虹の民の都
アル=ミラヴァス階層???
そこは、既知の地形構造や魔力密度の常識を超えた領域。
空間は静かで、だが確かに“生きている”ような気配を孕んでいた。
「ここが底か……な……」
男の声が、虚空に溶けるように響いた。
その声に応えるように、別の声が柔らかく、しかし冷ややかに返す。
「やだ、久しぶりじゃない……
が、ここに来るなんて。仕込んだ甲斐があったわ」
沈黙。
男は何も言わない。
ただ、目の前の人物を見つめていた。
「はぁ……なによ、その能力。
失格ね。私は愛してるの、このダンジョンを。
滅ぼさないのよ、貴方じゃ、この……」
言葉は途中で途切れた。
男は、襲い掛かるその憎悪の目。
「もういいわ……もう一人。そう……行きましょう」
地に落ちるものと、上がるもの。
その境界が、ここには存在しない。
「……必ず……」
その言葉が、空間に残響する。
そして――
アル=ミラヴァスの巨大な空間が、静かに姿を現す。
殻の玉座。
誰も座っていない、だが確かに“誰かがいた”痕跡を残す椅子。
壁には、永遠に続く無限の鎖。
その鎖は、空間の理を縛るように張り巡らされていた。
微かに聞こえる声。
それは、言葉ではない。
ただ、存在の“揺らぎ”が、耳に届く。
そして、中央に浮かぶ三つの球体。
それらは、まるで心臓のように胎動していた。
ただ一つ――
その球体は裂け、朽ち果てていた。
それは、かつて“王”になり損ねた存在か。
あるいは、世界に拒絶された“構築の失敗”か。
ニルヴァエリア――かつて《虹災夜》の影響を受けた地。
五百年の時を経てもなお、魔力構造は不安定で、
特定の時間帯には“幻覚干渉”が発生する地域が多い。
そのため、住民たちは“虹の民”と呼ばれている。
彼らは感覚が鋭く、精神共鳴に長けており、
日常の中で微細な魔力の揺らぎを読み取る術を身につけている。
文化的には、祈りと記憶を重んじる儀式が多く、
再生を象徴する“七光祭”が年に一度、盛大に開催される。
虹の残響が空に漂う中、民たちは静かに祈りを捧げる。
そんなニルヴァエリアの首都――その名は《ヴァーミント》。
山間の奥深く、最も幻覚干渉の少ない場所に築かれたこの都市は、
交通の便が極めて悪く、外界との接触も限られている。
街は質素で、石造りの建物が斜面に沿って並び、
人々は細々と、しかし穏やかに暮らしている。
通信も制限されており、情報は主に“記録者”を通じて伝えられる。
ヴァーミントの空気は澄んでいる。
だが、どこか“静かすぎる”と感じる者もいる。
それは、空間そのものが“記憶を抱えている”からかもしれない。
他のエリアとは交流が少なく、
訪れる者は皆、虹の民の“沈黙”に圧倒される。
だが、その沈黙の奥には、確かに“語られぬ歴史”が息づいていた。
ニルヴァエリアの山間。
その日、空は澄み渡り、風は静かだった。
ヴァーミントの奥地――幻覚干渉の少ない狩猟区にて、
ネロ・エルバートンは銃を肩に抱えていた。
「……ここだ」
細目の銀髪の男が、木々の間に身を潜める。
銃声が鳴ると同時に、二頭いた鹿のうち一頭が倒れた。
「いえぃ、上手くいったぜ」
ネロは男は長身で、
目は細目、髪は白銀で陽光にさらされてサラサラと揺れていた。
その身に纏うのは、ニルヴァ伝統の猟師装束――
濃緑の厚手ジャケットに、肩と肘には革の補強。
腰には道具袋と魔力計測器がぶら下がり、足元は泥に強い編み上げブーツ。
首元には、風除けのスカーフが巻かれていた。
名残惜しそうに逃げ出したもう一頭の鹿が、
一瞬だけネロを振り返り、恨めしげな目を向ける。
「悪いね、こっちも生きるためさ。
おっ、良い大きさ。今日はご馳走だ」
ナイフを取り出し、ネロは手早く鹿の解体を始める。
その動きは慣れていて、無駄がなかった。
だがその時――
空間が、裂けた。
「領域干渉だと……」
ネロは細目をさらに細め、手に領域術を展開する。
空間の歪みを読み取り、魔力の流れを探る。
「アブレーションか……一旦、仲間を呼んでくるか」
