23.それぞれの“女神様”
柔らかな午後の日差しが、応接室の窓から差し込んでいた。
上質な紅茶の香りが、部屋の中を優しく漂っている。
「……本当に、久しぶりね。ステラ」
セリーヌがその名を噛み締めるように言うと、向かいに座るステラが、少し照れくさそうに笑った。
「うん。まさか、こんなすごい場所で会えるなんて思ってなかった」
ステラは、窓を飾る重厚なカーテンや、壁に飾られた見事な絵画に忙しく視線を向けると、小さく息を吐いた。
「大公邸の中って、まるで王様のお城みたいね」
「そうよね……慣れるまで、私も落ち着かなかったわ」
そう答えながら、セリーヌは紅茶のカップをそっと持ち上げると、ゆっくりと口に運んだ。
その一連の動作は、かつての過酷な日々を微塵も感じさせないほど優雅で、まるで生まれながらの貴族のように自然だった。
孤児院で一つの粗末な毛布を分け合い、寄り添って眠っていた夜から、もう何年も経っているのだ。
内心でほんのわずかに湧き上がった寂しさを苦笑で消すと、ステラは空白の時間を埋めるように話し始めた。
「私ね、十二歳で孤児院を出ることになった後、住み込みで酒場の下働きをしてたの。朝から晩まで働いて、失敗すれば怒鳴られて……でも、寝る場所と食事があるだけ、孤児院よりはましだったかな」
「……そうだったの」
自分の知らぬ場所で、ステラもまた泥水をすすって生きていたのだ。
セリーヌの胸が、きゅっと締めつけられた。
「それでも少しずつお金を貯めて、ようやく部屋を借りられるくらいになってね。その時、真っ先に思い浮かんだのがセリーヌだった」
ステラは、かつてと変わらぬ温かな笑みを浮かべてセリーヌを見つめた。
「迎えに行こうって決めてたの」
その言葉に、セリーヌの視界が歪んだ。
「まさか、“あの”公爵令嬢がセリーヌだったとは思わなかったけど……」
ステラは、改めてセリーヌを見つめた。
銀糸のような髪が光に透け、背筋の伸びた美しい姿勢には、気品が溢れている。
かつての煤にまみれていた面影は、確かに残っているのに。
ステラは自分の荒れた指先を隠すように、紅茶のカップを両手で包み込んだ。
「……ねえ、セリーヌ。あなた、昔、私のことを“女神様みたい”って言ってくれたでしょう」
「ええ。いつも優しく微笑んでいて、泣いている子がいたら必ず抱きしめて……私にとってステラは、本当に女神様だったわ」
あの頃と変わらない、キラキラと輝く瞳で自分を見つめるセリーヌに、ステラは小さく笑った。
けれど、その笑みにはどこか自嘲が混じっていた。
「……本当はね、全然そんなことなかったんだよ」
「え……?」
「あの頃は私も子どもだったし、ずっと怖かった」
ぽつり、と落とすような声。
まるで罪を告白するかのように、ステラは神妙な面持ちで言葉をつむいだ。
「売られるかもしれないって噂を聞くたびに、次は自分かもしれないって眠れなくて。夜になると、布団の中で震えてた。……本当は、誰よりも弱虫だったのよ」
セリーヌは言葉を失った。
自分を包み込んでくれていたあの温かな腕が、実は恐怖で震えていただなんて。
「でも……セリーヌがいてくれたから」
「……私?」
「うん。いつも私の後ろをついて回って、私が笑うと嬉しそうに笑ってくれて。“女神様のステラがいれば大丈夫”って、本気で信じてる顔で見上げられるとね……」
ステラは慈しむように目を細めた。
その瞳には、今度こそ本物の“女神”のような穏やかさが宿っている。
「逃げたくても、泣きたくても……この子の前では強くいようって思えた。……セリーヌ、私が女神様になれたのは、あなたがそう見てくれたからなのよ」
カップの中で、紅茶が小さく揺れた。
「……私のほうこそ、あなたに救われてたんだよ」
セリーヌの瞳が大きく見開かれた。
自分が縋っていた存在が、実は同じくらい脆く、必死だったこと。
それでも互いを支え合って、あの地獄を生き抜いてきたのだと、今になって理解した。
「ステラ……」
「だからね」
ステラは微笑んだ。
「あなたが幸せそうにしてるのを見ると、すごく嬉しいの。私の女神様は、今度はちゃんと自分の幸せを手に入れたんだって思えるから」
セリーヌは胸の奥がいっぱいになり、思わず立ち上がってステラを抱きしめた。
「……ありがとう」
それ以上の言葉が見つからなかった。
「……それにしても、大公閣下が妻を溺愛してるって噂は本当だったのね」
「ス、ステラまでそんな……!」
