07
大公領について知るうちに、セリーヌは幾度も驚かされた。
貧民街が存在しないこと。孤児院が機能していること。そして、すべての子ども達に学ぶ場があること。
「……こんなに行き届いた領地があるなんて」
思わずこぼれた言葉に、傍らで紅茶を注いでいたミシェルが不思議そうに首を傾げた。
「そんなに珍しいことでしょうか?」
「ええ……私が育った公爵領では、裏通りに貧民街があったし、孤児院だって……」
セリーヌの声には、ほんの微かな震えがあった。
しかし、そんな彼女の反応に気付かず、ミシェルはどこか誇らしげに微笑んだ。
「こちらでは、閣下が早くから福祉制度を整えられましたから。貧しい者たちは孤児院や教会で学び、働き口を得ております」
「じゃあ、奴隷もいないの……?」
「奴隷? 帝国法でも人身売買は禁止されていますし、奴隷なんてここだけじゃなく、どこの領地にもいませんよ」
“奴隷”という言葉を、ミシェルはまるで遠い昔話のように口にした。
そんな世界があることなど知らなかったセリーヌの胸には、重く沈むような感情が渦巻くと同時に、僅かな希望が芽生える。
ミシェルが去った後、セリーヌは静かに胸元を握りしめた。
開け放たれた窓から吹き抜ける風が、薄暗い感情を連れ去り、セリーヌを前向きな気持ちにさせた。
「この夢のような領地のために、私に何かできることはないかしら……」
穏やかな日々が続いている。
ロランとの間には、相変わらず必要最低限の会話しかなかったが、以前のように刺々しい空気はない。
セリーヌは、部屋に飾らせたロランの小さな肖像画に挨拶をすることが、すっかり日課になっていた。
そんなセリーヌの変化に使用人たちの視線も和らぎ、セリーヌは久しぶりに「平和」という言葉を実感していた。
そんな折、一通の手紙がセリーヌの元へ届いた。
封蝋に刻まれた紋章をみた瞬間、彼女の表情が凍りつく。
それは、フォークナー公爵家の印章だった。
震える手で封を開けると、中にあったのは、公爵であるトムからの短い手紙だった。
『誰が何と言おうと、父はお前を信じている。だが、心ない噂で愛娘が傷ついているだろうと思うと、胸が痛む。気分転換に、一度帰ってきてはどうか』
誰に読まれても問題がないように、字面は優しげだった。
けれど、セリーヌには分かっていた。“帰れ”というその言葉の、本当の意味を。
(行けば、間違いなく叱責される。けれど——)
逡巡した末、セリーヌは帰省を決意した。
ロランの許可を取りに行くと、彼はわずかに眉をひそめただけだった。
「好きにしろ。ただし、長居はするな」
その一言にセリーヌは安堵しつつも、同時に、本当に欲しかった言葉を得られなかったことにほんの少しだけ落胆もしてしまった。
セリーヌが公爵邸に到着したのは、冷たい雨の降る昼下がりだった。
玄関ホールの重厚なカーペットが靴音を吸い、息苦しいほどの静寂が支配している。
(また、この地獄に帰ってきてしまった……)
セリーヌの足取りは重く、口を開くのすら億劫になる。いっそこのまま気を失ってしまえたらとすら思う。
「……ただいま戻りました」
声を発した瞬間、階上から荒々しい足音が響いた。
「よくも戻れたな、この恥晒しがっ!」
怒鳴り声とともに、トムが現れた。
頬は紅潮し、手には杖を握っている。その手の甲に浮かぶ血管を見た瞬間、セリーヌの意識が遠のいていく。
次の瞬間には、乱暴に髪を掴まれていた。
頭皮が引きつる感覚。けれど、痛みはどこか別の場所にあるようだった。
自分が床を引きずられていく光景を、まるで他人のもののように眺めている。
(ああ……また、ここへ)
“躾部屋”。
地下にあるそこは暗く、いつも湿った空気が漂っている。
壁には相変わらず鞭と鎖、そして場違いなほど美しいドレスが並んでいた。
蠟燭の炎が揺れるたび、幼い自分が膝を抱えて震えている幻が見えた。
「公爵家の名を汚し、挙句に王族と不義を働くとは! 我が家の恥だ!」
「誤解です。殿下とは——」
「口答えをするなっ」
