03
ピンと張り詰めた空気が、玄関ホールに満ちている。
セリーヌは状況の理解が追いつかず、ロランが出ていった扉を唖然とした表情で見つめていた。
その場に居合わせた使用人たちは、そんなセリーヌの姿を遠巻きに眺めながら、まるで裁きを待つ罪人のように体をこわばらせている。
父親に溺愛され、欲しいものはすべて与えられて育った彼女が、夫であるロランにあからさまに冷遇されたのだ。誰もが彼女を爆発寸前の状態だと考えていた。
だが、セリーヌの唇からこぼれたのは怒号ではなく、穏やかで、優しい声だった。
「……せっかく準備してもらったのに。ごめんなさいね、ミシェル」
罵声を浴びせられるという使用人たちの予想を裏切り、セリーヌの口から出てきたのはミシェルに対する労りと謝罪の言葉だった。
高位貴族が、使用人に対して謝罪をする。その異様さに、一瞬、時が止まった。そして次の瞬間、使用人たちは一様に困惑した表情を浮かべた。
セリーヌは戸惑う使用人たちを見渡し、小さく微笑む。
すると、ようやく我に帰ったミシェルが慌てて一歩前に出た。
「そ、そんなっ……奥様が謝ることなど一つもございません! むしろ私の手際が悪かったせいで——」
「あなたはよくやってくれたわ。こんなに綺麗にしてもらって、このまま屋敷にいるのがもったいないくらい」
柔らかい声に、ミシェルははっと顔を上げた。
「でしたら……街にお出かけになってはいかがですか? 花祭りの準備が始まっておりますし、きっと気分転換になります」
「街に……?」
閉ざされた屋敷という名の檻の中で生きてきたセリーヌにとって、それは思いもよらない提案だった。
少しの間考えたあと、彼女は意を決して小さく頷く。
「そうね。せっかくだから、行ってみましょう」
その言葉に、ミシェルの顔がぱっと明るくなった。
「承知しました! すぐに馬車の用意をいたします!」
陽の光に包まれた街並みは、セリーヌがこれまで見てきたどんな風景とも違っていた。
色とりどりの花で彩られた建物、露店に並べられた瑞々しい果物、甘い香りをあたりに漂わせる焼き菓子、花冠をつけてはしゃぎ回る子どもたち。
まだ祭りの準備期間だとは思えぬほどに活気に満ちたその一つ一つに、セリーは目を輝かせると、まるで幼い少女のように声を弾ませた。
「ミシェル、見て! あの花冠、とっても可愛いわ!」
セリーヌの視線の先には、花屋の露店がある。そこには切り花とともに、色とりどりの花冠が置かれていた。この街の花祭りでは、子どもたちは花冠を、成人女性は花飾りをつける風習があるからだ。
「えっ、その……花冠は子ども向けでして……」
「そうなの?」
ミシェルの言葉に、セリーヌはしゅんと肩を落とした。
どこか悲しげに花冠を見つめるセリーヌに、ミシェルは思わず声を上げた。
「で、でもこの百合の花冠なら、大人がつけていてもおかしくないですね!」
ミシェルが勢いで指差した花冠は、大ぶりの白百合をアクセントに、白い小花と柔らかな葉を重ねて作られていた。とっさに出た言葉ではあったが、清廉な印象を受けるそれはたしかにセリーヌによく似合いそうだと、ミシェルは思った。
「本当? じゃあせっかくだから二ついただこうかしら」
「……えっ!」
浮世離れした雰囲気を持つセリーヌをぼんやりと眺めていた露店の店主は、まさか見るからに高位貴族のお嬢様に直接声をかけられるとは思っていなかったため、露骨に狼狽してしまった。
しかし、セリーヌの屈託のない笑顔に絆され、特別美しいものを2つ選んで笑顔で差し出す。
「はいよ、お嬢さんならよく似合いそうだ」
「ありがとう」
セリーヌは受け取った花冠を一つ自分の頭に乗せると、もう一つをミシェルの頭にそっと乗せた。
「お、奥様!?」
「よく似合っているわ」
その微笑みは、大公夫人が一介の使用人に向けるものとしてはふさわしくないほど優しく、温かい。
使用人と対等に接するセリーヌの振る舞いに、眉をひそめる貴族は多いだろう。しかし、ミシェルはそんなセリーヌの姿に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
