18.密告と絶望の離婚宣言
重厚なカーテン越しに差し込む午後の光が、ラリサの私室を微かに照らす。
その中央に立たされるようにして、大公邸から来た一人のメイドが、緊張した面持ちで頭を下げていた。
「……以上が、あの女の屋敷に来てからの様子でございます」
定期報告として、ロランとセリーヌの近況を事細かに伝えるのが、このメイドの新しい役目だ。
威圧感漂う重苦しい空気の中、メイドの脳裏には早くも後悔という言葉がチラリとよぎったが、最初から、逃げ道など用意されていないのだ。今更考えても無駄なことは、早々に頭の中から追い出すことにした。
結婚当初から変わらず、寝室も食事の時間も別であること。
セリーヌがここしばらく、ひどく体調を崩していたこと。
それにもかかわらず、専属医師は呼ばれず、侍女が一人で看病していたこと。
メイドは淡々とした口調を保ちながらも、声の端を微かに震わせながら二人が結婚してからの様子を告げた。
するとラリサは扇子で口元を覆い、小さなため息をついた。
「まあ……それはお可哀想に」
言葉だけを聞けば、慈悲深い同情の声だ。
けれど、その瞳の奥に浮かんでいるのは、明らかに愉悦の色だった。
噂以上に冷遇されているセリーヌの様子に、ラリサの扇子で隠された口元が吊り上がった。
「お二人は、同じ屋敷にいてもほとんど顔を合わせることもありません」
「そう」
メイドの言葉に、ラリサは満足げに頷いた。
胸の奥に溜まっていた鬱屈が、少しだけ晴れていく。
(やはりあの女は、彼と一緒になれない私への当てつけで結婚しただけの女なんだわ……!)
目障りで、つい兄との醜聞をでっちあげたが、自分が手を下すまでもない、とるに足らない存在。そう結論付けようとしたラリサだったが、それを制止するように、メイドが言葉を続けた。
「……ただ、その後」
ラリサの怒りを予感したメイドの声が、わずかに強張る。
「あの女は回復し、旦那様と共に領地の視察に行きました」
次の瞬間、部屋の空気が一変した。
「——何ですって?」
低く、押し殺した声。
ラリサは口元に当てていた扇子を閉じると、目を鋭く細めた。
「大公妃を気取って、彼に無理やりついていったのね……」
それは爆発寸前の怒りを押し殺すような、小さな独り言だった。
ラリサの細い指先に力が込められ、扇子が軋む音を立てる。
「あの女……他に不相応な真似はしてないでしょうね?」
逃げ場のない問いに、メイドは恐怖から喉を鳴らした。
「正直に答えなさい。……弟のことが可愛いならね」
観念したメイドは、震える声で意図的に“報告するまでもないこと”に分類していた事実を告げた。
視察の後、セリーヌがロランにカフリンクスを贈ったこと。
「……それだけ?」
「い、いえ……」
これ以上口にするのは、恐ろしかった。
何気なく感謝の言葉をくれたセリーヌの、優しい笑みがメイドの脳裏をよぎる。
しかし、自分はすでに彼女と家族を天秤にかけ、家族を選んだのだ。今更引き返すことはできないと、意を決して口を開いた。
「そのカフリンクスは、あの女の髪色と同じ色の石があしらわれていて……旦那様はそれを、机の上に置いて……よく眺めているそうです」
ぱきりと、乾いた音が部屋に響いた。
ラリサの手の中の扇子が、真っ二つに折れた音だ。
「……そう」
感情の抜け落ちたその表情が、逆にメイドの恐怖心を煽った。
「下がりなさい」
すでにメイドへの関心がなくなったのか、ラリサは一瞥することもなく告げた。
メイドは一礼すると、逃げるように部屋を後にした。
残されたラリサは、折れた扇子を床に投げ捨てると、荒い息を吐いた。
「許さない……絶対に、あの女だけは——」
同じ頃、ロランは一つの決断を胸に、セリーヌの部屋の扉をノックしていた。
使用人の誰かかと思ったのか、セリーヌからは「どうそ入って」と気軽に入室を許可された。
