06
帝都では今宵も煌びやかな舞踏会が開かれていた。
だが、今その場を賑わせているのは音楽でも宝石でもなく、噂話だった。
——クロエ・フォークナーは大公夫人としての務めを果たしていないらしいわ。
——舞踏会にも同伴してもらえないなんて、よほど嫌われているのね。
——聞いた? 不仲の原因は、エリック殿下との不倫ですって。
囁きは風よりも早く、香水よりも長く残る。
貴族たちにとって噂は社交の潤滑油であり、真偽のほどはどうでも良かった。
最新のゴシップを囁くことこそが、退屈な日々を彩る娯楽なのだ。
そしてその噂はやがて、大公邸にも届いた。
優雅に朝の読書を楽しみながら、庭園を見下ろすバルコニーで紅茶を飲んでいると、セリーヌはふと使用人たちの視線に気づいた。
しかし、ほんの一瞬目が合うと、すぐに逸らされる。
それが何度か続くうちに、胸の奥に重いものが落ちていく。
(……また、何かあったのね)
元々何かと目立ってしまうこともあり、好奇の目で見られることには慣れていた。
“父親に溺愛されて育った、贅沢好きで我儘な公爵令嬢”——それが人々の抱く、クロエ・フォークナーの印象だ。
誰も、本当の彼女の姿など知る由もない。
大公家の使用人たちから腫れ物扱いされ、怯えた視線を向けられることはあったが、今日の視線には何かを探るような色があった。
心当たりはないが、何かまた面白おかしくスキャンダルがでっちあげられたのだろう。
使用人たちに話しかけるべきか迷っていたちょうどそのとき、ミシェルが入室してきた。
彼女の手にあるのは、皿に盛られた焼き菓子と、新しい紅茶だ。
ミシェルは紅茶を新しいものと取り替えながら、言いにくそうに切り出した。
「クロエ様、あの……お耳に入れておくべきか迷ったのですが」
「何かあったの?」
「帝都の社交界で、少々……妙な噂が流れているようです。クロエ様が……エリック殿下と、親しくされているのではないかと」
ミシェルの言葉に、ティーカップを持つセリーヌの手がわずかに震えた。
だが、紅茶が溢れることはなく、カップは静かに受け皿に戻された。
「……そう。言いにくかったろうに、教えてくれてありがとうね」
セリーヌの脳裏に、数日前のラリサとの茶会の光景が蘇る。
エリックはただの同伴者だったが、途中でラリサが中座したため、二人きりで過ごす時間ができてしまった。
誰かがそれを見て、二人の仲を誤解したのだろう。
(……軽率だったわ。異性と“二人きり”を許すなんて……)
ミシェルは考え込む様子のセリーヌの顔を、心配そうに覗き込んだ。
「私は信じております。クロエ様がそんな方ではないことを」
「ありがとう、ミシェル。あなたがそう言ってくれるだけで十分よ」
セリーヌはミシェルに微笑みかけると、そっと立ち上がった。
「閣下には、私が直接ご報告するわ」
重厚な扉をノックすると、低い声が返ってきた。
「入れ」
「……失礼します」
執務室の中は相変わらず静まり返り、陽光が机の上に積まれた書類を淡く照らしている。
ロランはいつも通り背筋を伸ばし、冷ややかな表情で書類をめくっていた。
「どうした」
「お仕事中に申し訳ございません。帝都で流れている噂について、お伝えしに参りました」
セリーヌは意識してゆっくりと息をすると、丁寧に話を始めた。
「先日のラリサ殿下との茶会で、同伴者がエリック殿下だったのですが……途中でラリサ殿下が席を外され、少しの間だけエリック殿下と二人きりになってしまったところを、どなたかに見られたようです。……おそらく、それが原因で、不義の噂が立ってしまいました」
静寂が降りる。
ロランは表情を動かさず、書類を机の上に置いた。相変わらず視線をセリーヌに向けることはない。
セリーヌはその反応に怯むことなく、続けた。
「誤解を招く行動をとってしまい、申し訳ございませんでした。大公家の名誉を汚すようなことをしてしまいました」
セリーヌの声は少しだけ震えていたが、決して自己弁護はしなかった。
言い訳をしたところで、起きてしまったことは変えられない。ならば大人しく叱責を受けるだけ。
——それは、長くはない人生の中で、嫌というほど実感した学びの一つだ。
しばしの沈黙の後、ロランはようやく顔を上げた。
「くだらない」
「……え?」
「噂など放っておけ。すぐに飽きられる。間にうける価値もない」
あまりにも冷静で、淡々とした声だった。
叱責も、怒りも、失望の色もない。ただ、関心の薄い人間がとる態度のように見える。
彼の言葉は優しさではなく、無関心の延長線上にあるようだ。
「しかし、大公家の——」
「その名に傷がつくとすれば、大公である私が自ら正す。それだけのことだ」
短く、キッパリとした言葉。彼の眼差しには揺らぎがない。
セリーヌはそれ以上言うべき言葉が見つからず、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
胸の奥が、静かに痛む。
叱責されなかったことに安堵する自分も、確かにいる。
けれど同時に、彼がまるで興味を持っていないという事実を突きつけられたようで、少しだけ——寂しかった。
執務室を後にしたセリーヌは、扉を閉めた途端に小さくため息をついた。
エリックとの噂のことは、もうどうにもならない。
けれど、以前耳にした“大公夫人としての務めを果たしていない”という批判だけは、確かに彼女の責任だった。
(大公夫人としての務めを強要しないという契約を理由に、好きに振る舞っていたけど……少し、考えを改めるべきかもしれない)
遠くない未来に離婚する自分が、大公家の財政や人事に口を出すべきではない。
しかし、だからといって何もしないでいるのも違うのではないか。
(まずは……この領地のことを、知ることから始めよう)
セリーヌは静かに決意すると、真っ直ぐに前を見つめて歩き始めた。
翌日、いつも通りセリーヌは書庫にいた。
しかし、その手にしているものは、小説ではない。
古びた地図を広げ、領地の境界線や税収の記録、気候や作物についての資料を読み漁っていたのだ。
理解できない部分はミシェルや執事に尋ね、領地民の暮らしについても少しずつ学んでいった。
「奥様、そんなことまで……?」
「ええ、いつか役に立つかもしれないでしょう?」
穏やかに笑うセリーヌを、使用人たちは不思議そうに見つめた。
だが、少しずつ彼らの態度が変わっていく。
腫れ物を見るような視線が、わずかに柔らかくなった。
彼女が自分達の領地について学ぼうとしている姿勢が、自然と空気を変えていったのだ。
「奥様は相変わらず書庫に通われております。ただ、ここ数日は小説ではなく、領地の資料を熱心に読まれており……使用人たちに質問する姿も」
「……領地の、資料?」
執務室で執事からの報告を受けていたロランは、一瞬だけ手を止め、視線を上げた。
「何のつもりだ」
「さあ……。ですが、以前より表情が穏やかになられたように見えます。止めますか?」
執事が尋ねると、ロランは一拍置いて、短く息を吐いた。
「いや、好きにさせておけ」
そう言って、再び書類に視線を落とした。
いつも通りの光景に見えたが、その口元は、ほんのわずかに、笑みに似た形に歪んでいた。




