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「……わざわざ跡をつけてきたの? “お兄様”」
背後に現れた男を睨みつけ、セリーヌは皮肉を込めて吐き捨てる。
レオンのいつもの計算された笑みは、月明かりに照らされてどこか歪んで見えた。
「お前が無様にうずくまっているところでも拝んでやろうと思ったら、部屋を抜け出してたからな。見守ってただけだよ、“妹”を心配する兄として」
レオンはわざとらしく心配そうな表情を浮かべて見せたが、その顔の下に潜む薄気味悪い嗜虐の色を隠しきれていなかった。
「ごめんなさいね、無様な姿をお見せできなくて。わざわざ公爵に告げ口までして、殴られるように仕向けてくださったのにね」
セリーヌの嫌味にレオンはゆっくりと肩をすくめると、わざとらしく笑った。
「別に。最近親しくしている令嬢から聞いた話を伝えただけさ」
「あなたが親しくしている令嬢って、何人いるのかしら? 五人? それとも十人?」
「嫉妬か? そんなに怖い顔するなよ」
レオンの顔立ちは、確かに整っている。
垂れ目がちで、微笑んだだけで多くの女性が油断してしまうような甘い顔だ。
しかし、セリーヌはその笑みを見る度に、吐き気を覚えた。
「あんたは、私が惨めに泣き叫ぶ姿を見たいだけでしょう」
「……口の利き方には気をつけろよ、奴隷」
レオンの笑みがすっと消え、その瞳の奥で、抑えきれない衝動が顔を覗かせる。
「代用品の分際で、生意気言いやがって。……誰がそんな真似を許した?」
「あら、いちいち許可が必要だったなんて知らなかったわ」
「ほう?」
一歩、レオンが近づく。
その眼差しは、冷えた刃のようだった。
「まあいいさ。……俺が躾け直してやる」
にじりよる足音。
セリーヌは無意識のうちに、寝間着の胸元に隠した書類を、守るように握りしめた。
そのわずかな動きを、暗闇の中レオンがめざとくとらえる。
「何を隠してる?」
「何も」
「じゃあ見せてみろよ」
「嫌っ!」
胸元を守るように握りしめる手をはがそうと、レオンは勢いよくセリーヌの手を掴んだ。
その暴力的な態度に怯みそうになりながらも、セリーヌは必死で抵抗をする。
揉み合う拍子に燭台にぶつかり、寝間着の背が裂けた。背中の傷が冷たい空気に触れたことに気を取られたセリーヌは、その隙に机の上に乱暴に抑えつけられてしまった。
ヒヤリとした机の感触を背中に感じながら、セリーヌは渾身の力でレオンを突き飛ばした。
「——離してっ!」
意外にも、レオンは抵抗することなくセリーヌから手を離した。
青白い光に照らされた、隠しきれない怯えの色が浮かぶセリーヌの瞳を見下ろすその顔に、ゾッとするような悦びが浮かぶ。
「……昔のままだ、その怯えた目」
「っ……この異常者!」
セリーヌはとっさに机上のインク入れを掴み、レオンに投げつけた。
額に当たったそれに、レオンが顔を歪める。
「卑しい奴隷の分際で——俺を拒むな!」
レオンの手が振り上げられ、とっさに腕を動かした瞬間——
セリーヌの手に、冷たい陶器の感触が触れた。
同じ頃。
公爵邸の前に、一台の馬車が止まった。
ひと目見たら忘れられないほど美しい漆黒のその馬車は、大公家が所有しているものだ。
夜の冷気の中、ロランは無言で馬車から降りると、足元の砂利を踏みしめた。
闇の中に浮かぶ邸宅は豪奢でありながら、どこかよそよそしく、そして不穏だった。
ここにくるまで、彼は最近のセリーヌの様子を何度も反芻していた。
彼女は、頻繁に実家に帰っていた。
父親に溺愛されているのは知っていたし、嫁ぎ先で夫に冷遇されている分、父親に甘やかされることで心の均衡を保っているのだと、最初はそう思っていた。
大公邸に戻ると、決まって体調を崩すのも、「ホームシックのようなもの」だと、深く考えないようにしていた。
——だが、それはおそらく間違っていた。
確信を持ったのは、公爵邸からの「しばらく公爵邸で療養する」という連絡だ。
あの律儀な彼女が、「長居はしないように」という当初の言いつけを破った謝罪もなしに、外泊するなどあり得ない。
「大公閣下……! こ、今宵は——」
突如あらわれた来訪者を、公爵邸の執事が慌てて出迎える。
ロランはそんな執事を見下ろしながら、冷静に告げた。
「私の妻が体調不良のため、しばらく帰らないと聞いたが、外泊の許可は出していない」
静かな声だったが、言葉の一つ一つに凍てつくような鋭さがあった。
執事が今にも倒れそうなほど真っ青になっていると、大きな螺旋階段から、騒を聞きつけたトムがゆっくりと降りてきた。
寝衣に上着を羽織り、貴族らしい笑みを浮かべている。
想定外の来客にも余裕を崩さないその姿が、かえってその不穏さを際立たせた。
「これはこれは、大公殿下。……こんな夜更けにどうなさいましたか?」
「妻の体調が思わしくないと聞いたので、会いに来た」
「わざわざ来てもらって申し訳ないが、娘はもう休んでいるのでね。見舞いなら後日にしていただけますか?」
淡々としたやりとり。
だが、互いに一歩も引かない。
冷えた空気の中で、見えない火花が散っていた。
「姿を確認したら、すぐに帰ろう」
「お気持ちは分かりますが、今宵はもう遅いですし——」
「今すぐ、だ」
静かな声。
その一言で、部屋の温度がさらに下がった。
トムの笑みがわずかに引き攣る。
返す言葉を探したそのとき——
「……なんの音だ?」
屋敷の奥から、何かが砕ける音が響いた。
続いて、激しい衝突音。
二人の視線が交錯する。
先に動いたのは、ロランだった。
赤い絨毯がひかれた階段を、迷いなく駆け上がる。
「お、お待ちください、大公閣下!」
トムが遅れてその後を追う。
廊下を走り抜け、奥の扉を開け放った二人の目に飛び込んだのは——
散乱する花瓶のカケラと、床に転がった血のついた燭台。
その中心には床に倒れたレオンと、その上に馬乗りになり、血にまみれた拳をレオンの顔に振り下ろすセリーヌの姿があった。
よく見ると、彼女の寝間着は裂け、左肩から背中へと破れた布の隙間から、無数の傷が覗いていた。
白い肌に刻まれた青黒い痣と鮮血がにじむ裂傷が、月光に浮かび上がる。
その背中を見た途端、ロランは頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
セリーヌの血にまみれた拳は震えており、その瞳には、涙とも怒りともつかぬ光が宿っていた。
静まり返った部屋の中、セリーヌの荒い息づかいとレオンのうめき声、そして鈍い殴打音がやけに大きく聞こえる。
——その異様な光景に、駆けつけた二人は言葉を失ってしまった。




