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第2話 視線と憧憬

 翌日、早朝の静けさが残るギルドの扉が軋む音がして、思わず顔を上げた。そこに立っていたのは、昨日と同じ、あの冒険者――ロイドだった。

 まだ冒険者としては駆け出しの彼は、自分なりに考えてこの時間帯を選んだのだろう。その真剣な眼差しに、私の胸は昨日にも増して騒がしくなる。

 昨日、彼に出会ってから、私の胸の奥には奇妙な熱が宿ったままだ。


 彼はきょろきょろと周囲を見渡し、少し戸惑った様子で依頼掲示板の前に立った。昨日と全く同じ動きだ。


 初めての場所に来た人間は皆こうなる、と経験豊富な私は知っていた。


 あの大きな板に所狭しと貼られた羊皮紙の山を前にして、どこから手をつけていいのか迷っているのだろう。

 彼の背中には、まだこのギルドに馴染みきれない、どこか心細げな雰囲気が漂っていた。きっと、一人故郷を離れ、自分の新しい環境に不安を感じているのだろうと、私は勝手に解釈する。


 彼の視線は、まだ高難度の依頼が並ぶ上の方を避け、下の方の簡単な依頼ばかりを追っていた。その慎重な姿勢に、なぜだか少し安心し、無謀な若者でないことに、内心ホッと息をつく。


「えっと……」


 ロイドの小さな呟きが、静まり返ったホールにかすかに響いた。彼は指先で依頼書をなぞりながら、何かを思案しているようだった。


 昨日私が伝えた初歩的な説明が、果たして彼の頭に入っているだろうか?

 それとも、背伸びをして高難度の依頼に挑もうとしているのか?

 彼の僅かな戸惑いに、私の想像は膨らむばかりだ。


 彼の少し俯いた横顔を見ていると、私の感情の天秤が大きく傾く。

 こんなにも、人の一挙手一投足が気になるなんて、自分でも驚きだ。

 受付嬢として十年も働いていれば、多くの新人を迎え入れてきた。だが、彼の醸し出す雰囲気は、これまで出会った誰とも違う。

 何が違うのかと問われれば、言葉に詰まるけれど、ただ、胸の奥がきゅっと締め付けられるのだ。


「何か、お困りですか?」


 職業柄、自然と声が出た。いや、これは職業柄だけではない。私自身の、彼をもっと知りたいという純粋な好奇心が、私を動かしている。彼の肩が小さく跳ねた。

 突然声をかけられたことに驚いたのだろう。振り返った彼の視線が、私を捉える。その瞬間に、私の頬に熱が集まるのを感じた。


「あ、いえ……その、どれにしようか迷っていて」


 ロイドは少し頬を染めながら、そう答えた。

 初々しい反応に、私は内心で微笑む。無理もない。昨日は私が一方的に説明をしていただけだ。こうして向かい合って話すのは、これが初めてなのだから。


「そうですね。最初のうちは、魔物の討伐依頼よりも、薬草採集や物資の運搬などの方が安全ですよ。町の近郊であれば、道に迷う心配もありませんし」


 私は努めて事務的に、しかし親身になってアドバイスを続けた。彼の目に迷いが宿っているのを感じ取ったからだ。

 彼は私の言葉に素直に頷き、再び依頼掲示板に視線を戻す。


 しばらくの間、彼は真剣な顔で依頼書と向き合っていた。その間、私の視線は自然と彼に吸い寄せられる。金髪、黒曜石のような瞳、そして細身ながらも鍛えられた体つき。どれもが私の目に魅力的に映った。

 特に、真剣に物事を考える時の、少しだけ眉間に寄るシワが好きだと思った。

 私って、いつからこんなに彼のことばかり考えるようになったのだろう。いや、いつからではない。あの時、あの瞬間からだ。


 私の頭には、ギルドの不文律――そして六年前の苦い経験以来、心の壁を築き上げてきた絶対的な戒めが重くのしかかっていた。

 それは単なる規則ではない。私の心の壁を築き上げてきた、絶対的な戒めだ。だが、ロイドのひたむきな眼差しは、その頑なな壁にひびを入れようとしている。

 もう二度と、あんな悲しい思いはしたくない。そう誓ったはずなのに、この目の前の青年を見ていると、その誓いが脆くも崩れ去りそうになる。


 なぜ、こんなにも彼に惹かれてしまうのだろう。たった一度顔を合わせただけの相手に、これほど心を乱されるなんて、私らしくない。

 冷静にならなければ。彼のことを知れば知るほど、またあの時の痛みと向き合わなければならなくなるかもしれない。

 そう頭では理解しているのに、一度捕らわれた視線は、なかなか彼から離れてくれない。


 彼が、ようやく一枚の依頼書を手に取った。それは、ギルドから一番近い森での薬草採集の依頼だった。

 うん、賢明な選択だ。私は心の中で頷く。

 そして、依頼書を手にこちらへ向かって歩いてくる彼を、いつも通りの笑顔で迎え入れた。


「こちらの依頼でお願いします」


 少し緊張した面持ちで、ロイドが依頼書をカウンターに差し出した。

 私はそれを受け取り、彼の冒険者証を改めて確認する。ロイド・グレイ。彼の名前を、私は心の中で何度も反芻した。


「承知いたしました、ロイド様。この依頼は、比較的安全なものですので、ご安心ください。ただし、森の中には野生の動物もいますから、十分注意して、もし危険を感じたらすぐに引き返してくださいね」


 私の言葉に、彼は少しはにかんだような笑顔を見せた。その笑顔は、昨日の初々しさとはまた違う、ひたむきな輝きを帯びていて、私の心をまた一層締め付けた。

 こんなにも純粋な笑顔を、この危険な世界から守り抜けるのだろうか。そんな余計な考えが、頭をよぎる。


 ロイドは、「はい、ありがとうございます」と短く答えると、くるりと踵を返してギルドの扉へと向かった。

 その背中を見送りながら、私の胸には一抹の不安と、そして抑えきれない淡い期待が同時に湧き上がっていた。


 どうか、無事に帰ってきてほしい。そして、また明日、この扉をくぐってくれることを、心から願ってしまう。


 私は、カウンターに肘をつき、ゆっくりと息を吐き出した。私の受付嬢としての日常は、間違いなくこの青年の出現によって、避けようのない心の揺さぶりという、新たな波紋が広がり始めていた。

 それは、もはや避けようのない、心の揺さぶりだった。


お読みいただきありがとうございます!

次回の第3話「鼓動と波及」は明日18時頃更新です。

どうぞお楽しみに!

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