扉を開けると、驚いたようにこちらを振り返るセリーヌの姿が目に入る。
部屋の壁には、話に聞いていた通り、ロランの肖像画が飾られていた。
それを一瞬視界にとらえたロランは、すぐに視線をそらすと、セリーヌのそばに仕えていたミシェルに下がるよう命じた。
戸惑いながらも、ミシェルは命令通り部屋の外へと出ていく。
そして静寂が訪れた瞬間、ロランは深く頭を下げた。
「どうか……今すぐ離婚してほしい」
「……え?」
あまりにも唐突な言葉に、セリーヌは言葉を失ってしまった。
「貴女が望むなら、新しい嫁ぎ先も探す。国外で不自由なく暮らせるよう、全て手配したっていい。絶対に公爵家には戻らなくて済むよう、責任は持つ」
そう言ってロランは、セリーヌに一枚の為替手形を差し出した。
記されていたのは、離婚の慰謝料として契約書に記載されていた額の、倍の金額。
一瞬、見間違いかと思うほどの数字だった。
いくら大公家といえども、家が傾いてもおかしくないほどの金額だ。
それをロランは、なんの躊躇もなく差し出している。
——ああ、そういうことか。
元々この結婚は、皇女が結婚するまでという契約だった。
契約期間が満了したから、自分は速やかに切り離される。
そのための代償として、この金額が提示されているのだ。
ここまでしてでも、早く、確実に、自分との関係を終わらせたいのだと——そう理解した瞬間、セリーヌは、胸の奥が抉られるような痛みを感じた。
「も、もう……皇女殿下のご結婚が、お決まりに……?」
セリーヌが震える声で恐る恐る問いかけると、ロランはゆっくりと首を振った。
「いや……状況が変わったんだ」
ロランは視線を床に落とすと、懺悔するような面持ちで口を開いた。
「この契約結婚の目的は……あの女——皇女による“犠牲者”を、これ以上出さないようにするためだった」
「犠牲者って……」
理解が追いつかないセリーヌに、ロランは言葉を選びながら語った。
「あの女は、昔から異様なほど私に執着して……私に近づく女性すべてに敵意を向けていた。そして、時に……その感情が行き過ぎた形で表に出る」
ロランの脳裏に浮かぶのは、かつて自分に向ける視線が気に食わないという理由で、両目を奪われた使用人の姿。
ロランの存在に気付かず残酷に微笑むラリサの姿を、今でもはっきりと覚えている。
「……だからあの女に希望を与えないために貴女と結婚をした。そして妻である貴女に敵意が向けられないよう、わざとひどい扱いを……」
罪悪感から、言葉に詰まってしまう。
ロランは大きく息を吸うと、キッパリと告げた。
「あの女は、手段を選ばない。このままだと……貴女は殺されるかもしれない」
ロランの声は低く、絶望がにじんでいた。
そんなロランの言葉が、重くセリーヌの胸に沈み込む。
背筋を冷たいものが走り、セリーヌは思わず自分を守るように両手で自分を抱きしめた。
知らず知らずのうちに、呼吸が浅くなっている。
(女神様みたいなあの方が……私を、殺す……?)
それは、まさしく青天の霹靂だった。
美しい微笑みに隠された悪意の視線が、自分に向けられていたという事実に、セリーヌは恐怖した。
過去に何度も、理不尽な暴力に晒されてきたセリーヌにとって、命の危険は現実感を伴うものだった。
しかし同時に——
ロランの告白に、胸の奥から込み上げてくる感情があることに気付く。
命の危険を告げられているのに。
恐ろしい話を聞かされているというのに。
それでもなお、この感情を抑えることができない自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。
ロランは、自分を守るために頭を下げ、離婚を申し出たのだ。
(それなのに……)
セリーヌは眉を寄せ、涙が出ないよう必死に堪える。
(彼は、皇女に恋をしているわけじゃなかった——)
その事実が、どうしようもないほど強くセリーヌの心を揺さぶった。




