02.期限つきの契約結婚
——貴女とは離婚する。
結婚初日にしてまさかの離婚宣言を受けたセリーヌは、衝撃のあまり思わず手に持っていた書類を握りつぶしそうになってしまった。
しかし、くしゃりと手の中で歪む感触で我に返り、間一髪のところで慌てて力を緩める。
慌ててシワを伸ばすセリーヌを無視して、ロランは淡々と説明をした。
「これは契約結婚だ。第一皇女が結婚した時点で、我々の契約は終了する」
(完全な後出しで、特大の爆弾を投下してくれるとは……大公閣下というのは随分といいご身分ね)
断定的な物言いが癇に障るが、感情的になったところで何も良いことはないと、セリーヌは怒りを飲み込んで手元の書類に目を落とした。
【婚姻契約書】
一、婚姻期間は、皇女ラリサ・ロズベルグが結婚するまでとする。
一、契約満了時、ロラン・グランチェスターの有責として離婚を成立させ、慰謝料として五千万リルをクロエ・フォークナーに支払う。
一、離婚後も、ロラン・グランチェスターはフォークナー家への軍事的支援を継続する義務を負う。
一、大公夫人としての役割は、公的な式典・舞踏会などの同席に限り、その他の務めを強要しない。
一、本契約の内容を第三者に口外してはならない。
「この契約に同意しない場合は、私の権力を駆使して、貴女が2度と再婚できないような離婚理由を捏造した上で離婚する」
ロランのあまりに高圧的な物言いに、飲み込んだはずの怒りが顔を出しそうになる。それをため息とともになんとか逃がすと、セリーヌは眉をひそめて尋ねた。
「……本気で私がこの条件を飲むとでも?」
「社会的信用度はこちらが圧倒的に上だ。貴女が何を言おうと、私にはそれをねじ伏せるだけの力がある」
冷たい声で、ロランは切り捨てるように言った。
(……これは脅迫だ)
だが、セリーヌは恐れなかった。むしろ、ラリサを愛しているはずのロランが自分を結婚相手に指名した理由が分かり、安堵すらしていた。
(これで、ようやく納得がいったわ)
ラリサはこの帝国の皇女だ。いつかは他国の王族に嫁がなければいけない。しかし彼女は結婚適齢期だというのに、フィアンセすら作ろうとしなかった。それはロランという恋人がいるからだということは、国中の誰もが察している。
そんな彼女を後押しするために、わざわざ悪名高いクロエ・フォークナーを名指しして、形だけの結婚をしたのだろう。用が済んだら、いつでも簡単に切り捨てられるように。
「……分かりました。ただし、慰謝料は必ず私個人に支払ってください」
セリーヌはそれだけ言うと、俯いたまま立ち上がり、サインをするためにテーブルに向かった。そして込み上げる笑みを必死に堪えながら、震える手で書類にサインをする。
セリーヌの心情など知る由もないロランは、書類を受け取ると、一言だけ告げた。
「この寝室は好きに使え。私は別室を使う」
扉が閉じる音が静かに消えていき、広い寝室にひとり残されたセリーヌは、そっと息を吐くと恍惚として呟いた。
「……もしかしてここは天国?」
契約結婚の話は寝耳に水ではあったが、正直なところ、セリーヌにとってはメリットしかなかった。ロラン有責の離婚で、離婚後も公爵家への軍事的支援が継続されるのであれば、出戻っても公爵から殺されることはないだろう。
それどころか、莫大な慰謝料をセリーヌ個人に支払うというのだから、それを元手に心機一転、新天地で新しい人生を送ることもできるかもしれない。
セリーヌは将来に対する不安が一気に解消されたことと、寝室を一人で使う許可が出たことで、その晩、生まれて初めて心の底から安心して眠りについた。
