13
セリーヌの手の甲は赤く腫れ上がり、擦りむけて血が滲んでいる。だが、彼女は痛みを感じていなかった。
——息が苦しい。胸の奥が、焼け付くように熱い。
怒りとも、恐怖ともつかぬ感情に突き動かされ、セリーヌはレオンに拳を振るい続けた。
ロランたちが部屋に入ってきたことにも気付かず、何度も、何度も。
やがて、体力が尽きると同時に糸が切れたように全身の力が抜け、セリーヌは崩れ落ちた。
「クロエ!」
駆け寄ったロランが、その細すぎる身体を抱き止める。
セリーヌの肌は冷たく、青白い顔色と相まって、まるで死人のようだった。
ロランは言葉を失い、固く目を閉じたままのセリーヌの頬を指先でなぞる。
その頬には、暴力の跡がくっきりと刻まれていた。
「……何があった!」
焦りを隠せないトムの声が、その場に響く。
レオンはよろめきながら立ち上がり、笑みとも歪みともつかぬ表情で首を振る。
「クロエが、突然殴りかかってきて……。俺は、止めようとしたんですが……」
怯えを装いながらも、レオンのその目はどこか濁った熱を帯びている。
セリーヌの怯えた瞳、乱れた髪、そして破れた寝間着の背から覗く傷だらけの肌。
彼女に殴られた顔の痛みさえ、レオンにとっては奇妙な悦びとなっていた。
その異常な昂りを、ロランは見逃さなかった。
「黙れ」
低く、重い声が空気を震わせる。
ロランの視線は氷のように冷たく、レオンを射抜いた。
血の気が引くほどの怒りと、そこに微かに混じる自責。
自分が、小さな違和感を無視しなければ——
今にもレオンを殺しかねない剣幕のロランに、トムが震える声で告げた。
「……今は詮議よりも、二人を休ませるべきでしょう。娘も疲れ果てているようなので、大公邸に戻った方がいい」
トムはそれ以上何も言わずに、背を向けた。
その言葉が「娘を守るため」なのか、「事を荒立てぬため」なのかは、明白だ。
だが、いずれにせよ、トムの態度はロランにとって好都合であった。
——これ以上、彼女をこの場所に置いてはならない。
ロランは黙って頷くと、腕の中にいたセリーヌを抱き上げた。
その身体は驚くほど軽く、その事実に胸がひどく痛んだ。
大公邸の玄関扉が開くと同時に、待ち侘びたようにミシェルが駆け寄る。
セリーヌの突然の外泊の知らせと、険しい表情で公爵邸へと向かうロランの様子にただならぬものを感じ、ロランの帰宅をじっと待っていたのだ。
「クロエ様……! お戻りに——」
言葉の途中で、ミシェルの顔が凍りつく。
ロランの腕に抱かれたセリーヌの姿が、あまりにも予想外のものだったからだ。
腫れ上がった頬と、唇の端に残る血の跡。よく見ると、右手も赤く腫れ血がにじんでいる。
ミシェルは膝をつき、震える声で呟いた。
「いったい、何が……」
ロランはそんなミシェルの疑問に答えることなく、短く命じた。
「手当てを頼む。着替えも。誰も部屋に入れるな」
「は、はい……!」
慌てて手当てに必要なものを用意したミシェルが寝室に向かうと、ロランがそっとセリーヌをベッドに寝かせているところだった。
その手つきは、普段の突き放すような態度からは想像もつかないほど、優しいものだった。
「医者は彼女の許可を得てから呼ぶ。……後は任せた」
「っかしこまりました!」
ロランはその言葉に無言で頷くと、静かに寝室を出ていった。
扉が閉まると、ミシェルは嗚咽をこらえながら、セリーヌの傷にそっと濡れた布を当てた。
そして、震える指で汚れた寝間着を脱がせようとして——息が止まった。
華奢な背に刻まれた、真新しいものから古いものまである、無数の痣に裂傷。
そして、肩甲骨のあたりにくっきりと浮かび上がる、ケロイド状の火傷跡。
「……嘘……」
震える指先で、そっと火傷跡に触れる。
でこぼことしたそれは、以前本で見かけた印とよく似ていた。
ミシェルの喉が震え、嗚咽が漏れる。
「だから、だったのね……」
思い返せば、彼女はいつも自分で着替えを済ませ、入浴の補助も拒んできた。
「……どうして、気づけなかったんだろう」
薬を塗る手が震え、包帯を巻くたびに涙が溢れる。
痛々しい肌の上を撫でるたびに、胸の奥が締め付けられた。
「こんなになるまで……、ずっと一人で……ごめんなさい、クロエ様……」
灯りの落ちた部屋で、ミシェルの啜り泣く声だけが、いつまでも響いていた。
夜が明ける頃、セリーヌは重たいまぶたをゆっくりと開いた。
柔らかな寝具と、消毒の匂い。身体に巻かれた包帯の感触。
夢ではない——ここは、大公邸の寝室だ。
「ああ……クロエ様!」
ミシェルが弾かれたように立ち上がり、彼女の手をとる。
涙で潤んだ瞳が、すべてを物語っていた。
セリーヌは静かに息をつき、掠れた声で呟く。
「……ずっと騙していて、ごめんなさい」
ミシェルは今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えながら、必死に首を振る。
「じゃあ……やっぱりあの焼印は……」
しばしの沈黙ののち、セリーヌはかすかに笑った。
それはあまりにも儚く、痛々しい笑みだった。
「そう。私は、公爵令嬢なんかじゃないわ。生まれてすぐ貧しい孤児院に捨てられ、虐待死した“クロエ・フォークナー”の身代わりとして公爵に買われた——ただの奴隷よ」
ミシェルの目が大きく見開かれる。
「そんな……どうして、そんなことが……」
ミシェルの瞳から、とめどなく涙が流れる。
呼吸がひどく乱れ、思うように言葉を発することも叶わなかった。
「仕方ないわ。彼らにとって私は人間ではなく、ただの“物”なのだから」
セリーヌはそう自嘲すると、静かに目を伏せた。
そのすべてを諦めたような横顔に、ミシェルの胸が締め付けられる。
声の震えを止めることはできなかったが、ミシェルは問わずにはいられなかった。
「……貴女の、本当のお名前を……教えていただけますか?」
その言葉に、セリーヌは小さく息をのむ。
誰にも問われたことのない問い。
誰にも名乗ることが許されなかった、自分の名前。
「……セリーヌ。それが、私の名前」
ミシェルの唇が震えた。
その名を、まるで祈るように口にする。
「セリーヌ様……」
とうの昔に捨てられたはずの名が、ミシェルの温かな声によって呼び戻される。
セリーヌの胸の奥で長年抑えられていた感情があふれ出し、とめどなく流れる涙が頬を濡らしていく。
八歳の時に殺された“セリーヌ”が、ようやく息を吹き返したのだ。
「セリーヌ様。貴女がどんな過去を背負っていても、私がお仕えするのは貴女お一人です。私は、どんなことがあってもセリーヌ様の味方でいますから……!」
セリーヌは唇を震わせ、小さく頷いた。
胸の奥がじんわりと温かくなり、長く張り詰めていた糸がようやく緩んでいく。
「……ありがとう、ミシェル」
窓の外では、夜が静かに明けていく。
淡い光がカーテンの隙間から差し込み、二人の身体を柔らかく包み込んだ。
長い夜が、ようやく終わりを告げようとしていた。




