第4話 会話と嫉妬
数日後のギルドの朝は、まるで凪いだ水面のようだった。開館したばかりで冒険者の姿もまばらなホールに、陽光が差し込む。私はカウンターの埃を丁寧に拭き取りながら、今日の依頼書をチェックした。
この静かな時間が、一日の始まりを告げる、私にとってささやかな安寧だった。しかし、その安寧は、一瞬にして打ち破られた。
「ルーシャさん、おはようございます!」
元気の良い声が背後から聞こえ、私は振り向いた。そこにいたのは、後輩のセシリアだった。
彼女はまだ二十歳になったばかりの、花のように可愛らしい少女だ。つやつやの栗色の髪を揺らし、無邪気な笑顔を私に向けてくる。
「おはよう、セシリア。今日は早いね」
「はい! 先輩より早く来て、気合を入れようと思って!」
なんて素直なのだろう。私にも、そんな時代があったはずだ。だが、今の私の心は、彼女の純粋さに少しだけざわつく。
二十八歳。このギルドでは、すでに『ベテラン』の域。多くの後輩たちが家庭を持ち、ギルドを離れ新たな道を歩んでいく中、十年働き続ける私は、いつしか『古株』と呼ばれるようになっていた。
彼女の眩しい若さは、いつだって私の深層心理に、このままでは取り残されてしまうのではないかという焦燥感を突きつける。
セシリアは、私の隣に立つと、やおらひそひそ声で話し始めた。
「ルーシャさん。最近、なんだか楽しそうですね。いつもより、表情が柔らかい気がします」
何気ない彼女の言葉に、思わず心臓が跳ね上がった。
「ところで、この前、来た駆け出しの冒険者って、すっごくかっこよくないですか?」
その言葉に、喉の奥が、乾いた音を立てて張り付いた。手が、思わずカウンターの縁を強く掴む。
彼女が指しているのが誰のことかなんて、聞くまでもない。私の胸に住み着いたロイドの影が、急速に色濃くなっていくのを感じた。
「え……駆け出しの冒険者、ですか?」
平静を装い、努めて無関心を装って問い返す。しかし、声がわずかに震えた。
「そうそう! 背が高くて、金髪の、あの新人さんですよ! たしか、ロイドって名前でしたよね?」
セシリアの瞳は、興奮でキラキラと輝いている。その輝きは、まるで私の心を刺す鋭い棘のように、胃の腑をきゅっと締め付けた。
「へぇ、そんなに印象に残ったんだ?」
私はできる限り自然な口調で尋ねた。心の中では、嵐のような感情が渦巻いていた。ここで動揺を見せれば、全てが水の泡になる。
「はい! 私、実はああいう真面目な人がタイプなんです! いつも依頼掲示板を真剣な顔で見ていて、なんだか一生懸命な感じが、もう、たまらなくて!」
セシリアは頬を染めながら、まるで夢見る乙女のように語る。その言葉一つ一つが、私の頭の中に氷の矢となって突き刺さった。
真面目、一生懸命、タイプ――。私がロイドに惹かれた理由と、全く同じではないか。
嫉妬の炎が、じりじりと私の心を焼き始める。彼女の純粋な恋心が、なぜこんなにも醜い感情を私の中に呼び起こすのだろう。
私だって、彼が真剣な顔で依頼を選ぶ姿に胸を焦がした。私が彼に抱いた感情と寸分違わぬ言葉が、後輩の口から零れ落ちる。
それは、自分の気持ちを剥き出しにされたような恥ずかしさと、得も言われぬ焦燥感をもたらした。
「そう……ロイドさんは、確かに真面目な冒険者さんだね」
私はそれ以上の言葉が出なかった。私の思考は、セシリアの言葉によって完全に麻痺していた。この若くて魅力的な後輩が、もし本気でロイドにアプローチしたら、彼はどうするだろう?
彼女の若さ、弾けるような笑顔、そして何より、受付嬢としてまだ「結婚」を意識しない自由さ。私には、もはやそのどれもがなかった。
セシリアは私の反応など気にせず、さらに言葉を続けた。
「昨日も依頼報告に来た時、ちょっとお話ししちゃいました! 薬草、たくさん採れたって嬉しそうに報告してくれたんですよ! ルーシャさんが教えてくれたおかげだって」
その言葉に、私の頭の中に警報が鳴り響いた。全身から血の気が引くのを感じる。
昨日?
私が非番だった日だ。その日、ロイドがギルドに来て、セシリアが対応したというのか。しかも、私の名前まで出して?
私は知らない間に、私の大切な、秘めたる感情が、彼と彼女の間で共有されていたという事実を突きつけられ、全身から血の気が引くのを感じた。
私の胸には、認めたくない醜い感情が渦巻いている。これは、かつて恋人を失った時の喪失感とは、全く異なるものだった。
「そう……そうなんだ」
私は乾いた声で答えるしかなかった。喉の奥がカラカラに渇ききっている。
「はい! なんだか、もっと話してみたいなって。ルーシャさんから見て、ロイドさんってどんな人ですか?」
セシリアの探るような視線が、私の心の内側まで見透かそうとしているようだ。私は必死で平静を保とうとした。この若さに満ちた後輩の前で、みっともない姿は見せられない。
「とても真面目で、これからが楽しみな冒険者よ。受付嬢としては、それ以上でも以下でもないわ」
努めて冷静に、そして事務的に答える。しかし、私の内側では、激しい感情が渦巻いていた。このままでは、ロイドが彼女に取られてしまう。そんな焦りが、私の冷静さを少しずつ削り取っていく。
ギルドの「不文律」がある。そして、私の過去もある。でも、そんなことは、この若い後輩の純粋な恋心の前に、無力なのではないか。
彼女が本気になれば、ロイドはきっと彼女に惹かれてしまう。そう確信めいた予感が、私の心を締め付ける。
私はゆっくりと、セシリアから視線を外した。カウンターの向こう側、依頼掲示板の前に立つロイドの姿を思い浮かべる。
彼の無邪気な笑顔、真剣な眼差し、そして私に向けられたあの照れたような表情。それら全てが、今、セシリアの言葉によって、私から遠ざかっていくような気がした。
このまま何もしなければ、彼は彼女のものになってしまう。そんな危機感が私の心を支配し始め、胸の奥で燻っていた恋心に、燃え盛る嫉妬の炎が点けられた。
この恋は、ただの淡い憧れでは終わらないだろう。そう、予感した。
お読みいただきありがとうございます!
次回の第5話「行動と傾倒」は明日18時頃更新です。
どうぞお楽しみに!