《無音の裂界》
王の間に、咆哮が響いた。
だが、それは耳では聞こえない。
音として存在しないはずの叫びが、魂の奥底に直接届く。
理性が震え、心が軋む。
逃げ出そうとする魂を、肉体が引き留める。
それは、原初の恐怖――言葉も、音も、意味すら超えた“存在の叫び”だった。
七光の侵蝕者が、球体を貫いた。
虹色の魔力が球体を裂き、その裂け目から現れたのは――
人型でも獣型でもない。
キューブ型の存在。
中央には空間がぽっかりと空いており、周囲を黒銀の膜が螺旋状に包んでいた。
《無音の裂界》。
――漣エリアでそれが暴れた記録は、討滅庁の最深部で厳重に管理されている。
あの日、漣エリアは静かだった。
異常なほどに、静かだった。
鳥の声も、風の音も、足音すら消えた。
人々は互いに叫び合ったが、声は届かなかった。
通信は遮断され、魔導詠唱は無効化され、
ただ“沈黙”だけが支配していた。
そして、霧が立ち込めた。
黒銀の粒子が空気を満たし、視界を奪い、
その中から《無音の裂界》が現れた。
空間を裂きながら歩くその姿は、まるで“音の死神”だった。
音を奪い、記憶を歪め、
人々の“声”を喰らっていった。
漣エリアは、今も霧で覆われている。
《無音の裂界》に襲われ生き残った生物は、二度と声を取り戻せなかった。
そして今――
その新たな災厄が、王の間に現れた。
七光の侵蝕者セプト・ソートス・ヴァルガは、虹色の羽を揺らしながら微笑む。
「いらっしゃい、《無音の裂界》――ミスト・ハウリング・ゼロ」
現れたのは、キューブ型の存在。
だが、次第に黒銀の霧に包まれ、輪郭が歪み始める。
霧の中から現れたのは――《無音の裂界》。
知性を得たその災厄は、近くにいたマリアを模写し、
人間の形をとって現れたのだった。
――マリアに似た姿。
だが、その輪郭は不完全で、無機質な部位が混ざり、機械じみていた。
「我を起こしたのは貴様か」
その声は機械的で冷たい。
だが、どこか怒りを含んでいた。
セプトは肩をすくめ、軽く手を振る。
「怒んないでよ。名前、長ったらしいから“ミスト”って呼ばせてもらう。
ちなみに私も長ったらしいのよね。
そうね、これから“セプト”って気軽に呼びなさい」
《無音の裂界》は、少しだけ感情が芽生えたのか、
しばし沈黙の後、静かに呟いた。
「……ミスト」
その響きに、納得したようだった。
だが、すぐに表情が曇る。
「なぜ目覚めさせた。あそこは……いい。貴様は、許さん」
ミストが叫ぶと、空間が一瞬で無音に包まれる。
音が消え、空気が凍りついたような感覚が広がる。
マリアに似た姿のミストが、指を指揮者のように振る。
その動きに呼応するように、空間が震え――
セプトに向かって、無音の爆弾が放たれた。
それは見えない。
だが、感じるには僅かな揺らぎだけ。
セプトは即座に反応する。
虹色の鱗粉を巻き、空間の揺らぎを瞬時に察知し、
爆撃を回避する。
(もーーー、声でないじゃない。
やっぱ目覚めさせない方が良かったかしら)
セプトは軽口を叩きながらも、内心では焦りを隠せなかった。
その超ド級の戦いに、
王座の座る、マリアは静かに息を整えていた。
周囲では、音のない異形同士の戦闘が続いている。
だが彼女の瞳は、戦いではなく“脱出”に向けられていた。
(あの化け物たちが戦っている隙に……考えろ)
マリアの青い瞳が緋色に染まり、神眼が発動する。
視界が変質し、王座の構造、魔力の流れ、
空間の断層――すべてが解析対象となる。
彼女は王座に刻まれたレギス術式を視認し、
それを“コピー”しようと試みる。
だが、神眼の能力には制約があった。
《ゼロ・コーデックス》――
無垢なる書に変換された優の存在を媒介としなければ、
コピー能力は発動しない。
