33.覚悟のかたち
「伝えて、おかなければいけないこと……?」
戸惑うセリーヌに、ロランは静かに告げた。
「……君の親について」
その言葉に、セリーヌは息を呑んだ。
ロランはそっと部屋の中へと足を踏み入れると、手にしていた一枚の肖像画を、セリーヌに手渡した。
「これは……?」
セリーヌの手の中の肖像画を、月光が静かに照らす。
そこにいたのは、長い髪を肩に垂らした一人の女性だった。
優しく微笑むグリーンの瞳は、まるで自分に微笑みかけているのではないかと錯覚させる。
「君がいた孤児院の近くで働いていた娼婦だ。君が生まれた年に、亡くなったらしい」
肖像画を持つセリーヌの手が、わずかに震えた。
「……この人が」
「ああ。おそらく、君の母親だ」
セリーヌは、肖像画を見つめたまま言葉を失った。
自分と同じ顔。同じ微笑み方。同じ色の瞳。
「……私は、母似だったんですね」
小さな声で呟くと、涙が一粒、頬を伝った。
それでも、その唇には笑みが浮かんでいた。
セリーヌは愛おしげに母の頬を撫でると、肖像画を抱きしめた。
「見つけてくださって……ありがとうございます」
そのどこか幼子のように無防備な笑顔に、ロランの胸が締め付けられた。
だが——まだ、伝えなければならないことがある。
「……この話には、まだ続きがあるんだ」
ロランの言葉に、セリーヌは顔を上げた。
「続き……?」
「ああ」
ロランは深く息を吸うと、静かに語り始めた。
「隣国ルヴァニア王国には、古い貴族の一門がある。クロエの母親の実家である伯爵家も、その分家だ。そして、本流は——モンフォール公爵家だ」
「公爵……家」
セリーヌが小さく繰り返す。
ロランは頷くと、続けた。
「彼らは排他的なことで知られているが、その公爵家の嫡男が、君が生まれる1年ほど前まで、帝国の寄宿学校に留学していた記録が残っている」
「まさか……」
セリーヌは、どこか信じられないといった表情を浮かべた。
「ああ」
ロランは、真っ直ぐにセリーヌを見つめた。
「彼は留学中、想い人に会うために……君の母が働く娼館に、密かに通っていたらしい」
セリーヌは、ロランの言葉に顔をこわばらせた。
それ以上聞けば、自分が自分でなくなってしまうような気がしたのだ。
そんなセリーヌの顔を苦しげに見つめていたロランだったが、ついに重い口を開いた。
「君の父親は、公爵家嫡男——ヴィクトール・ド・モンフォールで、間違いないだろう」
「っ……」
セリーヌはとっさに口元に手をやり、声を抑えた。
これまでセリーヌは、自分の両親について何ひとつ知らずに生きてきた。
自分はどこからきたのか。誰の子なのか。
——そして、望まれて生まれてきたのかどうか。
幼い頃は、孤児院の薄汚れた天井を見上げながら、何度も想像した。
想像の中で、優しい母に抱きしめられることもあれば、顔が見えぬ父に拒まれることもあった。
だが、たった今、現実として“答え”を与えられ、胸の奥で長くこびりついていた何かが、音を立てて崩れ落ちていく。
嬉しいのか、悲しいのか。
救われたのか、傷ついたのか。
心に渦巻く感情を、うまく処理することができなかった。
「……では、なぜ……母は、一人で……」
言葉は、最後まで形にならなかった。
ロランはセリーヌの肩に触れ、落ち着かせるように言った。
「彼は、君の母親を捨てたわけではない。家の事情で、留学半ばで強制的に帰国させられたらしい。……二人の関係が露見したのだろう」
セリーヌが、恐る恐るロランを見上げる。
「彼はそれから十年近く経ってから爵位を継ぎ、一度だけ帝国を訪れた記録がある」
ロランの声が、ほんのわずかに掠れる。
「恐らく……君の母を探しに来たのだろう。だが、その時にはもう……」
「……母は、亡くなっていた」
セリーヌが、小さく呟いた。
「ああ。その後、程なくして弟に爵位を譲り……今も独身を貫いたまま、隠居しているそうだ」
「……独身を」
セリーヌの瞳が、所在なさげに揺れる。
ロランは、そんなセリーヌに静かに問うた。
「……会いたいか?」
すぐに返事をすることはできなかった。
暖炉の薪が燃える音だけが、周囲に響く。
「……分かりません」
かすれた声だった。
「父は母を愛していたのかもしれない。でも、今更私のような娘が現れても……」
