白銀の跳躍者
ネロ・エルバートン――七大貴族の一柱、エルバートン家の三男。
その稀有なレイズ能力と領域術は、歴代の一族の中でも群を抜いていた。
一部の貴族たちは「長男を差し置いても、ネロ様こそがこそが当主にふさわしい」と囃し立てた。
だが、当の本人は早々に廃嫡を願い出る。
「私は当主の器ではないし、私の能力はこのニルヴァエリアに使いたい」
――本音を言えば、ただ面倒だったのだ。
兄弟仲は悪くなく、むしろ上の二人はニルヴァエリア特有ののんびりした性格で、
「ネロが継いだ方がいい」と本人たちが言うほどだった。
だが、ネロは兄たちとは違う。
(俺は……こんな所じゃなくて……)
彼が目指してやまない場所――それは、《アル=ミラヴァス》
世界の最奥、王の間へと至る道。
ヴァーミント自然公園。
ニルヴァエリアの山間に広がる、幻覚干渉の少ない静かな緑地。
その空の下、ネロ・エルバートンはフリスビーを手に立っていた。
「そら~、とって来い!」
軽やかに放たれたフリスビーが弧を描いて空を滑る。
それを追って、バフが必死に走った。
「はぁ……はぁ……」
息絶え絶えながらも、彼は一生懸命だ。
最近では、ネロの名前も覚え、言葉も少しずつ増えてきた。
フリスビーを咥えながら
「ネロ、どうだ……うぅまいだ!」
ネロは笑いながら、鹿肉のジャーキーを取り出した。
「バフ、そら」
差し出されたジャーキーに、バフは目を輝かせる。
「ネロもどくれ!」
うまい、うまい――と叫びながら、ネロの周りを駆け回るバフ。
その姿は、まるで犬のようだった。
「こらー! ネロ、バフ君に何させてんのよ!」
遠くからエミリーの声が響く。
風に揺れる金髪、眉をひそめながら彼女は歩み寄った。
「これも治療の一環だ。しょうがないよね」
ネロは悪びれもせずに答える。
バフは事故の後遺症で喉を傷め、頭の当たり所が悪かったのか、
知能が著しく低下していた。
記憶障害、言語不十分――
だが、何かの拍子に改善する可能性もあるとされていた。
「動ける範囲内での運動や、よく会話を促すこと。
それが、少しでも回復の糸口になるかもしれません」
医師の言葉を思い出しながら、ネロは視線を落とす。
エミリーはため息をつきながら、バフの手を取った。
「馬鹿なことさせないでよ。バフ君、お姉ちゃんと一緒に本読みましょう」
だが、バフは元気よく叫ぶ。
「メシ! メシ!」
ネロは肩をすくめ、笑った。
「相変わらず君は、食べることしかないのかい?」
その言葉に、バフは胸を張る。
「メシ食う!」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
エミリーも呆れながら、口元を緩めてしまう。
その日、エミリーを帰したあと。
ネロは静かにバフへと声をかけた。
「バフ、そろそろ行こうか」
包帯で全身を覆った小柄な少年が、黒い瞳でネロを見上げる。
「めし?」
「ああ、たんと食いなさい」
ネロは黒と銀を基調にした軽装戦闘服に着替えていた。
彼はバフの手を取り、発動する。
《メモリア・ヴォルト》
一度訪れた場所へ瞬間移動できる能力。
ただし発動には精密な記憶が必要で、場所の構造まで覚えていなければならない。
忘却や曖昧な記憶では決して転移できない。
空間に“銀の裂け目”が走り、跳躍紋が光を放つ。
「成功だ。行くぞ、バフ。アル=ミラヴァスへ」
閃光とともに、二人の姿は消えた。
アル=ミラヴァス――階層不明。
殻の玉座の前に、四つの球体が静かに胎動していた。
その右端、ひときわ脈動の激しい球体が裂ける。
中から這い出たのは、人形のような存在だった。
蝶の羽を背に生やし、七色に輝く光を纏う。
その羽が広がると空間が震え、鎖の奥に封じられた“何か”を凝視した。
やがて、人形の顔に“女性の顔”が浮かび上がる。
「あんたには感謝している。
私に知能を与えてくれた。
でも――アソコは、ツマラナカッタ……」
その瞬間、アル=ミラヴァス全体に地震が走った。
すべての観測機械が故障し、記録は途絶える。
そして――災厄は動き出す。
第73階層。
そこは、魔力が腐食し、空間が歪む地獄のような領域だった。
モンスターと人間が混在し、ただ混沌だけが支配している。
蝶の羽を生やした女は、こと切れた人間の傍に降り立つ。
一体ずつ、確かめるように食らいついていった。
「へぇ……クラウゼヴィッツ? 七大貴族ね」
死者の記憶、血脈、魔力構造――
女はそれらすべてを喰らい、取り込んでいく。
やがて、クラウゼヴィッツ第六探査隊の唯一の女性隊員へと近づいた。
「この顔、嫌いなのよ~。アンタに決めた」
その瞬間、人形の姿が変化を始める。
肉体が形成され、髪が揺れ、瞳が生まれる。
「んんん……あんなつまらない所じゃなくて、
上はきっと退屈しないはずよ~。
退屈なら――壊しちゃえ」
殺した女性隊員の姿を纏い、
背に広がる虹色の羽が、空間を裂いた。
《七光の侵蝕者》――
その名を持つ災厄は、ついに地上へと降り立った。




