第1節「徒然草」”花は盛りに” vs「玉勝間」”兼好法師が詞のあげつらひ”
この連載のネタを書いた紙を無くしてしまって、とても焦りましたが幸いにも見つかりました。これで安心して書くことができます!笑
興味のある方は、双方の本文と現代語訳は各自でお調べください。
ただ私はここで、知らなくても分かる内容を書けるよう努めたい思います。
私個人の考え方を言うなれば、本居宣長は兼好法師の言いたいことを履き違えているように感じる。
本居の言う通り、「花(桜)が風に吹かれて早く散ってほしい」や「雲が月を隠せばいいのに」と願う歌は無い。しかし兼好法師が”良い”としているのはそういう状態のことではなく、そういう状態を見て儚さや不完全さを感じている、その人のことだと私は思う。
『人は完璧を求めても完璧にはなれず、永遠を求めても手に入らないので、儚く不完全なものに自らを重ね、それらに風情を見出すのだ』。これは、私が高校の古典の授業で発表した自分なりの考え方である。解説の入れようも無くそのままの意味であるが、これを兼好法師の言いたいこととして噛み砕くとするならば、儚く不完全なものに切なさを感じている状態に風情を感じる、といったところだろうか。これは私の見解なので、兼好法師が本当にこういったことを言いたかったわけではないかもしれないが、もしこういう意味だとすれば、私は兼好法師の主張にとても共感する。
そこには、恋愛についても述べられている。ここからは本当に私の意見を述べることにする。これについては兼好法師が私と同じ考えでないのなら、偽りの気持ちで心を飾ったものだと言えよう。
私は両想いになることを望むだけが恋愛だとは思わない。ただの非リア充の強がりに聞こえるかもしれないが、私はそもそも恋人なるものが欲しいと思ったことはない。経験としては欲しいと思ったことは少なからずあるが。これは恋をしたことがないというのとはイコールではない。
つまり何が言いたいのかというと、恋にも”想い”によって様々な形があるということだ。
『憧れ』に近い恋心を抱いたことはないだろうか。恋い慕っても、憧れはどこまでいっても憧れなのである。近づき過ぎて本当は見たくなかったものを見たりして勝手に幻滅することを避けたいとは思わないのか。勝手が過ぎると思われても仕方がないのだが、こちらが抱いた感情はあくまで『憧れ』なのだ。
画面の向こう側でしか見ることのできない人物に恋をしたことはないだろうか。自分が画面のこちら側の世界の人間なら、大抵は両想いになれるとは思わないと思う。しかしそこにも確かに恋を感じる人がいるのだ。
このように、最初から両想いになり付き合うことだけを目的にしない恋もいくらでも考えられるのではないだろうか。それも立派な”恋”の形ではないか。
やはり成就することを目標としたものだけを「本物の恋」とするのは、私は反対である。
本居は「結ばれないのを嘆く歌が趣深いのも結ばれることを願う気持ちが強いからなのだ」という主張をしている。それも間違ってはいないと思う。ただ、そういうことを兼好法師は言いたいのではないと私は思うのだ。
また、人の最期についても述べられている。
兼好法師は「40歳足らずで死ぬのが見苦しくない」と言っている。一方で本居は「本当にそれを心の底から願う者は存在しない」と言う。これについては私はどちらとも言えない。超高齢社会の現代に生きる私たちは、この問題を今のスケールで考えてはいけないと思う。
兎にも角にも意見を述べるとすれば「人様に迷惑をかけていないと生きられない状態になってまで生きていたくはない」と言うことだ。問題発言と取られても仕方ないかとは思うが、この考えを変えることはできない。この先 行動を起こせる可能性を持つ人が生きるのは分かる。しかし、もう体力的にも精神的にも新たな何かを生み出すのが難しいと思われる人々は何のために生きるのだろうか。本人たちは辛くないのだろうか。私は疑問に思う。言い方を更に酷くするとすれば、そういう人々を生かすお金や他人による協力は無駄にはならないのだろうか、ということだ。
ただここで、これを実の両親に置き換えて考えてみたいと思う。確かに、自分の親にはいつまでも生きていて欲しい。見守られていたい。しかしその想いは「いつまでも健康でいて欲しい」「我が子を我が子として認識していて欲しい」と言うことなのではないか。病魔に侵され辛く苦しい状態の両親を、認知症になって我が子の顔を忘れてしまった両親を、平気な顔で見ていられるだろうか。お互いにいい気持ちはしないだろう。健康であるにしろ、体は年齢と共にいうことを聞かなくなる。どちらみち介護を視野に入れる時期がやってくるだろう。親にはいつまでも生きていて欲しいと思う。心から思う。しかし介護をすることを心からの喜びとする人は少ないのではないだろうか。そうなると、遅かれ早かれ人はいつか死ぬのである。いつでも悲しいものなのである。互いに気持ちが良くない状態を見ない・見せないのをある意味で幸せと呼ぶのではないだろうか。
そして、自分はどうなのかというと、やはりあまり長生きはしたくない。長く生きれば 必然的に、比例して、生への執着も後悔も多くなるものだと思う。ここまで頑張ってきたのに、それが報われてすぐに死ぬなんていうことがあったらたまらない。…が、私は今の状態では何も成し得ていないので、この状態で死ぬのもまた…。死にたいとは思はないが、死にたくないとも思わない。やはりまだ生と死との実感が湧いてこないからこういう結論に落ち着いてしまうのかもしれないが。
最後に「風流のあるものの嗜み方」であるが、私は個人が思うようにすればいいのだと思う。何がいいと決める兼好法師の考え方はあまり好きではない。感性は皆違うのだ。同じ絵を見ても違う感想が出てくるのが当たり前であるように。
一面に真っ白な雪が積もっても、足跡を付けたくないと感じるか、足跡を付けたいと感じるのは人それぞれなのである。綺麗な花が咲いていたら、それをただ見ていたいと思うか、摘み取りたいと思うかもひとそれぞれだ。
私が大切だと思うのは「嗜み方を知っている・弁えている」ことではなく、些細なことにも風情を見出す心そのものだ。
ここまでつらつらと個人の感想を書いてしまったが、以上が私の考えである。これから変わるかもしれないが、この考え方を経由したという証拠をここに残そうと思う。
今回のは凄く長いので、申し訳ないですが見直しもしていません。順次 少しずつ見ながら直しながらで訂正を入れるところはさせていただいたいと思います。何か気になったところがありましたらお教えくださると嬉しいです。
なお、皆様の感想もお待ちしていますので、気が向かれた方はどうぞよろしくお願いします。