。河童の友人が昨夜持って来たという黒百合の花束が、彼には見えているというのだ。その机の上に。私たちにはその机に何も乗っていないのしか見えないのだが。又、友人の河童の一人である詩人が書いたという詩集を今ここで読み聞かせると言って朗読し始めた。それもまた私たちには理解不能な境地であった。タウンページ(のようなもの)を逆さに広げた彼はそのまま詩を読み始めた。そこに書かれているはずの無い河童語を翻訳しながら。…私はここで鳥肌がたつのを感じていた。私は夢を見ていた。彼と同じ夢を。しかも現実と気づいていながら。 ──つまり私は河童を信じていたのである。しかもこの本に出てくるような河童たちが実際に存在することを。私はここに来て大分 勝手極まりない裏切りを感じたのである。何か物凄い哀しみに襲われたのだ。
まぁ何はともあれ私はこの話を皆さんに読んでいただきたい。どんな感想を持つかはもちろん人それぞれであるが、私と似たような感覚でこの話を読んだ人に出会いたい(人は誰しもいつも自分と違う意見の者とばかり話を交わしたいわけではない。私の場合はそれが顕著で、同じ気持ちを持つ人との会話を、共感の盛り上がりを、心ゆくまで楽しみたいのだ)。…何だかこんなことを言っていると私も狂人になったような気さえしてくる(しかし実際に狂人というのは何かに酔っているその状態に浸かっていたいだけの人のことだと、私は思っている)。
そして『歯車』。
この話にあらすじなんて付けたら作品を駄目なものにしてしまいそうなのでしないことにいたしましょう(じゃあ今までの作品は良いのかという問題には触れないでください、それは私の気持ちの問題なのです)。
芥川龍之介自身のことであるかのように私たちに主人公と彼とを重ねさせる。奇妙な幽霊の噂話がいつも寄り添っているかのようなストーリーの流れ。「1. レエン・コオト」から始まるその不気味さは、最終章「6. 飛行機」で最高潮をむかえる。まるで”彼”と一緒に臨死体験させられているのかと思うくらいだ。ここまでくると私は彼の作品を楽しめるようになった。彼の──天才の思考に付いていけているようで、とてもいい気分だった。でもその感覚は多分間違っている。芥川龍之介は読者を選ぶ作家だとは思うし、きっと彼自身もわかる人にだけわかってもらえればそれで十分だというタイプなんだと思う。しかしそれは、書かれていることを私が少し理解できたからといって、それが天才と同じ感覚を共有したとは言えないのである。それはつまり彼は作家だということだ。読者を選ぶ作品の内容を描くことと、ほとんどの人にわからない・伝わらない文章を書くこととは別なのである。
それから『或阿呆の一生』である。
文字通りこれは芥川龍之介が彼自身の一生について書いているものだ。
まず思ったのは──なんと脚注の多いことか!何度 後方の頁をめくらされたことだろうか。これは私の語彙力の問題でもあるだろうが、それにしても世の中にはこんなに私の知らないことがあるのかと(当たり前で今更だが)、作品自体とは別な点で感動してしまうほどであった。しかし私は脚注を煩わしく思ったわけではない。私はそれらに対して、脚注を付けてくれた方に対して、これ以上ないほどに感謝したのである。何故ならこの脚注無しに私はこの物語を楽しむことが不可能だったからなのである。芥川龍之介は読書家であった。そして彼の書く話の中には度々別の誰かが書いた本が登場する。そしてその本とその著者は大抵 私の知らないものなのである。そのことは私に「本と本との繋がり」を感じさせ、"本という花"から花へ移りたくなる蝶の気分を味あわせる、数少ない機会なのである。──そしてこの話は、大分 滑稽であった。それは本当の意味での”滑稽”ということではない。抽象的過ぎたのだ。この題名は『或阿呆の一生』という題名だ…が、私は彼を阿呆だと感じる暇がなかったのである。
そして最後に『或旧友へ送る手記』である。
これは今までに存在し得なかった自殺者の心理を描いた作品である。芥川龍之介自身もそのことを承知していて(色々な意味で)初めてその内容の作品を書き上げた。
この話を読んでいる時に”私たち”は”お互いに”冷静だった(そうその二人というのも、私と何より芥川龍之介、彼自身が)。なるほどそこに書いてあったのは理にかなうことばかりであった。私は深く感心し共感した(もちろんそれはつまり「私も自殺したい」と思った、ということではない)。これは「手記」であって、物語ではなかった。私はここで良い意味の裏切りを味わった──そう、『河童』の時とは逆の──(「真逆」とまでは言えなかった)。
最後に…、まずここまで読み進めて頂いた方々にお礼を申し上げたい。私の文は芥川龍之介の作品たちとは別の意味で"読み辛い"。
私はこの本の中で衝撃的な言葉をいくつか見つけた。しかしここでそれらを紹介するのはいささか気が引ける。その物語の中で、その流れがあってこそ、その言葉にたどり着いたときの感動があるというものだ。だからもしその本を読む機会があれば私はどの言葉に衝撃を受けたかをも考えてみて欲しいと思う。…が、一つだけ、一つだけ後書きにて紹介することにする。
そしてこのことは私を再びこの本へ導く要因となろう。私は衝撃を受けるような言葉を見ても、少しした後には欠片も覚えていないことがほとんどだからなのである。未来の私には過去の私がどの言葉に目を留めたかを再確認して、今度は忘れないでいてもらいたいと思う。
私はこの作品をこの文庫で読めたことに感謝している。この本の表紙の装丁までにも感謝を示したい。私は集英社文庫の(赤を背景としたものではなく)主に青緑を表紙の絵に使用したものをお勧めしたい。私は勝手に、この本はこの表紙ありきだと思っている。赤い表紙の河童は可愛すぎる(と個人的には思うのだ)。
どの章だったであろうか。否、本当はこの著書の中ではないのだが、私は「神々は不幸にも我々のように自殺できないのである」だかという言葉に私は深い何かを感じ取った。
追伸:申し訳ないがこれほど長くては自分でも読み返すのが面倒なのでいつかこの推敲をきちんと行いたいと思う。…いつか。