14.真実の姿
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込む。
ベッドサイドのテーブルには、気分が落ち着くようにとミシェルが淹れてくれた、温かなハーブティーが湯気を立てている。
セリーヌは深く息を吸い、穏やかな空気を胸いっぱいに吸い込んでから、ゆっくりとカップを手に取った。
問題はまだいくつか残っているが、まず最初に確認すべきことがある。
「ミシェル、昨日の寝間着……あの中に、何か紙が入っていなかったかしら」
その言葉にミシェルは顔を上げ、思い出したように「あっ」と声を漏らした。
そして急いで机の引き出しを開けると、乱雑に折り畳まれた一枚の羊皮紙を取り出す。
「これでしょうか? 昨夜、お召し替えの際に寝間着の中から出てきました」
セリーヌは震える手でそれを受け取り、慎重に開いた。
そこに記された文字を見た瞬間、全身の力が抜けていく。
(無事だった……!)
レオンに見つかり、とっさに寝間着の中に隠した奴隷売渡証書。
セリーヌが長年の呪縛から解放されるために、どうしても必要だったもの。
いつの間にか気絶してしまったことで、どこかに落としたのではと恐れていたが、それは今、確かにセリーヌの手の中にある。
「……良かった。本当に……良かった」
掠れた声で呟くと、セリーヌは羊皮紙を胸に抱きしめ、そっと目を閉じた。
ミシェルは安堵の息をこぼしながらも、どこか切なげにその横顔を見つめていた。
その頃、ロランは執務室に籠っていた。
机の上には未決の書類が山のように積まれていたが、視線はどれにも向かない。
脳裏にこびりついて離れないのは、昨夜の光景——青ざめたセリーヌの顔、軽すぎる身体、そして無数の傷跡。
控えめなノックの音を聞き、ロランは現実に引き戻された。
手元にあったペンを取り、書類仕事を再開しながら、短く「入れ」とだけ答える。
現れたのは、セリーヌの専属侍女・ミシェルだった。
ミシェルは深く頭を下げると、どこか緊張した声で報告を始めた。
「クロエ様の容態ですが……一つひとつの傷は深くありません。ですが、ドレスで隠れる場所に、無数の古い痣がありました。昨日今日のものではございません」
ロランの手がピタリと止まる。
握っていたペンの先から、黒いインクが紙に滲んでいく。
「……古い痣、だと?」
「はい。長い時間をかけてできたものかと……。医師による診察も、強く拒まれました。背中を、私以外の人間に見られたくないと」
ロランは目を伏せ、拳を握りしめた。
暴力を振るわれ続けた彼女にとって、それは当然の拒絶だ。
心から信用している人間以外は、近寄らせたくもないのだろう。
昨夜のレオンとトムの顔を思い出し、あの怒りが胸に再び燃え上がる。
「看病は……お前が続けろ。すべて、彼女の望む通りに」
「承知いたしました」
ミシェルが頭を下げて退室すると、静寂が戻った。
ロランは額を押さえ、深く息を吐く。
目を閉じれば、気絶したセリーヌの死人のような姿が鮮明に甦ってくる。
(なぜ……見抜けなかった)
度々公爵家に呼ばれていたのは、溺愛されていたからではなかった。
自分の無関心が、あの痛ましい傷の一因になったのだと気付き、胸の奥に焼けるような後悔が広がった。
——もし、彼女を冷遇しなければ。
——もし、あの違和感を見過ごさなければ。
「……俺は、何を見ていたんだ」
ロランは呟き、立ち上がると執事を呼び出した。
「クロエについて、何か知っていることはないか。些細なことでもいい」
突然の問いに、執事は一瞬言葉を失った。
これまで自分が一方的に報告するばかりで、ロランが自ら彼女について尋ねるなど、今まで一度もなかったのだ。
「それは……旦那様が直接奥方様とお話しになった方が……」
「答えろ、ジョージ」
切実さが込められた声に、執事は小さく息を呑み、やがて観念したように頷いた。
