28.愛の証明
——セリーヌに、平手打ちをされた。
その衝撃で、ロランは彼女をソファに押し倒した体勢のまま、動けなくなった。
頬に痛みはなく、おそらく赤くもなっていない。
セリーヌが本気で力を入れていたわけではないことは、触れられた瞬間に分かった。
だが——
真正面から向けられたその瞳に、胸を深く抉られた。
怒りに燃えてなお、その顔は美しかった。
その時ロランは初めて、自分が取り返しのつかないことをしたのだと理解した。
「……セリーヌ」
名を呼ぶ声は、情けないほど掠れていた。
セリーヌは自分の上に乗ったまま固まっているロランを押し返すと、ゆっくりと身体を起こした。
「あなたは、私を自分の手元にしまっておける、“物”か何かと勘違いしている」
きっぱりとした声音だった。
「レオンと、同じです」
その名が出た瞬間、ロランの喉がひくりと鳴った。
忘れられるはずもない、その名。
それはあの夜、公爵邸で彼女を力で支配しようとし、歪んだ執着を向けていた男の名だった。
彼女の表情には、確かに怒りが浮かんでいる。
だがそれ以上に、深く傷ついた色を帯びていた。
また彼女を傷つけてしまった——そう悟った途端に、ロランの胸に強烈な後悔が押し寄せた。
「すまない……セリーヌ、俺は……」
苦しげに眉を寄せ、謝罪の言葉を吐いたものの、すぐに言葉が詰まる。
ロランはセリーヌに対する激情を、自分でも上手く飲み込めずにいた。
まるで、足場を失ったような心持ちだった。
瞳を揺らしながら言葉を探すロランを、セリーヌはそっと押し返し、身体を起こした。
そして、ロランの瞳を見つめ返して、慎重に尋ねた。
「ロラン様。あなたは……私のことが好き、なんですよね……?」
ロランにとって、それは頭を殴られたような衝撃だった。
言葉の意味が、すぐには理解できない。
一瞬の思考停止ののち、ロランの胸の奥で渦巻いていた感情が、一つの形となっていく。
守りたい。
失いたくない。
自分だけを見て欲しい。
それは同情でも支配でもない——
「……ああ」
ロランの中にあった激情に、ようやく名前がついた。
まるで憑き物が落ちたかのようにすっきりとした顔で、ロランは微笑んだ。
「俺は、君が好きだ。セリーヌ。……愛している」
あまりにも率直な言葉に、セリーヌは目を見開くと、視線を彷徨わせた。
「そ、そんな……」
セリーヌの頬がみるみる赤く染まっていく。
ロランはそんなセリーヌの頬に手を伸ばしたが、触れる寸前で止めた。
「気づくのが遅すぎた。だが本心だ。君を守りたいと思ったのも、離したくないと感じたのも……すべて、君を愛しているからだ」
セリーヌは唇を噛みしめ、しばらく黙り込んだ。
そして、遠ざかっていくロランの手を見つめながら、ポツリと呟いた。
「……では」
セリーヌは再びロランを見つめ、祈るように言った。
「……証明してください」
「証明?」
「あなたのその気持ちが、レオンと違って、ただの所有欲ではないと」
それは、強い意志を宿した声だった。
「大公である貴方にこんなことを言うなんて、身の程知らずと言われても仕方ありません。……でも、私は貴方と同じ色の血が流れる、一人の人間です」
それはセリーヌにとって、辛い決断だった。
こんなことを言ってしまったら、ロランの気持ちが自分から離れてしまうかもしれない。
彼の愛に甘えて寄りかかり、庇護されるだけの存在になれたら、どれほど楽だろう。
しかし、それはセリーヌにとって、本当の幸せではない。
セリーヌは震える声で、しかし逃げずに言い切った。
「対等に向き合いたい。それが叶わないなら……私は、あなたの愛を受け取ることはできません」
一瞬の沈黙のあと、ロランは力強く頷いた。
「分かった」
その迷いのない一言に、セリーヌは目を瞬かせた。
まさか、こんなにもすんなりと受け入れてもらえるほど愛されているとは思わなかったのだ。
「証明する。必ずだ。君が納得するまで、何度だって証明してみせる」
真剣に自分の願いと向き合うロランの姿に、セリーヌは眉を下げて微笑んだ。
◇◇◇
しかし、同じ頃。
自室でラリサは、机の上に積まれた資料の山を見下ろしていた。
「……これでもない」
セリーヌが孤児院にいたという記録は、存在しなかった。
ロランが徹底的に処分していたからだ。
そのため、孤児院出身というのはあくまで売買の際に伝えられたという公爵の証言のみで、セリーヌが売られるまで過ごしていた正確な地域すら、特定できずにいた。
唯一の手がかりとなりそうなものは、彼女の髪色——帝国ではまず見かけない、アッシュブロンドの髪。
同じ身体的特徴を持つ、隣国の古い貴族家系の存在が、ラリサの脳裏によぎる。
だが、あの一族は極端なまでに排他的だという。
公爵の亡き妻ですら、駆け落ち同然でこの帝国へ嫁いできたほどに。
もしセリーヌが彼らの血を引いているのなら、放置されるはずがない。
「……つまり、あの髪はただの突然変異」
ラリサは唇を歪めた。
「もっと下。もっと、捨てられて当然の階層……」
娼婦。浮浪者。身寄りのない女。
公爵から聞き出した推定年齢をもとに、セリーヌが生まれたと思われる時期を中心に調査させた。
公爵領内の孤児院周辺。
出産した娼婦がいた娼館。
死亡台帳。
執念とも言える追跡の末、ついに、ラリサは一人の女性に辿り着いた。
それは、公爵領内、かつて孤児院があったとされる場所の近くの娼館に関する、小さなニュースだった。
——人気のあった娼婦が、産後まもなく死亡。
「……見つけたわ」
探させたその娼婦の肖像画を使用人から受け取ると、そこに描かれていた女の顔は——
「そっくり……」
輪郭も、目元も、微笑み方ですら。
違うのは、髪の色だけだった。
ラリサの唇が、醜く歪む。
「なるほど。だからあんな女が生まれたのね」
奴隷であることは証明できなかったが、十分だ。
そもそも、帝国内で奴隷商売が行われていたことを公にしてしまえば、国際的な批難は免れない。
そうなってしまえば、皇帝である父は全力で揉み消そうとするだろう。
だが、あの女が卑しい娼婦の血を引いているという話なら、別だ。
娼館が違法でない以上、誰に咎められることもなく、あの女を公然と引き摺り落とすことができる。
「ふふ……やっぱり私は女神様に愛されているのね」
すべてが上手くいっている。
父に邪魔されることなく、あの女の醜い正体を暴き出し、ロランを救い出す。
ラリサは恍惚としたため息をつくと、愉悦に目を細めた。
「見ていなさいよ、奴隷女」
低く、甘い声で囁く。
「あんたがいかに穢れた存在なのか——彼に、全部教えてあげるわ」