(ならば、領域術で補完できる可能性は……)
マリアは思考を加速させる。
神眼の解析能力を最大限に活用し、
王座の魔力構造と自身の神経魔導を同期させる。
彼女の脳内には、数式と術式が高速で展開されていた。
空間の位相、魔力の干渉波、精神リンクの断片――
それらを組み合わせ、擬似的な《ゼロ・コーデックス》領域を構築する方法を模索する。
(もし、優の精神波を一時的に“書式化”できれば……
神眼のコピー能力を限定的に起動できるかもしれない)
その瞬間、王の間が揺れた。
無音の戦場で、異形の咆哮が“魂に響く音”として広がる。
ミスト・ハウリング・ゼロ――
知性を得た《無音の裂界》は、指を壮大なオーケストラの指揮者のように振り、
空間を指揮するかのように攻撃を繰り出していた。
その動きは、優雅でありながら、恐ろしく的確だった。
思考という概念を理解したミストは、瞬時に戦術を構築し、
セプト・ソートス・ヴァルガを圧倒し始める。
セプトは、避けきれなくなっていた。
無音の爆撃が、彼女の周囲に次々と着弾する。
「も〜う」
その声が響いた瞬間、空間が揺れる。
エミリーに似た声色が、王の間に広がった。
セプトは虹色の羽を広げ、ゆっくりと回転しながら舞い始める。
その動きは、まるで歓喜の舞。
「やっと効いてくれたわね」
彼女は鱗粉をミストにかけ、精神を操ることに成功していた。
知性を持った災厄は、逆に“感情”という弱点を晒してしまったのだ。
「知性があるなら、私と相性バッチよ」
セプトは可愛くポーズを決める。
その瞬間、ミストの指は止まり、目は虚ろになっていた。
精神汚染――その本質を体現する存在。
七光の侵蝕者、セプト・ソートス・ヴァルガ。
彼女は、知性ある災厄すら“踊らせる”化神だった。
「流石に疲れたわ」
七光の侵蝕者セプト・ソートス・ヴァルガは、
虹色の羽を揺らしながら、額に手を当てる仕草を見せた。
その動作は、まるで人間のような“疲労”を演出していた。
虚ろな目でセプトを見つめるミスト・ハウリング・ゼロ。
洗脳の進行は確実に進んでいる。
セプトは、ミストの頬をペチペチと軽く叩く。
そのたびに、ミストは機械的に頭を上下に動かしていた。
「どうせネロが回復するまで来ないでしょう。二〜三日ぐらいかしら。
それ以上経てば、この子も完全に私のもの。洗脳がより深まるわ」
セプトは悩むふりをしながら、王の間をうろうろと歩き回る。
その姿は、まるで舞台の上で演技をしているかのようだった。
「そうね……マリア。
あんたの体の一部でも切り取って、脅しに使いましょうか」
虹色の瞳がマリアに向けられる。
セプトは、得意げに微笑みながら言い放つ。
「私って、頭いいわよね」
マリアは王座の前で、必死に解析を続けていた。
神眼は発動しているが、
まだ《ゼロ・コーデックス》の擬似領域は完成していない。
(まだ……終わらない。間に合わない……!)
絶体絶命。
その瞬間――空間が裂けた。
「うおおおっ!?」
「離れろっバフ!」
「ネロぉぉ!」
亀裂の中から、もみくちゃになりながら飛び出してきた三人の影――
優、ネロ、バフ。 優は勢いよくネロに抱きつき、
バフはそのままネロの頭を抱えるような形で巻き込まれていた。
三人は空間の裂け目から飛び出した瞬間、バランスを崩し、
王の間の床をゴロゴロと転がりながら着地する。
ネロの背中に優がしがみつき、 バフはネロの頭に腕を回したまま、
ぐるりと一回転して着地。
その様子は、まるで三人で一つの塊になって空間を突き破ってきたかのようだ。
転がりながらも、優の緋色の瞳は真っ直ぐマリアを捉えていた。
その瞳には、恐れも迷いもなかった。
マリアは思わず叫ぶ。
「優――!」
その声が、王の間に響き渡る。