セリーヌはまさか公爵領の領民にまで噂がまわっているとは思わず、頬を真っ赤に染めた。
ステラは嬉しそうにそんなセリーヌの顔を覗き込むと、感心したようにいう。
「あなたが望んだからって、“ステラ”なんてありふれた名前一つで、私を見つけ出してしまうなんて……それだけセリーヌが愛しくてたまらないってことでしょう?」
「そ、そんな……っ」
頬が熱くなる。
(勘違いしちゃダメ……)
セリーヌは慌てて自分に言い聞かせた。
(きっと高貴な方としての責任として、色々してくださっているだけ。私に特別な感情があるわけじゃ……)
そう思おうとしても、胸の奥がざわめく。
否定したいのに、嬉しさが隠せなかった。
やがてステラを見送る時間となり、玄関ホールまで見送った帰り道。
セリーヌはふと立ち止まった。
——会えたのは、ロランのおかげだ。
胸が高鳴り、気づけば足取りが早くなる。
ほとんど駆け出すような勢いで、執務室へと向かっていた。
「失礼いたします!」
勢いよく扉を開けると、書類に目を落としていたロランが顔を上げた。
「……どうした。そんなに慌てて」
「ロラン様!」
セリーヌは息を整える間もなく、言葉を連ねた。
「ステラとたくさん話せました! とても元気で……私を迎えに来てくれようとしていたって……本当に、全部、ロラン様のおかげです!」
次々と溢れる感情に、声が少し震える。
「ありがとうございます。本当に……本当に、嬉しくて……!」
ロランは一瞬目を見張り、それから小さく息を吐いた。
「無事に会えたなら、それでいい」
その穏やかな声に、セリーヌの胸がじんと熱くなる。
「……でも」
セリーヌは言葉を詰まらせ、視線を落とした。
「こんなにしていただいて……申し訳ないです。私、何もお返しできていなくて……」
沈黙が落ちる。
ロランは席を立ち、ゆっくりと彼女の前に歩み寄った。
「セリーヌ」
低く、落ち着いた声。
「君は俺の妻だ」
その言葉に、セリーヌは思わず顔を上げてロランを見つめた。
「俺は夫として当然のことをしただけだ」
あまりにも自然に告げられたその言葉に、思考が止まった。
胸の奥が、じわりと満たされていく。
頬が熱くなり、視界が滲む。
「ありがとうございます……」
そう告げた瞬間、セリーヌの表情がふわりと緩んだ。
大輪の花が綻ぶような、心からの笑顔。
その無防備な幸福の色に、ロランは息を呑んだ。
(……この笑顔は)
胸の奥で、何かが静かに形を変える。
(俺が引き出した笑顔だ)
これまで胸に燻っていた黒い感情——
誰にも触れさせたくないという、歪んだ嫉妬。
それが、確かな愛しさによって胸の隅へと追いやられていくのを感じた。
一方——宮殿の奥。
皇女ラリサの私室は、無惨な姿を晒していた。
割れた鏡。
引き裂かれたカーテン。
床に散乱する花瓶の破片。
怒りで肩を震わせるラリサは、床に倒れ込む使用人を見下ろしていた。
「この役立たずっ!!」
乾いた音が部屋に響く。
「社交界デビューまで療養していただなんて情報、誰でも知ってるわよ!!」
血走った瞳、歪んだ口元。
女神と称えられる皇女の姿とは、かけ離れていた。
——そもそも、あの女のことは初めから気に入らなかったのだ。
自分は幼い頃から、父親に愛されようと呼吸をするように嘘をつき、気に入らない令嬢たちにも笑顔を振りまいて人脈を築いてきた。
それなのに、あの女——セリーヌは、贅沢三昧で我儘三昧と蔑まれても一切気にせず、父親から無条件の愛情を与えられていた。
さらに許せなかったのは——
社交界デビューまで一切表舞台に出てこなかったあの女が、その美貌と品格だけで、あっという間に“社交界の華”と呼ばれる存在になったこと。
努力して手に入れたはずの、自分の女神としての“清廉さ”が、彼女の放つ圧倒的な“華やかさ”の前に、色褪せて見えて仕方がなかった。
自分が努力で築き上げた立場を、ロランの愛を——あの女は涼しい顔ですべてを奪っていった。
「……許さない」
ラリサは親指の爪を噛むと、怯えてうずくまる使用人に向かって怒鳴りつけた。
「どんなことをしてでも見つけ出しなさい! あの女の弱みを! 秘密を! 全部よ!!」
使用人が転がるように部屋を飛び出していくと、ラリサは再び爪を噛みながら、静かに笑った。
「あいつを堕とせば……彼はきっと、私の元に戻ってくる」
割れた鏡に映るラリサの瞳は、血走っていて、どこか狂気の色を宿していた。
「絶対に……地獄を見せてやるわ」
——ロランの寵愛も、大公妃の座も、私にこそ相応しい。




