あの願いをいま
私は何も言わず,ただただ静かに,そっと着物をかけてやった。1番お気に入りで,おしとやかに椿が散っている着物であった。
部屋の中は,人でいっぱいであった。久々に揃ったこの人数に,春さんはご機嫌であった。
『なんだか正月とお盆がいっぺんに来ちゃったみたいねぇ。』
確かに,そう思えるほどの集まりようであった。
『お母さんのために来たんだからね。何か欲しいものはある?』
春さんは顔をくしゃくしゃにしながら微笑み,首を振った。
『永太郎さんにお願いしたから,もう何もいらないよぉ。』
隣に座っている旦那を見る目は優しい。それだけに,おしどり夫婦で羨ましがられていたのが分かる。
『お母さんったら。一生のろけるのね。』
春さんはほほを少し赤くして微笑んだ。
『そりゃ1番好きだからねぇ。』
私は涙を浮かべた目で春さんを見て,そっと手を繋いだ。
『ありがとよぉ。』
まだこんなに人数が集まらないうちに,春さんの願いを聞いていた。それは叶えたいとどんなに願っていても,叶えられないものであった。それだけは春さんにも周りの人にも良くない。返答に詰まった私を見て,春さんは首を軽く振った。
『いいのよ,永太郎さん。』
そう言って,春さんは微笑んだ。
『見せてやりたいが,それはなぁ。』
言葉を濁すと,春さんは分かっていると言うようにうなずいた。
『そうなのよね。じゃあ,手を繋いでいて下さいな。』
私はかすかに照れた。
『それでいいのか?』
『いいのよ。』
たくさんいた人も,数時間後にはいなくなっていた。あまりの人数では,周りに迷惑であるし,なにより春さんが家に帰したのだ。
私たちはずっと手を繋ぎ,とりとめもない事を私が話していた。
ポツリと沈黙が訪れる。
『寂しくないかい?』
小さな声でそう聞くと,春さんは何も言わず,ぽかんと口を少し開けて私を見上げた。
『椿が綺麗だねぇ。』
ポツリと,消えそうなくらい小さな声で言った言葉に,私は目を見開いた。
そして,その声は本当に消えてしまった。
眠るようにして,本当に2度と起きない眠りについた春さんのお葬式は,しっとりとした雨の中行われた。
『お父さん,寂しいわね。』
『そうだな。』
『ねぇ,お母さんの欲しいものってなんだったの?』
ずずっと鼻をすすった。
『これだよ。』
お棺の中で眠る春さんの上に掛けられた,椿の柄の着物。
『死ぬときに着せてって?』
急に老け込んだ顔のまま首を振った。
『本当は椿を見たかったんじゃ。だが,入院している者に花ごと落ちるのはご法度。だから,ここで見せてあげるんじゃよ。』
そういうと,スーッと涙が流れた。
『先がないとわかっていたから,見せてやりたかったよ。だがね,春さんは周りの人の迷惑だからって遠慮したんだ。』
『お母さんらしいわね。』
お棺の横にひざをつき,春の顔にそっと手を当てた。
『綺麗だな,春さん。お前の着物の椿,見えるか?綺麗だなぁ。』
ほんの少し,春さんが微笑んだように見えた。