32.それぞれの思惑
レオンに案内され、地下へと続く階段を降りるラリサの肌を、冷たい空気が撫でる。
たどり着いた先にあったのは、躾部屋——かつてセリーヌが、執拗なまでの暴力に晒されていた場所だ。
ロランによる告発を恐れたトムによって、鞭や鎖といった躾に使われていた道具はすべて処分されている。
しかし、その場に染みついた湿った空気と、石壁に残る古い染みが、かつてここで何が行われていたかを物語っていた。
レオンはどこか興奮した様子で部屋に入ると、部屋の隅にある、何かを覆うようにかけられた布を取り払った。
「こちらでございます」
そこにあったのは、数枚の肖像画だった。
どれも、生まれたばかりの赤子を抱いた、女性の姿が描かれている。
その一枚を手にとると、ラリサは目を細めた。
「これらはすべて、本物のクロエを抱いた母の絵です」
母親は、隣国の古い貴族家特有のアッシュグレーの髪を肩におろし、グレーの瞳を柔らかく細めている。
そして、その腕に抱かれた赤子もまた——母親とまったく同じ色彩だった。
ラリサは無言で、すべての肖像画を確認していく。
どの絵も、母子は瓜二つ。
髪も、瞳も、同じ色をしている。
(……グレー)
ラリサの脳裏に、セリーヌの顔が浮かぶ。
アッシュブロンドの髪は、確かに母親譲りと言える。
だが、瞳の色はあの娼婦と同じ——グリーンだ。
「瞳の色は、成長とともに多少変化することもございます」
レオンが、わざとらしく前置きをした。
「ですが……グレーの瞳が、これほどはっきりとグリーンへ変わる例は、聞いたことがございません」
その言葉に、ラリサの唇が歪む。
そう、これこそが決定的な証拠だ。
公爵家の血筋は燃えるような赤髪にブラウンの瞳、母親の一族はアッシュグレーの髪にグレーの瞳。
セリーヌのグリーンは、どちらの血筋も感じさせない、異質な色。
——だが、それ以上に。
赤子の頃にグレーだった瞳が、成長してグリーンになるなど、あり得るだろうか?
「……ふふ」
それは、ほんの小さな笑い声だった。
しかし、次の瞬間——
「あはははははっ!!」
ラリサは肖像画を抱きしめ、高笑いをあげた。
その瞳には、狂気じみた歓喜が宿っている。
「見つけたわ……ついに、見つけた!」
勝利を確信したラリサの笑い声が、部屋中に木霊する。
その様子を、レオンは満足げに見つめていた。
「殿下」
レオンが一歩前に出ると、慇懃に頭を下げた。
「この肖像画を殿下にお譲りする代わりに、一つだけお願いがございます」
ラリサはすっと笑いを収めると、扇子で口元を隠しながら問う。
「……何かしら」
「あの女の正体を表沙汰にしないよう、ご配慮いただきたいのです。大公殿下と離婚させた後は、公爵家で身柄を引き取りたく存じます」
その言葉に、ラリサは一瞬だけ眉をひそめた。
(なぜあんな奴隷ごとき、わざわざ返却させる必要が?)
疑問は浮かんだが、どうでもいい。
どうせ守る気のない約束だ
ラリサは優雅に微笑むと、頷いてみせる。
「ええ、もちろんよ。約束するわ」
女神の微笑みの裏に、綺麗に本音を隠す。
それは、ラリサの特技だった。
あの女が公爵家にのこのこと舞い戻り、この世に存在し続けるだなんて虫唾が走る。
自分からロランを奪った罰は、死罪以外あり得ない。
しかし、ロランに直接真実を告げても、また慎重な対応をされる可能性が高いだろう。
それならば——
(衆人環視のもと、真実を白日の下に晒すのよ)
ラリサの瞳が、静かに光った。
皇太子の結婚式。帝国中の貴族が集まるあの場所こそ、最高の舞台だ。
一方、レオンは内心で愉悦に震えていた。
(これで、セリーヌが俺の元に帰ってくる)
かつて、この部屋で無様にうずくまり、暴力に耐えるしかなかったセリーヌの姿が、鮮明に脳裏に蘇る。
そして、あの夜——怯えながらも必死に抵抗し、血走った瞳で睨みつけてきた彼女が見せた、追い詰められた獣のような、あの表情。
あの拳で殴られた頬の痛みすら、甘美な記憶として刻まれている。
(ああ……また、あの顔が見られる……!)
