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虐待死した公女の代役ですが、皇女の恋人と結婚させられました  作者: Megumi


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 倒れ込んだセリーヌが、小さくうめく。

 その瞬間、トムが我に返った。

 目の前には、冷たい床にうずくまる女。殴られた頬を押さえたまま、何も言わずに震えている。

 それが笑いからくる震えだとは気付かず、トムは眉をひそめた。

 彼女の頬はすでに赤く腫れ始めており、誰の目から見ても、殴られたであろうことが分かる有様だった。


「……やってしまったな」


 呟きは冷ややかで、そこには先ほどまでの激情も、後悔もなかった。ただ、面倒ごとをいかに処理するかを計算する貴族の声だった。

 セリーヌの頬には、どんな言い訳をしても取り繕えぬ暴力の跡が残っている。

 トムは血のついた拳をハンカチで拭いながら、独りごちた。


「見えるところに傷を残すなど、愚かなことをした。……まあ、化粧で隠せるようになるまで、外に出さなければ済む話か」


 床に伏したままのセリーヌを見下ろしながら、トムは冷淡に言葉を紡いだ。


「療養という名目で、しばらくここに滞在するように。——大公には私から伝えておく。迎えが来るとは思わぬことだ」


 それだけを告げると、トムはそれ以上セリーヌに用はないとばかりに踵を返し、扉の外へと去っていった。

 閉ざされた扉が重く響き、部屋に沈黙が落ちる。


 セリーヌは、しばらくそのまま床に横たわっていた。

 頬に走る痛みが、脈打つたびに主張してくる。だが、涙はでなかった。


(ついに……)


 心の奥に、希望という名の光が灯った。

 身体が歓喜で震えてくる。

 セリーヌは自分を落ち着かせるように大きく深呼吸をすると、ポツリと呟いた。


「……やっと、動ける」


 呟いた声はかすれていたが、その響きには力強さがあった。

 今までは大公の言いつけがあり、長居ができずにいたが、滞在を命じられた今なら——


 セリーヌはゆっくりと立ち上がり、ドレスについた埃を払った。

 頬の腫れはひどく、赤みが痛々しかった。きっと数日以内に青黒く変色してしまうだろう。だが、その表情に怯えはない。

 セリーヌは扉に手をかけ、わずかに唇を歪めた。


(これで、この部屋とも永遠にお別れね)




 夜更け。

 屋敷が静寂に包まれ、灯火がすべて消えた頃。

 セリーヌは結婚前に使用していた小さな部屋の、粗末なベッドから静かに身を起こした。

 裸足のまま床に降りると、冷たい石の感触が足裏を刺す。

 しかし、そんな小さな痛みは無視して、息を殺しながら扉へ近づいた。

 そしてほんの少しだけ扉を開け、誰の気配も感じないことを確認すると、セリーヌは音も立てずに部屋を出ていった。


 一歩足を動かすたびに、白い寝間着の裾が足に絡みつく。だが、その足取りに迷いはなかった。

 その瞳は前だけを見すえ、まるで他のものを見てはいない。


 目的は、屋敷の奥——トムの執務室。


 不在時には必ず鍵がかけられているが、スペアキーの在りかは知っている。

 以前、マスターキーを忘れて苛立つトムが、絵画に手を伸ばしているのを見たことがある。


 セリーヌは愛の女神・ラヴィアが描かれた絵画を外すと、その裏に指を滑らせる。

 すると、硬い金属が指先に触れ、心臓が跳ねた。


「……あった」


 息を潜めて鍵を差し込み、慎重に回すと、微かな音を立てて錠が外れた。

 扉を押すと、薄暗い室内にトムの香水の残り香が漂う。

 その重苦しい匂いに顔をしかめながら、セリーヌは誰もいない執務室へと足を踏み入れた。


 蝋燭は灯さない。

 月光だけを頼りに、引き出しの奥を探る。

 そうしてしばらく捜索を続けていると、書類の束の中から、幼少期の記憶と完全に合致する、一枚の古びた羊皮紙を見つけた。

 震える手でそれを引き出した瞬間、喉の奥で息が詰まった


 そこに記されていたのは、セリーヌの名と、身体的特徴。そして売主とトムの署名。


 ——奴隷売渡証書。


 密告を防ぐため、売主と買主がお互いの弱みを握る形で作成された契約書だ。

 しかしそれは、セリーヌが奴隷として違法に売買されたという、動かぬ証でもあった。

 この古びた書類たった一枚で、トムを破滅に追い込むことだって可能だ。


 羊皮紙を握る手が震える。

 長い年月、耐え抜いた時間が、一気に報われたような錯覚を覚える。


「……これで」


 声が、震えた。


「これで、私は自由になれる」


 3年前、ようやく存在を突き止めた。だが、この書類が消えればセリーヌは真っ先に疑われてしまう。

 そのため、公爵邸で暮らしていた頃は手が出せずにいた。

 大公家への輿入れ当日に持ち出すつもりだったが、あの日は逃走を警戒したのかとくに監視の目が厳しく、機を逃してしまったのだ。


 だが、今ならば——


 大公家に戻れば、公爵は手を出せない。

 盗んだことが露見したとしても、もはや恐れる理由はなかった。


 そう確信した瞬間、喉の奥で笑いが漏れる。

 それは静かで、ひどく冷たい笑みだった。

 切れた口の端が痛んだが、それでも笑いを止めることはできなかった。




 ——そのとき。


 背後で、微かに物音がした。

 古い蝶番が鳴り、扉が静かに開かれる音。

 誰かが、そこにいる。


 足音が一歩、二歩と近づいてくる

 息を潜めたまま、セリーヌの背筋に冷たい汗が伝った。


 そして——


「……何をしている?」


 低い声が静寂を切り裂いた。

 心臓が大きく跳ね、羊皮紙を握る手に力がこもる。

 闇の中、月光が細く差し込み、ついに誰かの影がセリーヌを覆い隠す。


 扉の外から冷たい風が吹き抜け、手の中の羊皮紙がかすかに揺れる。

 静寂が張り詰め、まるで時が止まったかのようだった。


 とっさに寝間着の下に羊皮紙を隠すと、セリーヌは覚悟を決め、ゆっくりと振り返った。

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