翌日。清々しい気持ちで朝を迎えると、セリーヌは部屋にやってきた専属侍女のミシェルに頼んで、遅めの朝食を庭に用意させた。
もちろんそこにロランの姿はない。
その代わり——そこには罵声も暴力もない。ただ静かに、美しい食器に乗せられた見るだけで食欲をそそる朝食と、香り高い紅茶が並んでいる。
セリーヌが紅茶を一口飲んで恍惚のため息を漏らすと、近くに控えていたミシェルがびくりと肩を震わせる。
“我儘公爵令嬢”と名高い彼女が、何を言い出すか不安でたまらないのだ。
「この紅茶、とても美味しいわね」
「ご、ご満足いただけて何よりです、大公妃殿下……!」
「それに、急なお願いだったのに、テーブルセッティングも完璧だわ。ありがとうね」
セリーヌの言葉に、ミシェルは安堵とも困惑ともつかぬ表情を浮かべる。理不尽な叱責を受けるどころか、まさか生粋の公爵令嬢が使用人にお礼を言うだなんて、想像もしていなかったのだ。
そんなミシェルの心情など知る由もないセリーヌは、上機嫌で朝食を楽しんだ。
この屋敷に愛はないが、平穏も未来への希望もある。
それは彼女にとって、この上のない贅沢だった。
その後もセリーヌとロランが顔を合わせることはなく、セリーヌにとっては穏やかな日々が続いていた。
暴力も、命令も、干渉もない。
昼も夜もひたすら本を読み、朝は誰に咎められることもなく遅く起きる。それはまるで、本物のお姫様にでもなったかのような心地だった。
——だが、そんな平穏も長くは続かなかった。
ある朝、ミシェルが慌てた様子で寝室に駆け込んできた瞬間、セリーヌの平穏は終焉を迎えた。
「おはようございます、奥様! 申し訳ございませんが、急いで宮殿へ向かうご準備を!」
「……え?」
例に漏れず、昨夜も夜更かしをして読書に没頭していたセリーヌは、ベッドから半身を起こすと寝ぼけ眼で聞き返した。
「宮殿? どうして?」
「皇帝陛下から、結婚のお祝いのために“夫婦で”宮殿に来るよう、招待状が届いていたんです!」
「……夫婦で?」
もはや半分ロランの存在を忘れていたセリーヌの声が、少しだけうわずる。
しかし、ミシェルはそれに気づくことなく、嬉しそうに頷いた。
「はいっ! 新婚のお二人に会うのを、皇帝陛下ご夫妻も楽しみにされているとか!」
そこで、そういえば……とセリーヌは思い出した。
ロランと第二皇子は幼馴染であり、親友だ。早くに両親を亡くしたロランを、皇帝夫妻が実の息子のように可愛がっているというのは、帝国中の誰もが知るところである。
そのような関係性であれば、皇帝夫妻直々に結婚のお祝いを、と言い出してもなんの不思議もない。
当日の朝になるまで招待状を隠していたのが誰かは、嫌われ者の彼女には心当たりがありすぎて、逆に見当もつかなかったが——
「仕方ないわね……急いで支度をしましょう。手伝ってくれる?」
「もちろんです!」
普段身の回りのことは1人で済ませてしまうセリーヌだったが、流石に皇帝夫妻との謁見となると、侍女なしでの支度は不可能だ。
眉を下げたセリーヌからのお願いに、ミシェルはようやく頼ってもらえたと、キラキラと目を輝かせながら大きく頷いた。
手早く支度を済ませたセリーヌが玄関ホールへ降りると、ちょうどロランが外套を羽織り、馬車へと向かうところだった。
真っ直ぐに伸びた黒衣の背中は、手が届きそうでいて、どこまでも遠い。
「閣下!」
セリーヌが思わず声をかけると、ロランが振り返る。
赤い瞳がセリーヌを見てわずかに揺れたが、すぐに冷たさを取り戻して背を向けてしまった。
「……貴女は来なくて結構」
それだけ言い捨てると、ロランは驚きに目を見開くセリーヌを振り返ることなく、扉の向こうへと消えていった。




