序章
000
姿は見えないけれど。
声も聞こえはしないけれど。
決して触れることは叶わないけれど。
既にここにはいないけれど。
確かにここに存在する。
俺が想い続ける限り存在し続ける。
いつでも、どこまでも。
どこでも、いつまでも。
共に在り続けよう。
共に想い続けよう。
あの日交わした約束を護る為に。
最期に──最後に交わした約束を、いつまでも守り続けよう。
いつか、再び、あいまみえることが出来るまで。
それまで俺は、ずっと待ち続ける。
それまで俺たちは、ずっと一緒だ。
それまでも、それからも。
だから。
俺が選んだ俺の往く道。
どんな苦難があろうとも、俺はその途を全うしよう。
どんな困難があろうとも、きっとお前となら乗り越えられよう。
どんな艱難があろうとも。
001
夏休みの真っ只中、晴れ渡る青空の許で俺たちは、いつもの神社にいた。
俺の人生ターニングポイントとなった、あの出来事──隣にいる少女に出会ったのは昨日のこと。
今日も昨日のように、鎮守の樹──立派な楠の根に並んで腰掛けていた。
人間の見る世界というものは全く不思議なもので、今いるここも、昨日のあの時まで、あんなにも虚ろで暗澹とした暗鬱な場所でしかなかったのに、いま再びこうして見渡してみると、とても静かで落ち着いた、木漏れ陽の心地のよい、どこか神聖な場所であるような気がしてしまう。外界から離れ、こんなにも温かく優しさに溢れた空間に、一陣の爽やかな風が身体を包み込む。
今では自分の、もう一つの帰る場所ともいうべき空間。他人が余り立ち寄ることのない、俺達だけの場所。
「ふふっ、なんかこの場所も変わって見えるな。この場所は大嫌いだったのに。この場所に縛り付けられていたのに。ただ、悠途と出会っただけなのに。世界は何も変わってはいないのに」
不意に隣の少女──くすのきが、俺と同じことを言って笑いかける。つい零れてしまった、幸せな吐息。
「そうだな。俺もくすのきと出会ってからこっち、この場所が明るくなった」
なんだか、恋人同士の明るい会話に聞こえなくもないが、少し違う。
決して、ただ明るいだけの話では無いのだから。
くすのきが俺と出会ったあとのこの場所を明るく感じるのは、それまでが真っ暗闇だったから。いつまでも一人で、どこまでも一人ぼっちで。
元、産土神。
民に忘れられた少女。
それが、消えゆくはずだった一柱の土地神。
それが、俺がくすのきと名付けた一人の少女。
そしてこの俺は、生きている価値などありはしないと思っていた一生を、あの日出会った見知らぬ少女のために捧げた愚かな男。後悔などしていない。ようやく、凄まじく面白いことに出会えたのだから。
「これからよろしく頼むぞ、相棒」
「まかせろ! 悠途こそ、あたしにちゃんとついてこいよな!」
俺たちはもう、心も一つになった気でいた。いつまでも、どこまでも一緒に、二人でやっていこうと思っていた。
神と人間。そこにどんな差異が存在するかも考えずに。
ただ浅ましく、浅はかに。
002
あいつとの事を物語るには、やはりまずあの日の事を思い出しておく必要があるだろう。物語の発端、全ての始まり。俺がくすのきと出逢った、あのよく晴れた夏の日の事を。
あの日鎮守の樹の下で、俺達は出逢った。
あいつはいわゆる巫女服を身に纏い、長く真っ直ぐな黒髪を半紙で結っていた。
はじめはそこの神社の巫女さんかと思った。けれど。
産土神。
それがくすのきの──いや、この時はまだ名前を付けてはいなかったから、そうだな、それが──それが、彼女の正体だそうだ。
いや、正体『だった』そうだ。
──あたしは、ここら一帯の産土神だったんだ。
──だが、次第に皆の信仰が薄れてきてな、あたしらの存在が揺らいでいたんだ。
──人々の信仰を失った土地神はもうそこいらの自縛霊と大差ないさ。
──もうとっくに曖昧な存在でしかないから、いつ消えてもおかしくないだろうな。
──でも、出来ることなら、あたしは最期まで天に抗ってみたい。そしたら何か、変わるかもしれないから。
本当かどうかなんて判らない。確かめる術など無いのだから。
それから紆余曲折あって、俺はあいつを救うことになった。
どうやって救うのかというと、簡単に言えば、供給のなくなったエネルギーを俺が供出してやるというものだ。
信仰を失うことによってその存在が消失してしまうのならば、信仰を与えればよい。信仰とは即ち人の想い。だから、俺があいつのことを忘れないでいることで、あいつと共に在ることで、あいつの存在は確かに存在し続けられる。
多少、あいつの存在意義、アイデンティティが変わってくるけれど。この上塚の地に住まう生けとし生ける全てに無償の加護を与える産土神では、なくなってしまうけど。それでも、変わってしまってでも、皆のことを見守りたいと。
それと、そっちの方が都合がいいからと、あいつの手によって俺まで神になってしまった。といっても、底辺の底辺、半人半神のあいつの部下だが。でもこれも、俺が望んだことだ。人間のままでは、俺はいつか死ぬ。それから先、死んだ後まであいつを支えてやれるかは判らないから。
こうして、晴れてくすのきとして新しい途を歩み始めた一人の少女と、晴れて神見習いとして新しい途を歩み始めた俺は契りを交わした。
俺に想われ存在し得るくすのきと、くすのきに想われ存在し得る俺と。奇妙なツーマンセル、奇怪なワンセット。
端から見れば、とんだ道化だ。何をクソ真面目にやっているのか、ちゃんちゃら可笑しいだろう。
けれど、俺たちは本気だった。
これから、ずっと一緒に、この街を護ってゆこうと。
出逢ったばかりなのに。
不思議と、他人事とは思えなかった。
関わらずには、いられなかった。
俺は自分の行いを、後悔してはいない。
振り返ってまとめてみると随分と簡潔で幾分か端的な、呆気なくなんともない、ただのある夏のある一日である。
けれどこの日は、俺の人生をいい意味でぶち壊してくれた転換点だった。