16
その夜も、セリーヌはベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
(今日もお礼を言えなかった……)
異変に気づき、公爵邸まで駆けつけてくれたこと。
自分をあそこから連れ帰ってくれたこと。
そして——あの異様な光景を目撃したにも関わらず、何も聞かずにいてくれること。
ロランの執務室を訪れたあの日、突然欲しいものを聞かれたことに驚き、お礼を言いそびれてしまっていることに気付いたのは、視察の後のことだった。
言わなければいけないと分かっているのに、いざ執務室へ行こうとすると、足が止まってしまう。
脳裏に浮かぶのは、帰りの馬車に乗る前に触れた、あの手の感触。
大きくて、少しカサついた温かい指先が、まるで壊れものにでも触れるかのように優しく頬を撫でてくれた。
あの時ほんのわずかに唇に触れたあの感触を思い出すだけで、セリーヌは胸の奥がぎゅっと縮んでしまい、ロランの顔を見ることができなくなってしまった。
(……どうして、こんな)
顔が熱くなり、セリーヌは勢いよく枕に顔をうずめた。
助けてもらった感謝を伝えるだけだとは思いつつ、これ以上深入りしてしまったら戻れなくなりそうで——怖いのだ。
翌朝も、すっかり習慣となっていたはずの庭の散策ができなかった。
噴水のそばを歩けば、また執務室の窓越しにロランと目が合う気がして、足がすくむ。
結局、その次の日も。
セリーヌが庭園に姿を見せることはなかった。
一方、ロランは執務室で書類を前にしながら、落ち着かない時間を過ごしていた。
視察の日以来、セリーヌの姿をほとんど見ていない。
窓辺に立っても、庭には見慣れているはずの光景が広がっているだけだった。
ロランは求めている姿はそこにないと分かっていても、視線をつい窓の外にやってしまう自分に、その日何度目かのため息をついた。
(……避けられている、のか)
指先で無意識に机を叩きながら、あの日、セリーヌに衝動的に触れてしまったことを思い出す。
怯えた様子はなかったが——それでも、彼女の境遇を思えば、不用意すぎたのではないか。
(俺は、また……)
無神経に、傷つけてしまったのではないか。
その可能性が、胸に重くのしかかる。
謝るべきか。
それとも、これ以上関わらない方がいいのか。
答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。
「……セリーヌ様、どうなさいました? 最近様子がおかしいですよ」
視察から一週間が経った頃、とうとうミシェルに指摘されてしまい、セリーヌはびくりと肩を揺らした。
「い、いえ……なんでもないの」
「……本当に?」
出会った当初からは信じられないほど遠慮のない視線に、セリーヌは観念したように息を吐いた。
「実は……閣下にお礼を言えていないことに気付いて」
「お礼、ですか?」
「あの日、公爵邸に来てくださったことも、連れ帰ってくださったことも……全部」
言葉を紡ぐたび、セリーヌの声はどんどん小さくなっていった。
「でも……顔を合わせようと思うと、どうしても……」
続きを言えず、頬を染めてうつむくセリーヌに、ミシェルはふっと微笑んだ。
「まるで恋する少女のようですね」
「ちょっとミシェル! 私は真剣に悩んでるのよ?」
からかわれたと思い憤るセリーヌに、ますます笑みを深めながら、ミシェルは優しく提案した。
「でしたら、お礼の品を用意されてはいかがでしょう」
「……お礼の、品?」
「何か形があれば、お礼の言葉も伝えやすいのでは?」
その言葉に、セリーヌの表情がパッと明るくなった。
「そうするわ! ……何にしようかしら?」
多忙らしく、長い時間執務室にこもって仕事をしているロラン。
重くなり過ぎない小物がいいが、毎日使うペンにはこだわりがあるだろうし——
「カフリンクスなら、いくつあっても困らないかしら……?」
「それはいい考えですね。早速職人に連絡をして、いくつか持ってこさせましょう」
手を合わせて喜ぶミシェルの姿に、緊張が少しずつほどけていくのを、セリーヌは感じていた。
数日後。
執務室の扉の前で、セリーヌは深く息を吸った。
(……今度こそ)
手にした包みをぎゅっと抱きしめ、ノックをする。
「……入れ」
久しぶりに聞いた低い声に、心臓が跳ねる。
セリーヌが中に入ると、ロランは書類から顔を上げ、わずかに目を見開いた。
「……その後、体調は」
「はい。もう大丈夫です」
セリーヌは緊張で声が震えぬよう慎重に答えると、ゆっくりとロランに歩み寄った。
いつもよりぐっと縮まった距離に足がすくみそうになるが、大きく息を吸ってなんとか平静を保つ。
「遅くなってしまいましたが……お礼を、申し上げたくて」
どこか定まらない視線にセリーヌの緊張を感じ取ったロランは、急かすことなく、ただ黙って続きを待つ。
「公爵邸に来てくださったこと。私を連れ帰ってくださったこと。……そして、何も聞かずにいてくださったこと。すべてに、心から感謝しています」
なんとかお礼の言葉を言い終えると、セリーヌは手にしていた包みを差し出した。
「これは……ほんの気持ちですが」
ロランは差し出されたそれを黙って受け取った。
まさかプレゼントを渡されるとは思っていなかったロランは、しばらく包みを見つめたまま動けずにいた。
数秒の沈黙ののち、包みから視線を離せないまま、静かに口を開いた。
「……礼など、必要ない」
「いえ、私はあなたにどれほど感謝しても足りないことをしてもらいました。……私は、あの家で……」
セリーヌは続けなければ、と口を開くが、言葉に詰まった。
ロランには事情を説明すべきだ。
助けてもらった以上、誠実であるべきだ。
しかし、嘘はつきたくないが、本当のことを話すには、あまりにも事態が複雑すぎた。
「私は、あの夜……」
震える声を絞り出しながら、ほとんど過呼吸のようになっているセリーヌに、ロランは低くつげた。
「無理に話す必要はない」
「……え?」
「貴女は、もう大公妃だ」
その言葉は、静かで、揺らぎのないものだった。
結婚初夜のあの冷たさは、もうどこにもない。
「あそこに戻る必要も、過去を思い出す必要もない。ただ、ここにいればいい」
——ここが、居場所だと。
そう言われた気がして、セリーヌの視界が滲んでいく。
「っありがとう、ございます……」
堪えきれなかった涙が、セリーヌの頬を伝う。
そんなセリーヌに、ロランは何も言わず、ただ視線を逸らした。
セリーヌにはそれが無関心からではなく、ロランの優しさからくるものだということが、分かってしまった。
涙を拭いながら、セリーヌはどこか諦めたように、小さく微笑む。
(……ああ、やっぱり)
もう、戻れないところまできてしまったのだ——