思案するネロの前に、裂け目から“人間”が現れた。
「……エクソジェン」
ネロはすぐさま駆け寄る。
その人物は火傷がひどく、皮膚は焼け爛れ、魔力の痕跡が乱れていた。
「これは……」
ネロがその人間に触れた瞬間、何かが“流れ込んだ”。
「はははは……こりゃツイているな」
余りにも幸運に、ネロの瞳が開かれチラリと虹色が。
それは、エルバートン家の“呪い”。
虹の瞳――災厄の呪いを継ぐ者の証。
そして、ネロは火傷を負った人物を抱えながら立ち消える
ビルのテナント街。
その一角にある、知る人ぞ知る大食いの聖地。
今日も挑戦者を待つ店内に、馬場太郎はカメラをセットしていた。
「え~、ここ……屋の特盛。制限時間45分で行かせてもらいます」
カメラ、ヨシ。
目の前にタイマーをセットし、馬場は小さく深呼吸をする。
「いただきます」
馬場太郎――最近活躍中の大食いユーチューバー。
小柄な体格ながら、これまで一度も失敗したことがない。
その安定した実力と、礼儀正しい食べ方が人気の理由だった。
この日も、馬場は自信に満ちていた。
(よし、これなら行けそうだ)
食べながら、店の雰囲気やメニューの紹介を交え、
「この体でこれだけの量を食べてるっス」と軽快に語る。
スピードは落とさず、行儀よく、淡々と食べ進める馬場。
だが――その瞬間だった。
目の前が、突然火に包まれた。
一瞬の爆発音――「ゴーッ」という轟音が店内を揺らす。
「え、なに……えええっ!?」
カメラが乱れ、画面が揺れる。
「ぎゃーー! あちぃぃぃ!」
他の客の悲鳴が重なり、店はパニック状態に陥った。
火の粉が舞い、テーブルが倒れ、誰もが逃げ惑う。
馬場は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
熱が肌を焼き、視界が白く染まる。
(嫌だ……死にたくない……)
そのとき――耳に、微かに届いた声。
「……王…………」
それは、誰かが囁いたような。
あるいは、空間そのものが語りかけてきたような。
馬場太郎は、その言葉を最後に、意識を失った。
ニルヴァエリアの首都ヴァーミント。
その中心にそびえるひときわ大きな建物――《ブラックハウス》。
何物にも染まらない“黒”を基調に建設されたこの建物は、
ニルヴァエリアの政務の象徴であり、災厄の記憶を封じる“静寂の城”でもある。
その客間の一室。
質素ながら整ったベッドの上で、全身包帯の馬場太郎は目を覚ました。
頭はふわふわと浮いているようで、
自分が何をしていたのか、どこにいるのか――何も思い出せない。
そのとき、声が聞こえた。
今度は、男の声だった。
「君の名は何だい?」
馬場は、微かに瞳を開ける。
視界に映ったのは、細目の銀髪の男――ネロ・エルバートン。
「ばばふ……」
声が上手く出ない。
いや、思考そのものがまとまらない。
ただ、口から漏れるのは「バフ」「ばばふ」と繰り返す音。
ネロは少しだけ眉を上げると、あっさりと頷いた。
「わかった。君の名は“バフ”なんだね」
決定とばかりに言い切るネロ。
その瞬間、部屋の扉が開き、柔らかな声が響いた。
「えええ、そんな簡単に決めたら駄目じゃない? ネロ」
そこに現れたのは、目尻が垂れた優しげな顔立ちの女性。
ミディアムヘアの金髪が、朝の光に揺れている。
彼女の名は――エミリー。
エミリーはネロの隣に歩み寄り、ベッドの脇にしゃがみ込む。
バフ――いや、馬場の顔を覗き込みながら、微笑んだ。
「こんにちは。ここは安全よ。
あなたが誰なのか、ゆっくり思い出していきましょうね」
その声は、まるで“再生”を促すように優しかった。
ネロは肩をすくめながら、壁際に立ち、
ブラックハウスの窓から外を見やった。
「名前なんて、意味は後からついてくるさ。
今は、“生きてる”ってことが大事だ」
その言葉に、エミリーは小さく笑った。
「それでも、名前は“始まり”なのよ。
この世界で、あなたが誰かになるための――ね」