溺愛されて育った公爵令嬢——そんな評判の彼女が、たかが庶民の祭り、それも準備期間にここまで喜ぶとは思わなかった。心から外出を楽しんでいるセリーヌを見ているうちに、ミシェルはふと、誰かから聞いた噂を思い出した。
——“クロエ・フォークナー”は体が弱く、幼い頃から療養生活を余儀なくされていた。
きっと、自由に外へ出ることも叶わずに、孤独な時間を過ごしてきたのだろう。もしかしたら、そのせいで我儘公爵令嬢なんてひどい誤解が生じたのかもしれない。
だって、目の前にいる彼女はこんなにも優しく、思いやりがあり、誰に対しても礼を尽くす人なのだから。
屋敷の中では、まだ「皇女様から大公を奪った悪女」と陰口を叩く者も多い。
ならば、これからは自分が1番の味方となって、この人の笑顔を守ろう。
ミシェルは頭に乗せられた花冠にそっと触れると、胸の奥で静かに誓った。
二人が屋敷に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
セリーヌが生まれて初めて体験した祭りの余韻を胸に、屋敷に足を踏み入れた——その瞬間。
肌を刺すような冷気が、空気を一変させた。
そこに立っていたのは、ロランだった。
「……!」
朝と同じ正装のまま、玄関ホールの中心で腕を組み、冷たい眼差しをセリーヌに向けている。
その威圧感に、周囲の使用人たちは一様に凍りつき、息を潜めていた。
「誰の許可を得て外出した?」
低く抑えた声が、石造りの玄関ホールに響く。
ミシェルが青ざめ、慌てて膝をついた。
「も、申し訳ございません旦那様! 私が……私が提案を……!」
セリーヌは静かに手を伸ばすと、震えるミシェルの肩に置いた。
「やめて、ミシェル。あなたのせいじゃないわ」
「クロエ様……」
恐怖から涙をにじませるミシェルを安心させるように微笑むと、セリーヌはまっすぐにロランを見上げた。
「申し訳ございません、閣下。私が軽率でした」
理不尽な怒りをぶつけられても、セリーヌは一切の反論をしなかった。
ただ静かに謝罪を述べる。
しかし、そんなセリーヌの態度にも、ロランの怒りが静まることはなかった。
「また勝手な真似をすれば、大公夫人であろうと罰する。二度と、私の許可なく出歩くな」
冷たい言葉を残し、ロランは背を向けると荒々しい足取りで去っていった。
しばらくして屋敷の奥で扉が閉まる音が聞こえたところで、残された使用人たちはようやく息をつき、互いに顔を見合わせた。
セリーヌはロランの去っていった方向をしばらく無言で見つめていたが、やがて小首をかしげて言った。
「……なぜあそこまで怒るのかしら?」
ただの純粋な疑問が、セリーヌの口からこぼれ落ちた。
そこには、怯えも苛立ちも含まれていない。
花冠を頭につけたままということも相まって、その表情はまるで無垢な少女のように見えた。
そんなセリーヌの姿に、ミシェルは唇を噛みしめる。
(この人の笑顔を守ろうと誓ったばかりなのに、守るどころか、怒りの矢面に立たせてしまった。誰に対しても悪意を持たない、こんなにも優しい人を——)
セリーヌは何かに耐えるように小さく震えるミシェルに視線を落とすと、柔らかな笑みを浮かべた。
そして、膝をついたまま立ち上がれずにいるミシェルの頭を撫でながら言った。
「大丈夫よ。今日は本当にありがとう。……とっても楽しかったわ」
翌朝。
まだどこか緊張感の漂う屋敷内で、セリーヌはいつも以上に明るい笑顔で使用人たちに声をかけていた。
そんな健気な姿に、心の重苦しさが少しずつ和らいでいくのを、皆が感じていた。
だが、その日の午後。
屋敷に思いもよらぬ訪問者が訪れたことで、状況は一変した。
セリーヌが自分の部屋で日課の読書に勤しんでいると、扉の向こうから慌てた様子の使用人の声が聞こえてくる。
不思議に思っていると、使用人の静止を振り切った誰かによって、セリーヌの部屋の扉が無遠慮に開けられた。
「ごきげんよう。少しよろしいかしら?」
そこには、優雅な笑みを浮かべた女性が立っていた。
「こ、皇女殿下……!?」
ミシェルの悲鳴のような声が、静まり返った部屋に響き渡ったことで、午後の穏やかな時間は終わりを告げた。