レオンの背筋を、甘い戦慄が走った。
絶望に打ちひしがれ、それでも抗おうとするセリーヌ。
助けを求めても、誰も手を差し伸べてはくれない現実を突きつけた時、彼女は一体どんな表情をするのだろうか。
——もう二度と、逃がさない。
レオンの笑みが、暗闇の中で深く歪んだ。
◇◇◇
大公邸の応接室にて。
話し合いを終えた後も、エリックはその場に残っていた。
セリーヌとロランが並んで座る姿を、複雑な表情で見つめている。
明らかに縮まった二人の距離。
触れ合いはしないものの、その空気は確かに「夫婦」のものだった。
少しの沈黙の後、エリックは静かに口を開いた。
「セリーヌ」
「はい……?」
「俺がこの前、君に言った言葉を覚えているか?」
エリックの声には、どこか真剣な響きがあった。
「あれは、本気だ」
その瞬間、セリーヌの胸がどきりと跳ねた。
——ルヴァニア王国へ、共に来ないかという誘い。
冗談めかしたあの言葉が、今更セリーヌの心を乱す。
「殿下……」
「無理強いをするつもりはない。あくまで君の意思で来てほしいと思っている」
エリックの瞳は、真っ直ぐにセリーヌを見つめている。
その視線に、セリーヌは言葉を失った。
「……おい、なんの話だ」
それまで静観していたロランだったが、耐えられずに低い声を出す。
エリックは肩をすくめると、ロランに向き直った。
「セリーヌに、ルヴァニアへの留学についてこないかと誘ったんだ」
「何……?」
「ロラン、俺は本気だ」
エリックの宣戦布告とも取れるその言葉に、ロランの瞳が鋭く細められた。
だが、次の瞬間——
「……セリーヌ」
ロランはセリーヌに視線を向けると、静かに告げた。
「こいつと共に行く必要はないが、ルヴァニア行きというのは……選択肢の一つとして、考えておいてもいいかもしれない」
その言葉に、セリーヌは目を見開いた。
「ロラン様……?」
「あの女も、流石に他国にいればそう簡単に手出しができなくなる。下手に帝国にとどまっているよりも、安全かもしれない」
ロランの声は、静かだった。
だが、その奥には——押し殺した感情が潜んでいる。
(……できることなら、一生俺のそばにいてほしい)
ロランの胸の奥で、そう本心が叫ぶ。
初めてだった。こんなにも誰かを愛したのは。
離したくない。失いたくない。
だが——
(彼女にとっての最善を、俺の感情で奪うことはできない)
ロランは奥歯を噛み締め、その感情を押し殺した。
セリーヌには、まだ伏せている事実がある。
彼女の父親が、ルヴァニアにいるという事実。
もし彼女が本当の家族を求めるのなら——それを、止める権利は自分にはない。
エリックは、そんなロランの表情を見て、静かに息を吐いた。
(……やはり、敵わないな)
◇◇◇
その日の夜。
セリーヌは寝室で、一人窓辺に立っていた。
月明かりが、彼女の髪を淡く照らしている。
(……どうすれば、いいのだろう)
胸の奥が、ひどく重たい。
もう今更、契約結婚だなどという建前に何の意味もないことは理解していた。
ロランはセリーヌの安全のために、一時は激しくぶつけてきた感情すら抑えてみせた。
それだけ深い愛をくれるロラン。
彼はきっと、全ての問題が片付いた後も、共にいたいと願ってくれるだろう。
だからこそ——恐ろしかった。
自分の身分は、違法に売買された奴隷。
公女を演じている、偽物。
表向きには、存在しない人間だ。
もし自分の素性が暴かれたら——ロランは、大公としての立場を危うくしてまで、自分を守ろうとするだろう。
愛する人を、自分のいる地獄に堕としてしまうかもしれない。
その恐怖を飲み込めない限り、彼の愛を受け取ることはできないのだ。
いっそ、全ての思考を放棄して、何も考えずに彼の腕の中に飛び込むことができたのなら……どれほど楽だろう。
そう思ってしまう自分を、必死に押し殺した。
「……っ」
溢れ出そうになる声を抑え、セリーヌは両手で顔を覆った。
涙は出ない。
ただ、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
◇◇◇
どれほどの時間が経っただろうか。
懊悩するセリーヌの耳に、控えめなノックの音が響いた。
「……?」
こんな夜更けに、誰だろうか。
戸惑いながら扉に近づくと、その向こうから声が聞こえた。
「セリーヌ……入ってもいいか」
それは、低く、どこか寂しさを滲ませた、ロランの声だった。
「ロラン様?」
驚いたセリーヌが慌てて扉を開けると、そこには月明かりを背に立つロランの姿があった。
その瞳には、固い決意が宿っている。
「……君に、伝えておかなければいけないことがある」