「……そんなことはない」
ロランの声が、力強く響いた。
「君の存在を知れば、きっと彼も喜ぶだろう」
セリーヌが、驚いたように顔を上げる。
「もし君が望むなら、相手方と連絡を取り、向こうへ行ける手筈を整える」
ロランの唇に浮かんだのは、寂しげに歪んだ笑みだった。
その笑みを見て、セリーヌはすべてを理解した。
昼間、エリックがルヴァニアへの同行を勧めた時、ロランが「選択肢の一つとして、考えておいてもいい」と言った理由。
(……貴方は、決めたのね)
愛する人を、手放す覚悟を。
あれほどまでに激情をぶつけ、嫉妬にとらわれていたロランが。
今は、セリーヌの幸せを優先しようとしている。
セリーヌは、顔を隠すように俯いた。
もし、父親が自分を受け入れてくれたのなら。
本当の家族のもとで、本当の自分として、親に守られて生きられるのなら。
それは、きっと幸福と呼べるのだろう。
「……セリーヌ?」
ロランが、心配そうに名を呼ぶ。
だが、セリーヌは顔を上げなかった。
そして、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……私がここにきた初日に結んだ、結婚に関する契約書を持ってきていただけますか」
か細い声だった。
「契約書? ……分かった」
ロランの心が、嫌な音を立てて軋んだ。
(……破棄、するのか)
この結婚に関する契約を終わらせ、父親の元へ行くのだと。
そう理解したロランは、震える足で執務室へ向かった。
契約書を手に戻ってきたロランの顔は、青ざめていた。
「……これを」
震える手で、セリーヌに差し出す。
セリーヌは黙ってそれを受け取った。
ロランの心に、悲しみと安堵が、同時に激しく押し寄せる。
彼女は、安全な場所へ行く。本当の家族の元へ行く。
それは、彼女にとって最善の選択だ。
だが——
(これで、もう……会えなくなる)
その事実が、胸を締め付ける。
セリーヌは受け取った契約書をじっと見つめた。
これを破棄すれば、もう今のままではいられない。
——それでも。
セリーヌはそれを、暖炉に投げ入れた。
紙が音を立てて燃え始める。
文字が歪み、やがて灰になっていく。
ロランは、その光景に二人の関係の終わりを重ねて、ただ呆然と見つめていた。
(……これで、終わりだ)
彼女の笑顔も、涙も、すべてが思い出になる。
もう二度と、この髪に触れることも、その声を聞くこともできなくなるのだ。
迫り来る別離が、身体を引き裂かれるような痛みをロランにもたらす。
消えゆく契約書を最後まで見ることができず、ロランは暖炉から視線を逸らした。
すると、それまで無言だったセリーヌが、ついに沈黙を破った。
「このままそばにいれば、貴方を私の危うい立場に巻き込んでしまうことは、理解しています」
セリーヌの声は、震えていた。
しかし、涙で濡れた瞳は、真っ直ぐにロランを見つめている。
「それでも、私は……ヴィクトール・ド・モンフォールの娘としてではなく、貴方の妻として生きていきたい」
セリーヌの思いがけない言葉に、ロランの瞳が見開かれた
「——ロラン、貴方を愛しているから」
世界が、音を失った。
数秒。しかし、体感では永遠にも感じられる時間。
ロランは、呼吸すら忘れて呆然としていた。
そして——
セリーヌの言葉を理解した瞬間。
「……っ!」
ロランはセリーヌを強く、強く抱きしめた。
それは息もできないほどの力だったが、セリーヌにとってそれは不思議と心地良かった。
「愛してる、セリーヌ」
震える声で、何度も繰り返す。
「愛してる……もう絶対に、離さない」
そう告げると、ロランは縋るようにセリーヌの唇を奪った。
セリーヌも、ロランの背中に腕を回し、それに応える。
涙が、止まらなかった。
炎が最後の紙片を飲み込み、灰が舞う。
これで、二人を縛っていたものは消えた。
そこに、最後に残ったのは——
ここまで見届けてくださって、本当にありがとうございます。
二人の物語は、あと一つ山場を残すのみです。
最後まで、見守っていただけると嬉しいです。
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