高く振り上げられた杖が、鋭く空気を裂く。
セリーヌは抵抗せず、ただ頭を守るように小さく体を丸めた。
背中に走った激しい衝撃とともに視界が歪み、音が遠のいていく。
怒号も、荒い息遣いも、やがて霧の向こうに消えていった。
トムの怒号が途絶えたのは、何度目の殴打のあとだったか。
息を荒くしながら、トムは手にしていた杖を無造作に床に放り投げた。
乾いた音が室内に響く。
「……これで分かっただろう。二度と愚かな真似はするな。色仕掛けでもなんでもして、大公の心を掴め。お前の存在意義はそれだけだ」
セリーヌは項垂れたまま、小さく頷いた。
痛みも、恐怖も、すべてが他人事のようだった。
まるで遠くの舞台を眺めているような感覚。
トムはもうセリーヌに視線を向けなかった。
まるで興味を失ったかのように、あっさりと彼女に背を向ける。
「早くそのみすぼらしい姿を整えろ。命が惜しければ、余計な真似はするなよ」
扉が閉まり、高圧的な足音が遠ざかっていく。
室内に残されたのは、カビ臭い空気と、微かに感じる血の匂いだけだった。
セリーヌはしばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐き、結い上げていた髪を解いた。
(また、昔みたいに戻ってしまった……でも、大丈夫。私には閣下との契約があるんだから)
セリーヌは下ろした髪はそのままに、汚れてしまったドレスを脱ぐと、壁にかけられていた新しいドレスに手を伸ばす。
そのとき——。
きぃ、と軋む音と共に、扉が開いた。
「よお、クロエ。懐かしい光景だな」
弾んだような軽い声。
振り向くまでもなく、誰かは分かった。
兄のレオンだ。
「まさか、結婚後もここで“躾”されるとはな」
小馬鹿にしたように笑いながら、レオンはドレスを胸に抱いて背を向けたままのセリーヌに近づく。
その足取りは軽く、まるで見世物でも眺めにきたようだった。
「お兄様……」
「でも成長したなぁ。昔はお前、もっと声をあげて泣いてたろ? ごめんなさいって、何度も繰り返してさ。……今じゃ随分静かになっちまったな」
優しげな笑み。けれど、眼差しの奥に潜む愉悦は隠しようもなかった。
レオンはセリーヌの背中を隠す髪を払うと、シュミーズに指をかけ、布に隠された彼女の背中を覗き込む。
「変わらないのは、この“焼印”くらいか?」
「っ……いい加減にして!」
肩甲骨のあたりに痛々しく残る焼印——その跡を無遠慮に撫でられ、セリーヌは反射的にレオンの手を振り払った。
怒りに燃える瞳で睨みつけながら、声を張りあげる
「今の私は大公夫人よ。私への侮辱は、大公家への侮辱になるわ」
レオンは一瞬だけ目を細め、次の瞬間には笑いだした。
乱暴にセリーヌの髪を掴み、鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて吐き捨てる。
「違うだろ? お前はクロエ・フォークナーを演じてるだけのただの奴隷で、公爵家の所有物でしかないんだよ」
その言葉が、セリーヌの心を深く突き刺した。
セリーヌは思わず顔を歪める。その表情を見て、レオンは恍惚とした笑みを浮かべた。
「安心しろよ。父上の跡を継いだら、俺がちゃんとお前を手元に置いて、可愛がってやるから」
「……っ!」
このままではまたあの地獄に連れ戻される。それどころか、この嗜虐趣味の男によって、さらなる絶望に突き落とされるかもしれない。
恐怖がセリーヌの血の気を奪い、呼吸が浅くなる。
レオンは満足げにセリーヌの表情を眺めてから、ゆっくりと手を離した。
「じゃあな。せいぜい、束の間の自由を楽しめよ」
扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
その瞬間、セリーヌの身体から力が抜けた。
気づけば、両手が震えている。
けれど、涙は出なかった。
痛みも、怒りも、遠くに置き去りにされたまま。
ただ、胸の奥のどこかで——
何かが小さく軋んで、ひび割れた音だけが残った。