「承知いたしました。——奥方様は、嫁いでこられた当初こそ使用人たちから距離を取られておりましたが、今では皆が慕っております。どなたにも分け隔てなく接し、身分を鼻にかけることもございません」
「……そうか」
ロランの声には、かすかな驚きが混じる。
執事は自分に向けられたセリーヌの屈託のない笑みを思い出し、口角を上げながら続けた。
「それと……以前、花祭りの日に外出された際に、孤児院で子どもたちの服や本が古くなっていると聞かれたそうで。以後、毎月支給されている大公妃の予算から、匿名で寄付を続けておられます。新しい衣服、本、玩具を——すべて、奥方様自ら手配なさって」
「匿名で?」
「はい。孤児院の方々も、どなたの善意かはご存じありません。……それに、奥方様は結婚して以来、一度もドレスや宝飾品を購入しておられません。ご自身のために予算を使われたことが、ないのです」
ロランの胸が、ずきりと痛んだ。
世間が言う「贅沢好きの我儘公爵令嬢」とは、いったい誰のことなのか。
執事は少しためらいながらも、もう一つ告げた。
「……奥方様の私室には、旦那様の肖像画が飾られております。あの絵は、以前旦那様が戦地に赴かれる前に描かれたものでございます」
その言葉に、ロランの目がわずかに見開かれた。
「俺の、肖像画を……?」
「はい。毎日、その肖像画に話しかけておられるようです。何を話しておられるのかまでは分かりませんが、……とても穏やかで、楽しそうに微笑んでおられるとか」
その言葉が、ロランの心の奥深くに重く沈んだ。
自分が彼女にしてきたことを考えれば、拒絶されて当然のはずなのに——
彼女は、それでも自分を見ていた。気にかけてくれていた。
沈黙が落ちる。
長い時間、ロランは何も言わなかった。
執事が静かに一礼して去ると、執務室は再び静けさを取り戻した。
あれから数日。
ロランは何人かの使用人に彼女の話を聞いたが、悪い噂はひとつも出てこなかった。
知れば知るほど、心が軋む。
彼女を理解したいと願う一方で、これ以上知りたくないと思う自分もいた。
窓の外に目をやると、薄曇りの空の下で、庭園に小さな人影が見える。
それはミシェルに支えられながら、ゆっくりと歩くセリーヌの姿だった。
まだ回復しきっていないのか、足取りはおぼつかない。
それでも、咲き誇る花に顔を近づけ、香りを楽しむその表情は穏やかだった。
(俺は……何をしていた?)
彼女の顔も、笑顔も、涙も、何一つ知ろうとしなかった。
ただの契約結婚だからと、冷たく距離を置くことだけを選んできた。
そうすることで、あの女から守ってやっている気になっていたのだ。
——その結果が、あの夜の惨状だ。
ロランは立ち上がり、拳を握る。
胸の奥から込み上げるものを、抑えきれなかった。
「……あのとき、ちゃんと見ていれば……」
呟いた声は、誰にも届かない。
窓の外では風が吹き、セリーヌのアッシュブロンドの髪が揺れている。
その姿を、ロランは呆然と見つめていた。
ふと、視線が合う。
セリーヌは一瞬だけ驚いたように目を見開き、次の瞬間、柔らかく微笑んだ。
責めるでもなく、怒るでもない——ただ、すべてを受け入れるような微笑。
ロランの喉が詰まり、息が止まった。
胸の奥で、思わず叫びたくなるほどの衝動が込み上げてくる。
やがてミシェルに促され、セリーヌは屋敷の中へと戻っていった。
遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、ロランは小さく呟く。
「……もっと、知るべきだった」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ空気に溶けて消えた。
だがその瞬間、ロランの中で、何かが確かに変わり始めていた。
——もう、無関心ではいられない。




